偶然か?必然か?悟りを開いたその人の生き様(体)が名になっている事に気づく
仏陀=ゴータマ・シッダールタ
釈迦は、北インドの人物で、仏教の開祖。ただし、存命していた時代については後述の通り紀元前7世紀、紀元前6世紀、紀元前5世紀など複数の説があり、正確な生没年は分かっていない。 姓名はサンスクリット語の発音に基づいた表記ではガウタマ・シッダールタ、パーリ語の発音に基づいてゴータマ・シッダッタとも表記
私は以前…そして釈迦になる・・『人生とは釈迦になる為の学びなのか』とまとめた下書き記事が…
消されてしまった(´;ω;`)
でもあの時は…『こんな気づき』ではなかった。前回は降りてきたキーワードや自分の人生での学びの中で
思考停止は馬鹿野郎
鵜呑みにひとつ覚えは莫迦野郎
要は自分で自分の為に産み出さない
想像も創造もしない『バカから卒業』する
道・未知を切り開くのが『釈迦』である
行き詰まった所を『突破する知恵』を産むのが釈迦である
その為に艱難辛苦、自らに投げかける『問題提起の自問自答』は『成長の為の試練=釈迦力の苦行』である
と…いう時期を超えた悟った仏陀は『涅槃』
半分寝ている『寝半』にたどり着き普通に『余生』を過ごしたという
それは『足るを知る=満足した』のではないかと思う
私はよく『口癖』のように、止まらない欲望をむき出しにする者、流れに流される者に
「足るを知れ」 と言い
「過ぎたるは及ばざるが如し」 と言う
『程々にしときなさい』 というのと
『満足したら止めなさい』は全然違う
『程々』とは『欲望が満たされないやりたりない状態』をキープ
『満足』とは『もうこれで十分と達観して求めない状態』をキープ
例えるなら
『一位』になって『即引退』= 足るを知る
『永遠の二位』を続ける= 程々に(満たされない)
言い換えれば、『終着(満足)』か『執着(飢え)』か
そんな仏陀事、ゴーダマ・シッダールタ
ゴーダマは『苗字』でお家柄は『王族』だけど、出家してその『権力』から離れて『名』だけになった
『名は体を表す』人生が始まった
そしてシッタールタは『足るを知った=満足』
…ってマジかよwwまた911(ライトワーク)だよ(笑)
日本語で 『足るを知る』 という『体現』を表したことわざが、まさか『シッタールタ』の『名』そのものだった
紀元前7世紀、紀元前6世紀、紀元前5世紀など複数の説があるらしいが、私の直感では…そんな時系列はどうでも良くて、『古代日本』というのは、『伝来文化』を受け入れ『和合』し、『言葉の技』として
その『名を知らぬ者』でさえ、その『シッタールタ=仏陀の生き様』を『知らないままに模倣』する事で、『同じ精神へと導く言霊の技』は…『知らぬが仏=知らないまま仏の道』
その『風土に根付く』まで幾度となく、使われて、そして使ってきた『達観した精神』が「その通りだった」と『納得して継承』し、次の世代へと脈々と紡がれてきたのだと思う
『欲望』が薄れて『興味』が無くなって行くと『望む事』が少なくなる
すくなく…スクナ、スクネ
スクナヒコ(文化伝来)
スクネ(伝統継承)
やはり『国津』、東国伝来の『自然信仰の心意気』の『人生の体を貫いた先人の名』が浮かび上がる
言葉は『言霊』というのは『発音』はかつて『誰かの名』だった。『先祖の名を呼ぶ』から『言霊(願い)で呼び寄せる』から『アセンデッドマスター(導く者)』が来る
例えば、北国に伝来した『秦氏』は『徐福』だったという話(諸説色々、木を隠すなら森)がある
徐福伝説
その伝説とは、 紀元前219年、秦の始皇帝の時代に童男童女500人を含め総勢3000人の集団を引き連れ、仙人と不老不死の仙薬を求めて中国大陸から東方の桃源郷日本へ旅立った
諸説の文献などどうでもいいが、富山=生薬が生える漢方の薬師=久須志信仰(釈迦の教え)は蝦夷富士、津軽富士と薬師如来の伝来の痕跡が物語っている事からそれは東国にあったのだろう
ここでまた面白いことわざで召喚しよう
笑う角には福来たる → 『和』来う『角(鬼)』には『徐福』来たる
徐福はあらゆる文化・人をまとめてきた移民集団であり、それを福の神の『恵比寿(えみす)』とした時
北斗七結界のひとつ『大星神社(妙見)の地』に存在していた蘇我氏、『阿屋須と七つの鬼面』の中に『笑い面のえみし』があった
これは笑い=えみ、そのまま『蝦夷(えみし)』と言える
そしてそれを『加味・神』するならば阿屋須の七つの鬼面とは『七福神』とも言える
その『蝦夷(えみし=笑い面)が徐福』と考えると
『笑う角(鬼面)』には『徐福』来たるよ(∩´∀`)∩ワーイ
と『誰かを元気づけるという行動』が、本当に『徐福という生き様のエネルギー』を『言霊として呼び寄せる事』になる
あ、そうか!そういう事か!
鬼は外(面)、福は内(中の人)
魔を滅する=豆(免疫力)で戦う(旧暦の正月・季節の変わり目)
『鬼面』を外すと『笑顔』が出てくる『面』を使い分ける
そういうイベント事の『掛け声』だったんだ!
鬼さんこちら、手のなる方へ
アンヨが上手、甘酒しんじょ!
どちらも『子供を楽しませつつ成長を促す興行』だったんだ
興行の『興』は『舞台上』で『左右アシンメトリー』だけど『役目は同じ』というシンボル
大事な事はその『舞台演目を見ている者を楽しませる事』
と、ついさっき『徐福っぽいエネルギー』が『今まで思いつかなかった観点』から『新しい物事の捉え方』を下ろしてくれたので・・
やっぱり笑う角(鬼)には徐福(蝦夷)が来ますね(口寄せ)
『名』は『体』を表し、それは先人の生き様
ことわざは『言霊』、それは先人と繋がる『口寄せ』
つーか、『知らずに言霊』で色々呼び出しまくってたから・・自業自得だったのかもしれないww
足るを知れ(っ・д・)≡⊃)3゚)∵ひでぶ
『シッター(付き添い人)』に『叱咤』された朝でした
『駄洒落』は時空を超えて『失われた歴史』すら繋ぎ合わせる『古代の魔法』・・なのかもしれません(シランケド)
私の本名は言霊では『強く放出して分かれた空間を生む』
生き様が常に『道なき未知』を追う想像人(笑)
HNのたぬきちは『分かれて抜けたエネルギーが凝縮』
道なき未知の先に新たなエネルギーで創造主(笑)
あわせると、こうなるからおもしろい『シンクロニシティ』。やはり『名(宿名・スクナ)』は『体(生き様)』を表す事になるのが『自然の法則』なのかもしれない
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