閃ワード 数と文はウ冠の子…から始まるそれは宗の示し(始まり)であり完の元(終わり)…を伝えてきた観が…ヤハウェだと?!Σ(゚д゚;)という観点のお話
数と文はウ冠の子(字)
ある漢字一文字から、『一文字で繋がる物語』を静かに『亜空間』で繋げていた
音の心、立つ日の心を言う音の我
=意識
こんな感じで『動機』を読み取っていた時
数字と文字には『字』という表現が『共通』してる事に気づいた
どちらも『形』が違うだけで『記号』であり字
では『数と文』は何が違うのか?
という観点で捉えた時、『漢字分解読み』をしてみると・・
数=米の女ののぶん(鞭で叩く)
文=交戦する剣を上から止める(戦を止める武)
『数は奴隷支配』から生まれた
『文は争いを止める気持ち』から生まれた
どちらも『ひとつの物事』から生まれた二元性
ウ冠の子=『結果』であり『宗→完』示しの元である
『示し(始まり・果)』であり『元(終わり・因)』である
始まりと終わりが『あべこべの因果』
だから『子=字』から始まっている
この字を覚えて『各自字書』する
数も文も出処が一緒だが『思い』が違う結果
数字は『理系・合理で競争』を管理・支配する
文字は『文系・道理で競争』を管理・支配する
数字は『争いのルール・中』だとするなら
文字は『ルールの逸脱を阻止・外枠』とする
これが数と文の『教え』だが
その教えの『派生』もまた違う事に気づいた
『術』は数字に結びつく『数秘術、算術』というが
『文術』とは言わない
文は『碑文』という継承になる
後世に伝えるために、石面に文字を彫って記念として立てた石
石の由ヰ=意志の自由の意・居
立つ日の心はここに居る文=碑文
弥勒=あまねく全てを自己表現で石に刻む
先人が後世の為に『遺した想い』
文は『戦を止める為』の『警鐘の継承』
何故、そんな『億劫』な方法で伝えるか?
それは『目先の数の秘密の支配の術』が蔓延しているから
数秘術は『目先の欲望=ビジネス支配』
碑文は『警鐘の継承=争いの法則を説く』
漢字一文字で、『現代の問題』だけでなく、『科学の暴走』、『精神の停滞』『唯物テクノロジーの進化』とそれを制御する『唯心テクノロジーのバランスの警告』
『MoNoLith』だって『碑文』である事からそれは『警告』であり『継承』の文字。文字は読めなくても、それは『争いを止める意志である』という観点…
そう…この『観点』がどこから来た?Σ(゚д゚;)と思ったら、…これが一番納悳した
観=ヤハウェ=やはり上
光陰『矢』の如し
隹=先人
見=右目
観自在点(ㅎ.ㅎ )=『観測点・目の付け所』
それは『ヤハウェ』であり『やはり上から目線』
『上から目線で物を言う…』というのは現実では『レッテル言葉』になってるが…実際、『争いを離れて達観』した所から
「また無知な弱者を利用して神様支配ごっこか」と
競争や争いに『呆れ言葉』になってるとしたら、それに対して「上から目線だ!」と反発するのは
( ̄b ̄)シーッ!黙れ!悪巧みがバレるだろ!あっち行け!デマだ!陰謀だ!
と言っているようなもので
『門前の小僧習わぬ経を読む』というのも
門下生として囚われている『無心で宗教を盲信している無知蒙昧』に『多数決の詐欺師に騙されるなよ?』と
実質は『預言の苦言の碑文』を読み上げ、『数に囚われて口封じされている人達』を改心させる
これは宗教の『改宗』
『科学者』が『精神世界を認める』ような
『現実的常識主義者』が『精神的夢の多世界を認知』するような劇的な変化
『数の教えの目先の道』ではなく
『文の教えの遠い未知』を目指す
数が生み出す『量子論は先が見えてる世界』
文が生み出す世界観は『未知との遭遇で一瞬で変わる』
…という、どこからでも、『ひとつ上の目線という観点』が生まれる
なぜなら、字はひとつの物事から生まれた
子=示(宗)=元(完)=元を示す
『始まり=終わり』だから
俯瞰している『上=元』に戻れば
『未来の二元性』を観たひとつの点
観=ヤハウェ=やはり上=『預言者』
光陰矢の如し =光(周波数)
隹=先人=光となった(恩恵)
見=右目=真の実を見通す
実は枝分かれした果の『果実』であり
現象となって現れる『現実』
その『末端のひとつの現実に囚われる』事無く、『元の始まり』に意識が戻れば…
今回のような
数と文(因)という『字』(果)
数学も文学も『子』が対象
奴隷支配の目先の『数秘術・算術の教え(商売・ビジネス)』
その『支配の未来』を見通した『警鐘の継承の碑文』(預言の苦言)
…って『気づく流れ』は計算ではないし、その『ひとつ上(元)の観点』がヤハウェ
となるきっかけも『計算』では出てこないし、『目に見える理屈』がないから計算では『納悳』出来ない
『観=ヤハウェ』と訳した後に、もうひとつこれはあってるかもな?と感じた確認方法
カタカムナで ヤハウェ の言霊は
飽和して引き合い生まれ自然に投影
物事を『見通す観点』
『ウ冠』の最初の『目』線(ㅎ.ㅎ )
私達は『現象』になった『結果の現実』
『字』という『子の目線』しか持たない
示された『結果である子』が『元は何だった?』と『完成』を求める
そして『元』を辿った『観点』に至ると
それは『始まる前に予想』していた『預言者』
「どうせこうなるって」┐(´д`)┌ヤレヤレ
『そうならない選択』をしていた『先人達=光陰矢の如しの隹が見ていた=観』
その観点では『直接介入』しないから、「数の先は無いぞ?」と量子論の想定内を見通し、改宗する意志がある者の為に『碑文・MoNoLith・預言』を遺して『ほっとく=仏悳』
自由な意志、『確固たる石の自由』は『文の表現』にある=『碑文』
極端→無(有)←極端
カタカムナで 碑文 の言霊は
根源の内に強く増える=自由に自己表現を示す
『可能性』を様々な『言葉で表現』する事で
『危機的状況』を『回避』も『抑止』も出来る
それが『文の力』だが、それは『数(可能性)』には出来ない事
数に囚われてる限り『%の世界』から出られない
『100%は存在しない』とよく言われる
数字の世界でも『それ(絶対)を否定』する
まるで『100』を『恐れ多い神とでも崇めている』のだろうか?
『99(アッラー・99の名を持つ創造主・九十九神)より上』があってはいけないとでも?
しかし『文の世界』は違う
「ここであったが100年目(宿敵)」
「密後の魂100まで(ケジメ)」
「百鬼夜行(有象無象)」
「百聞は一見にしかず(見極め)」
100という『数字』をしっかり『節目』にしているが、これを『数の論理』には当てはめると『100%は存在しない=これらの物事は机上の空論』として『有る無し』を『可能性の%で計算の算術』に置き換えようとする
『%=96』から『分離の形=0/0』の時点で「死(4)を有耶無耶にして苦労(96)が絶えないね┐(´д`)┌ヤレヤレ」と文は言う
だからここが大事な見極めだが
『数・多数決』と付き合うと(応え合わせに)疲れるし『(同調圧力に)憑かれる』し『(背後から)突かれる』よ?
疲れるとは『自由な発想』が出来ない
憑かれるとは常に『競争意識で忙しい=ビジネス』
突かれるとは、隙を見せると染めようと『価値観の押し付け』をしてくる
まだ先のわからない『未知を楽しむ心の余裕』が無いし、『理解できない事が怖い』から『先に襲う・破壊する』という心の余裕のなさ=『忙しい』
焦りは禁物
『隹』を『支える心』は『とどめるもの(林=禁忌を示す)』
文は『焦り・争いを止める事』から生まれる
『心が穏やか』に落ち着いてから自由に筆が乗りに『表現』が生まれてくる
『数々(極端)』の争いを
『踏み(文)』とどめる(禁)
それが『碑文』という『後世』に託す
ひとつ上の『観点=ヤハウェ=預言者』
『数の預言者(偽ヤハウェ)』って言うのは…『都合のいい理屈』しか言わんよ
『二つ』ある石版(十戒)の『ひとつを叩き割ったり』な?(笑)
その行動が『文として記録』されている事事態が『都合のいい事を鵜呑みにしない為』の継承の証
『叩き割られた預言の碑文』には何が伝えられていたのか?
『バチカンに保管された預言』には何が書かれていたのか?
碑文を取り巻く環境、『碑文は都合が悪い』という『文』を押さえつけるのが『数の秘術』
『一人の文言』よりも、『お抱え専門学者の数で黙らせる』
『質』より『量』で誤魔化す
そういう数と文の『質が違う二元性』が混ざっている世界(混沌)と認知する観点
その『元』から捉えた時、今までは『数こそ正しい』と思っていたが・・『数を使う』のはだいたい『都合のいい不正』をする『歪の性質の人間達』である
『文字』は『可能性』に囚われないで『自由に想像と創造』ができるからこそ、自然発生して、自然に現象して、気づいた者によって継承され、それら気づけと警鐘の形象とにっていき
結果、『その世界から離れる事』を決めた『予言者=予め言う者=真言者』の『預言=預けた言伝』として、碑文として伝説になる
伝説=預言になったという事は・・もう『予言者はいない』という事
私達はその『預言者の結果の世界』を生きている
予言した者は「ほれ観た事か!」と高みの見物=観測をしている
『目先の数字』ばかり見て、ちゃんと『先人』が遺した『訓戒の言葉(ことわざ)の形象を継承』しないから、そうなるんだよ?と
私は四字熟語やことわざの意味を忌として深堀するたびに、とんでもない規模のスケールの観点の言葉に感じる景色が見える事がある
数字より文字
示しの元→宗の完成
そこに教えはない
有るのは実践あるのみ
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