好奇心

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ちょっと預流果(よるか)

預流果(よるか)というキーワードを目にした瞬間に意識の観測がその世界観を伝えて来た直感があったので洞察してみよう

預流果とは

預流果(よるか)は、仏教の「四向四果」における最初の悟りの階位。三結(有身見・疑・戒禁取)の煩悩を断ち、不退転の聖者の流れに入った状態で、最高7回以内の転生で解脱が決定した境地です。別名「須陀洹(しゅだおん)」、最高7回生まれ変わることから「極七返有」とも呼ばれます。
概要と特徴
* 悟りの第一段階: 聖者(アリア)の入り口であり、悪道(地獄・餓鬼・畜生)に堕ちることがなくなる。
* 断つ煩悩: 三結(有身見:自己執着、疑:疑い、戒禁取:誤った戒律への執着)。
* 異名: 須陀洹(Sotapanna)、極七返生。
* 四向四果: 預流向(修行中)から預流果(到達)へ至る。
具体的な意味・用例
* 信仰の確定: 三宝(仏・法・僧)への揺るぎない信頼が確立した状態。
* 不退転: 悟りへの道から外れることがなく、修行が成功することが約束された状態。
* 日常の心掛け: 仏教に出会えたことや修行できる環境を「喜び」として認識し、前向きに修行を進める姿勢が求められる。
預流果は、最終的な阿羅漢果に至るための基礎となる、非常に重要な段階です

ふむ、なるほど

直感の『ちょっと預流果(よるか)』の『感覚』をその道を『経典の教示通り』に真剣に『頭で学ぼう』としてる人には、文字通り『理解出来ない』ような独自解釈の話になる

「四向四果」という時点で、私にとって『四』も『死』も『師』も『志』も『同義』なので、これが『悟りへの道』ならば
『死から学ぶ志(修行)の向き』へ、『師の果(業を修める)へ至る過程』であり

三結(有身見:自己執着、疑:疑い、戒禁取:誤った戒律への執着)の煩悩を断ち、不退転の聖者の流れに入った状態というのも

『有りのままの身体』を受け入れ、自ら己への「こうあるべきだ!」という『こだわりの執着』を無くし、「自己とはそういうものだ」と、『心に素直』になるから、心を疑う『疑心暗鬼』も消えて

自分で自分を『囚』として戒めて来た『口封じの人の禁』を取り、『元の人』にはもう戻れないし、戻らないと、『不退転』…というか、興味がなくなって別に『形あるものが消えた』とて、また『再生する意志があれば再び生きる』のだからと『一時に執着しない』

聖者の流れもって・・というのも『美辞麗句ない意味』を取っ払えば、『耳にした事』を『鵜呑みに口』にしない『王(自由意志)』の者として流れの一部に

『身を預けて流れる果て』の事

だから「ちょっと預流果」という
『流れに身を預けてみるという楽』(笑)

なんなら預流果借る=『寄っかかる』

通常は寄りかかるの『寄る』というのは『宀』に『奇』と書くが、私は『宀』は『一から二元性が分岐』を示し『奇』は『大きな可能性』を示し、それが『寄る=近づく』という『流れ』ならば?

寄流果とは、『一つの物事』の『二元性の大きな流れの果て=因果』とも同じ意味になる

ならば?預流果とは『自業自得の因果応報を受け入れる覚悟』ができたという状態であり、その『覚悟』があれば、『全ての行い自分に返ってくる事がわかってる法則』に気づいてる

だから『和を持って尊し』、『厚く三宝(仏・法・僧)を敬う精神』の元

日常の心掛け: 仏教に出会えたことや修行できる環境を「喜び」として認識し、前向きに修行を進める姿勢が求められる

『難が有る』から『有難い』
知らないから満たして『満足して納悳』したい

だけど、この『三結の過程』で『自己』もなければ『他人』も無い、全ては『色即是空.空即是色』、『そう思ってる』から『そう見えてる世界』

『気』にしなければ『気』にならない
『問題』を『問題視』しなければ『問題では無い』し、問題を『解決しよう』としなければ、『例えの経典は存在』していても、それは『解決の知恵』として『求められる存在』にはならない

何も『気』にしなければ『何も無い』がただそこに『無為自然』がある

『静寂を心地よい』と思えばそこに『静寂』があり
『静寂がつまらない』と『気が散り始めたら』そこには『喧騒』が聞こえ『周りが騒がしく』なる

『心の安らぎ』も『争い』も『貴方』が生み出している
全ては心と吾=『悟の空』を想う揺らぎ

日々一日一日を修行できる環境として「喜び」として認識し、前向きに修行を進める姿勢の人の心は、『穏やかな凪』であるが、そこに『意図しない風(龍)』が『波(流)』を生み出す事で、『波風』が立ち『反響して波紋』を広げて空間に『幾何学模様=音.振動』が生まれる

その『振動エネルギー』が、『目に見える映像』として、『耳に聞こえる音』として、『鼻に引っかかる臭い』として、『口に入る味』として、『体に触れる感触』として

『感じて心を動かす』時、「なんじゃこりゃあ⁇」と素直に驚く

それは『何』だったら『人の可能性』
それは『難』だったら乗り越えれば『成長する波』

だからその『波の流れに身を預ける』とは、『予想外のトラブルを楽しむ』という事でもあり、悟りを覚える道=『覚悟はブレる事はない』けど、これはこれで『目指す方向に流れてる』ならば『身を預けてみるのもまた一興』と

ちょっと『預流果=相乗り』して『呉越同舟』色々と『難は有る』けど『和足す心』がありゃ大丈夫さね

最高7回以内の転生で解脱「極七返有」

これも面白いよね
『七つの大罪』という人間の欲
あるいは『北斗七星』、『七星剣』、『ラッキー7』

でも個人的に一番最初に浮かんだ七は
虍→慮

七は自然界のエレメント
火水木土風光闇

それぞれにはそれぞれの『極と対極』がある
『弱点』であり『強み』であり争う限りお互いに強みを主張するのはアドラー哲学の人の優生思想の『優越コンプレックス』であり、それは『どの立場』に有っても『極端に至る』とそうなる

光と闇に関しては『対消滅』しながら、『同時に同じ空間に存在出来ない』という『自己消滅と自己再生が明滅』するような矛盾

その七を与えた『上』があり、その与えられた七を『思う』のが今の心として観る『観念世界』

つまりは『自然に観念』して『加味』しているから『上』からしたら『特定の恩恵を与えている』訳ではなく、『そういう存在』だから、それを『やりたくてやってるには過ぎない自然』

例えば慮の上からすれば、ただ『食って消化した排便』が『下の七という栄養の役割として分解』され、その『七を思う下の今の私達』は『便利』に使って、『人は更』に…

はい、配られた『便(自然の七)』を人は更に『便を利』に変えて使ってる…と読み解けば

人は更に、『自分の便』を『自然』に返し、『微生物達に恩恵』として回していた…ミクロもマクロも変わらない

『便利な世の中』とは恩恵が無駄なく循環する構造力学が働くバランスが必要であり、『人の間の都合だけの目線』では、『不自然』になり調和しない

だから、『霊的精神性の向上』の先に、『逢魔が時の変性意識』を越えて、『向こう側(人以外)の存在』として『学びに行く旅』が必要なんだろう

逆にその『覚悟』を持たずに『物理先行で傲慢な科学』が、無理やりつなげるのが・・『スターゲイト計画』。『類は友を呼ぶ』んだぜ?『精神が低い奴が召喚できる間外者』なんて、神でも悪魔でもねえ、ただの『亡者』だぞ?

『BEYOND: Two Souls』とスターゲイト計画の真実~多次元の免疫システムとしてのジョディ~

間共な神経じゃいられない逢魔が時の見極めの役目

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