好奇心

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独自体感論 体温39℃と40℃の意識の境界線

体との神経リンクがほどんどないが意識は体と繋がってる39℃、束縛も解放も何も無くシンプルな選択領域の40℃…真の太陽フレアの影響はそこで受けるのかと理解した高熱時に捉えた量子の意識の話

闘病中の体温39℃と40℃の意識を振り返る

1週間で急性前立腺炎を自力で克服する 要因と対策と予防まで

これは、とても貴重な情報だけど、『自分で体感するまで』は何の役にも立ちません。私が実際に『39℃・40℃の熱の状態の意識』で忘れないうちにまとめた内観メモ

40℃

体温が39℃台は暑さも寒さも無く痛みも鈍く、ただ体の神経リンクが繋がってるだけで、上手く操れないふわふわしたマリオネット状態

例えるならば、体はメカニックの免疫によって性能が上がってる状態でパフォーマンスは最高のF1マシンだがそのチューンにドライバーのコントロールがついていけない

あるいは夜店で金魚すくいの時に
ゆっくり水に…→バシャーン
そーっと横に…→どバシャーン

最初はおもろし半分に遊ぶけれど、思い通りに動かないと面白くなくなって、そのうち体を動かすのを止める

これが39℃の内観の主観の実態

なので客観的に高熱を確認した場合、意識朦朧とは思わない事

内観39℃の洞察力

むしろ意識がはっきりしてる(普段以上に優しく、普段以上に正直に対応する事をおすすめします)

相手を感情で見ていないので、悪口はより深く根本から人間性を洞察し、感謝や労いの言葉は深く染み入り、『再生後の人間としての関わり方』に影響

体が高熱で弱ってる時は意識がいつもより感度が上がってる。故に『患者が看護師に恋してしまう』と言うケースは分からないでもないと感じた

勘違いしてはいけない

自分の体が『思い通りにならない』=相手の体にも『興味の対象(判断)は無』と意識は洞察している

この人は『どういう意識』で体を動かして『どんな目的』で動いてるんだろうと、そこは『見た目のスタイルとか声色・清潔な匂い』ではなく、『献身的行動の結果』しか見えない(職業)

仕事だからとか割り切って考えるのは『体の痛みや神経に引っ張られて鼻水垂らして咳込む』ような『低レベルな病』状態

体は半死状態で『意識が目覚めている』時は同じように『意識は意識をリスペクト』する。例え仕事であっても、その意識が意識した対象の『行動の質』というものは『差』がある

健康ならば無意識レベルで『手抜き』をしそうな所をしっかりとやってる人は、それだけ体が弱っても『意志が強い=意識がリスペクト』に値する

だから、まさに『白衣の天使というイメージ』を誰かが『言葉として遺した』気がする

『俯瞰の意識』ではなく『肉体の自我のエゴ』から見れば着衣の『コスプレ=白衣の天使』
『シチュエーションとキャラクター』という『偶像を見ている』のだろう

内観39℃で見たユング解説動画

『頭でユングを知ろう』としてた時は『整理できない情報』だった。でも『39℃の意識』だけで見たら『ユングという意識』が語るのは『夢研究と仏教思想 』だけだった

『だけ』…とまとめるには、『夢』も『仏教的量子論』もとてつもなく『現実的自我』には『広範囲』ではあるが、『意識』から見ればそれは『ひとつ』に過ぎない

「なんだ、それだけなら俺も同じだよ」と『意識』は簡単に『ユングに共感する理由』を見つけて『納悳』して満足した

健康な時(体温約36℃台)は、『なぜユングに惹かれるのか?』『どうしてここまでシンパシーを感じるのか?』そして次から次へとユングへ繋がる『シンクロニシティが?!』…と思ってたけど

それは『健康な肉体の自我(精神)』の方であって、それらの『行く末を統括する意識』からすれば、『意識がリスペクトする意識』へと『意識を向けて選択』していた

結果は『(心と体、人生模様・歴史・人物像・趣味趣向)』『後(意識に従った心)』からついてくる

内観39℃の意識の相似

相似とは大小関係なく『同じ形でスケールが違うもの』で『倍率をあげ下げれば同じ』というパターン

『自分の前』に、自分を『ワンサイズスケールアップした存在』がいるとしよう。その存在をワンサイズスケールアップした存在がその前に、『同じように続いた』時、とてつもなく『途方もない大きな自分』が見えるとしたら『今の自分』と『どれだけの距離が離れてる』だろうか?

答えは『ゼロ』図るために移動しなければ『距離はない』視線上では 『縦1 』の『面の象』に過ぎない空間(例えの間)

つまり『意識』が『意識としてあるべき場所』を見つけ『先人の例に並ぶ』と収まったその意識が見るのは『綺麗に縦一列に並んだ相似』

ではその列がわかった状態で体を横に向けたらどうなるか?
答えは『何も見えない』

うっすらさっきまで前だと思っていたほうが自分より大きく、その反対は自分より小さいという『想い込み』をするだろう
実際は『前=背中をみた時は自分が最小』であり、後ろを振り返った時、『自分が最高地点』だ

邪な心の持ち主が下々の者から立場を護ろうと最高権力の現状維持に執着するのがわかるだろう?
それは後ろ向きな生き方でゼロ成長の世界を生む自分だけ意識

一方で、先人の背中を追う最小の自分という位置を受け入れる者は、無限の成長の先が開かれている
今この列にいるという事は、いずれ私はああなるのだという前へ進み、より大きく成長する姿が見えている

これが釈迦が入滅前に見せた虚空蔵菩薩、あれが入滅後の私であり、お前たちが辿る仏の道

それこそが『意識の拡大という相似』であり、私は多分、これが法華経でお釈迦様が表現した『多宝塔如来』だと意識は直感的に感じた
大きいから凄いでも、小さいから凄いでもない、それは『適材適所の役割』に過ぎず、仏の道を辿る者はどの時代、どの世界に生まれても、この道を踏み外す事は無い

なぜなら意識がそれを確認して、確信したから、例え自我が肉体と記憶を失おうと、同じ意志を持って生まれてくる器に入る事ができる

・・そうか、釈迦意識もキリスト意識も・・もうずっといろんな存在としていろんな時代やいろんな国に生まれてを繰り返しているんだ(名乗らなければいいだけ)

『体を持って復活』とか、それに『執着』しているのは、『教義』を理解できない盲信宗教の莫迦のひとつ覚えか
『宗教を盲信』しているのではなく、宗教が『盲信=目に見えて信じるものが亡い』しているのだ

そんな教えは何の役にも立たない人を食い物にするビジネスだからとっとと離れたほうがいい・・と理解できる人間の意識は少ない ←意識がリスペクトできる意識を探した結果

内観40℃の肉体

意識はもはや『肉体を少ししか動かせない』が何故か『呼吸だけが意識とリンク』する。体の状態を伝えるような熱くて死にそうな息切れ『感』=痛みも苦しみもない

『意識は俯瞰の状態』で「体ってここ(40℃)が限界ラインなのか(´・ω・`)」とヒッヒッフーなラマーズ法に付き合う他人の如く『自分の体の呼吸にリンク』していた

不思議な事に内観40℃の熱さは水等の『渇き』を求めていなかった。というのも39℃からは『飲んでも汗が出ない』とわかってたからだろう

『ちょっと動く』と『すぐに息切れ』するを繰り返し、『目を動かすのも息切れに繋がる』と理解したので『目を瞑る事』にした

『呼吸』が落ち着いた

これが瞑想で『体から離れた意識=ハイヤーセルフと繋がる』という事なら、やはりハイヤーセルフは肉体の細胞や神経の痛みや暑さ寒さの五感などの『肉体の制限から外れた自分』

空海の『即身成仏』はすぐに『肉体』を変えて『仏意識』に成る
『己の行い』を『内観して戒める』という『心と体の自己治癒』

今の肉体の自我が『すべき事では無い何か』に囚われそうになった時、全てのコントロールを『体から切り離した意識=39℃』に明け渡す

たまたま、ここで空海が修行し、「我、空海なり」と悟りを開いたエピソードにおそらくかけているのは

『風邪』

空と海しか見えない『冷えた洞窟』の奥で一人
人間である以上、何日も飲まず食わずの修行してれば『病=身体を痛めつけた自らの業の因果の応報』が始まる

真魚が『真魚の求める悟り』のために『真魚という肉体を虐めるエゴ』の空間

この苦行は『崇高』か?私は違うと思う

そこに『風邪』が張り込む事で真魚の体を蝕んだ時、『何が原因』で『真魚は高熱の淵をさ迷ったのか』を私と同じように知るだろう

真魚のままでは『人生』はそこで終わっていた。そこに『邪とな何か?』を伝える『風』が入って、『自分の身体を顧みずズダボロ』にして『借り物の身体を傷みに痛ませ』、『外ばかり』向いて『中を労わろう』としないで・・

その結果がこれか(´・ω・`)と『真魚』という『突っ走ってきた人生の終わり』に直面した時に

「いや、まだおわれない!私は『この体がまだ必要』だから直す!治してまた『甦る必要』がある!」

そして、「我、空海なり!」
真魚は『意識が空海』となった

そんな感じで、この世にまた『甦る』
『更に生きる理由と意志』を持つ『意識』に至った

何の『誓約も制限もない自分=ハイヤーセルフ=高次元の自己』はどんなに『自由』でも『肉体を伴う快楽や欲望を満たす邪念は何も出来ない』と、この『意識の絶対原則』を先に『病の克服で体験して理解』してなければ

まぁハイヤーセルフが『闇堕ちからの病み堕ち』へとどんどん導いていく事になる

まぁ『病み堕ち』まで行ってから身についた方が『再発防止もより効果的』だろう(自我は掌で転がされてる)

内観40℃の意識の取捨選択

目に見えるものが無い瞼を閉じた静かな暗闇。外の『日常の音』がかすかに聞こえると『息切れが起きる』と同時に、その音にまつわる『環境とシーンが再生』される

『特殊なバイク』の音(近所の人)
それが動く認知の『時間帯と曜日』
走る経路(近所を気遣う)の『映像再生と反響音』

これが『体と感覚リンク』がほぼ切れている意識が、無意識に『外の空気=音の振動』から取り入れて『観測する世界の正体』とすれば

『意識』は『呼吸で世界』を感じている
この時の『体の息切れの違い』も感じる

in → ハァハァ
out → ふぅー

このふぅーに関しては聞こえた『音(飲んだ空気)』を意識が『根源を無効化』した

バイクの音など『聞こえなかった』
吸った空気を『吟味した上でいらない』と吐きだした

これは『現実的な思考シミュレーション』では出来ない

「いや、聞こえたもんは聞こえたで事実です!無いものにはできません!!」と『有った前提の世界=過去』になる

意識はその『音が続く』と目を瞑っていても『バイクの経路の空間』にある『あらゆるものに関わった思い出』など、『意識の観測』が『際限なく体の負担』になると判断し

「最初から無かった」(´・ω・`)聞いてない

そしたら

ふぅー と抜けたのか
『封』と閉じられたのか

また『静寂で穏やかな闇』

息を『引き取る』という言葉は最後は『吸って』逝く
つまり、『最後に吸う息の世界』を『次の世界として観測』する

…臭いのは勘弁?w

俯瞰の意識は身体の呼吸で『楽か苦しいか』しか感じない(五感はない)

『生前好きだった物』で送り出す
誰が考えたかわからないけど『正しい死生観』の持ち主だ

ここで気づく

体感40℃の意識から見た真空の闇の相似

真空とは『何も無いが全て有る』

『体』と『呼吸のみ』で薄く繋がり、呼吸によってそこに『意識が観測する世界』が生まれ、その世界も『呼吸を無かった事』にして『吐き出して』しまえば『無に帰りまた真空』

我思う、故に我ありの『我』が無い
という事は我、『思わない』し、故に我も無い ← 真空

我=自我が無い
真我=呼吸の管理と世界の取捨選択=40℃の意識

『意識』は『息を吸い、吹く』まで『有るけど無い』

『吸った空気』が『いつの時代のどこの誰?』
それを『真我が観測』して『意識』を向ける

『興味』があれば『その世界をより深く意識』して、『その世界の空気』を取り込み『意識はそこで目覚める』だろう

真空の『無の状態』は『体に興味がなく自我もない』から『記憶(今まで持っていたあらゆる何か)に何の未練もない』から

それが『可能』なんだろう

39℃台の時、鼻に『線香の臭い』がした
家には仏壇もなく線香等使わない夜中

『息』は『それ』を吸い込んだ。『それ』が私に『その景色を見せた』のだとしたら…

息を『引き取る』
息を『吹き返す』

『体を動かせない』が『呼吸だけはリンクしている意識体』が唯一出来ることは、『楽に感じる空気を吸わせたい』

それは『肉体とリンクしている私の意識』もそうだけど、もはや肉体とリンクしていない『意識体として見守ってる先祖達』も同じ

私はどうやら先祖達に、『生息』を吹き返され、『線香の匂いで送り出された』ようだ

ちなみにこれは面白い事に、一度37℃台まで戻って、神社や薬師如来像に感謝に行った後、運勢見たら

『やっちまった!と後で後悔する』と書かれていた後に、ぶり返しで39℃に戻って終わりの見えない戦いに『弱気』になった時に『嗅いだ匂い』であり

完全に復活し、再発予防から実践対策までしっかりと自信が見について、再び報告に言った時に気づきました

薬師如来像の入った堂の賽銭箱の横に線香が立ってて、「あ、この匂いだとw」

内観40℃の意識を変える太陽フレア

太陽フレア・ソーラーフラッシュを勘違いしているとわかった。まず内観39℃で意識は肉体を上手く操れない面白くなさで『肉体活動に興味や執着はほぼ消える』

内観40℃で痛みも苦しみも暑さも寒さもないのに、『意識は呼吸とリンク』していて、その呼吸は『体の重さを伝達』してくる

この状態は全く苦しく無い

ただ呼吸の度に『吸った空気の環境を観測対象世界』として生み出してくる日常的な『思考シミュレーションが一日に数万回』あるのが『止まった状態』

『無意識の呼吸の連続』が『観測世界への意識の没入を高めていた』なら、消えそうな『断末魔の1呼吸1呼吸』は、その『空間的断片的な主観』しか捉える事が出来ない

むしろ、それすら肉体的には重荷で『体力消耗』するから、余程『意識の気を引く観測世界の空気』でなければ、「そんな空気は無かった(´・ω・`)」と無にされ『封印』される

『自我の主観』などなく、ただ『取捨選択基準』

その『意識と最低限の呼吸』だけの静寂の真空の中に、積み上げてきた財産、育んできた友情や愛情、今まで歩んできた一生に一回の人生…ぽつんぽつんと浮かぶ思いは

「そんなものは無かった」(´・ω・`)

これが『出来てしまう』のが『無(真空)の意識』だと気づいた

そこで『ソーラーフラッシュ・太陽フレア』の話だが、その『無の真空意識に至ってる人』は、影響が有るという事は『何も無い空間』に『観測する世界が浮かぶ』のがわかると思う

呼吸で取り込んだ『空気』とは『素粒子レベルで体の中を通る』が、『内観している意識』は『それに反応』する

そこにはもしかしたら、『様々な選択肢の景色』を『素粒子として伝えた空気』があるかもしれない

内観40℃の意識で理解する天の羽衣

天の羽衣とは

竹取物語』の末尾、かぐや姫が天界へ帰るときもやはり「天の羽衣」を着るが、それを着た途端かぐや姫の心は変わり、人間界との別れにも全く感情を持たなくなってしまう。

羽衣を着ると、心が人間とは変わってしまうから。 前の行、「衣着せつる人は、心異になるなりといふ」は、「着物(羽衣)を着た人は、心が(人間と)変わってしまうという」という意味

このように表現されているが、一度でもこの『内観40℃の人間ってこんなもんか意識体験』と無の真空に『呼吸で取り入れた空気』を『意識して観測』するのが『世界体験』であって、『興味が無くなった』らその『息を引き取って』ふぅーと『吐き出せばいいだけ』なんだ…

と、意識がその『無=真空意識の世界』を体験してきた状態での日常は『凄く余生』というか『惰性』というか…興味がなければもういいや…って感じ

そこに『誰も気づかないレベルで優しい太陽フレアの素粒子』が『空気』に紛れ込んで、「こっちの世界はおもろいで〜( ̄▽ ̄)」と『息』を吹きかけて『新たな世界を観測』させる

それが天の羽衣(人間界との別れにも全く感情を持たなくなってしまう)

五劫の擦り切れというのは実は3000年に一回の周期で天女が地球上空をゴシゴシと袖で吹いて綺麗に磨き切るまで計5回の15000年物語

これがもし『皆を救いたいという大規模なもの』だとしたら、『天の羽衣』というのは『個人レベル』でという事でもあり

覚悟=覚えた悟り=体感無くして理解なし!理解したとて言葉じゃ正しく説明できません!とそれを『無意識レベル』で持ってる人は

『来たる時』が来ても『焦る事』は無い
『自動的に眠り』に落ちてそのまま『次の世界』へ

覚えておいてほしい、体温が上がればあがるほど肉体は衰弱するようにみえるのは三次元的客観の現象だが、主観的な意識は39℃からは体の苦しみとほとんど切れてふわふわしている

ただ神経は思い通りに伝わらず、行動も思い通りに動けず、何にもうまく行かないからつまらなくてふて寝しても、寝るという感覚すら奪われて、ほんとにつまらないから、人間という仮の器に急速に興味が無くなっていく

40℃になって初めて肉体とのリンクを取り戻すのは、呼吸だけ
『どんな息』を引き取り夢(景色)を見て、『どんな世界』に息を吹き返すか?

目は何も投影していない真空の闇の中、呼吸している空気の循環が汚いと嫌な景色ばかり見て息切れをするが
そんな闇の中に『太陽フレア(素粒子)』が現れた時、『違う空気』を吸って『息を吹き返して目覚める世界』

それは、『ここではないどこか』だと確信する
40℃の時に色々試した上で私は『ここに戻る事を選択』した理由もあるが・・

太陽フレアが影響を与えるのは物理的な現象=結果ではなく、『高示現自己のハイヤーセルフ』に『新たな選択』を与える

ただね、高示現自己の役目というのは、『自我の自発的成長』であり、そのためには、宿業=業を修める修行の地獄巡りを経る経験が必要で、その繰り返しによる意識の拡大と役目・役割の相似、いずれハイヤーセルフとマイセルフが心に直に繋がる=悳そのものになれば、『ハイヤーセルフがアセンション(次元上昇)』する

『先生』は『生徒を一人前』にしたら先生ではなく『同志』になる
肉体という制限の中、制限の外から指導してきた先生と、制限の中で生きてきた生徒がお互いの役目を果たしたら終わり

そして終わりは『新たな始まり』であり、『先生』からすれば『自分が育てた自分』という『今までにない心強い頼れる味方』を宿した『未知の領域』

それは『虚空蔵菩薩に前習え』の『多宝塔如来』の如く、『同じことの繰り返し』だが『無限に大きくなっていく意識の拡大の相似』でもある

・・という感じで、突然の疾風迅雷の病気は私の今までの意識という概念を大きく変えましたので、今後の発信内容も解釈がだいぶ変わります

半分だけ天の羽衣を着ている『人間(自分も含む)に無感情』で興味が薄れている存在というスタンスになるかも

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