好奇心

直感・閃き・気になる事探究を楽しむ

天空と大地という基準線

天と大 二人が一人に与える地、二元性の争いの泥が届かないほど高みに上がり自ら華開いた仏の様の蓮華を新たな地の土台とし、そこに仏国土の風土を建国する、人の霊的精神性の進む向上心の繰り返しの導き

地という水平基準線

人は足をついて立っている地面を『地上』とし、その地面より下を『地下』として、地の基準線に『上下(高さ・低さ)』をもたらした
また地上は『明るく』地下は『暗い』ともした

もちろん、現代では『人工の光』があれば、この『地下は暗い』という定義は成り立たないが

昔は『一寸先は闇…』として人は『闇を恐れ畏怖』し、「地下にはよからぬ者がいるから近づいてはいけない…」と『禁忌』にしたから

悪いヤツが『治外法権』のやりたい放題の『隠れ家』として『洞窟にアジト』を作ったり『潜伏』できる『概念の盲点=ブラックボックス』が生まれた

高さ・低さについても『滑稽』なのは、『金持ち』は『タワーマンションの上階ステークスホルダー』になり『下界の民を見下ろす優雅さ』を『高さで主張』するが

結局『移動』はその上空の高さのままではなく、『地面まで降りてから移動する』という意味では、毎日、『地に堕ちるこの様から始まる』という面倒があり、結局高さ・低さを『社会的価値』にした所で

人は『地に足をつく』という基準線は変わらない

見晴らしのいい天空もどきのタワーマンションに住んでようが、『地に堕ちなければ』いけない
ほの暗い地下のアジトに住んでようが、『上がらなければ』いけない

『活動するのは地』という水平基準線上の人の間

天空という上限なしの空間

『天地』という表現がある

地という基準線は冒頭でまとめた通り、その地から見て『繋がってない』『立つ事』ができない空間を『天』とする
それは高さ・低さではなく『1mmでも永続的に地から離れている』なら、それはもう『天空』と言える

『高天原(たかまがはら)』という『天空の地名』がある
これは非常に面白い『名と体』を持っている

まず地から見て『天に高いも低いもない』から『地ではない』を示すなら『天原』でいい
それを『高天』としているという事は『中天』や『低天』があるという事を示す

おそらくそれを表したのが『中津国』と『底国』
ここでもやはりおかしい事がわかる

高天は『原』だが
中津も底も『国』である

原は野原=『自然』
国は王が治める領域=『不自然』

この構図で見ると…この名称は『どちらから見て』…なのか?

高天原は『神の天の領域』
中津国は『人の地の領域』
底の国は人から見て『地下(闇)の領域』

ま、大雑把に見ればこうなんだけど

違う表現もある

底の国=『根』の国
中津国=『木』の国
高天原=『葦』原国

葦(ヨシ・アシ)とは

沼や湖のほとりや川の流れが緩やかな河原,河口付近の沿岸部などによく生えているイネ科ヨシ属の多年草

ここで『華の領域』であるとわかるのは、『水源』において根の国や木の国は『泥』が付くが、背の高い『泥がつかない領域』に伸びて『華開く蓮華』を想像したらわかる通り

そこは『仏国土』

高天原にある天空の『地』
『人の領域の戦争』の及ばない『自然の原野』

…仏国土という土地のベースが『連なる蓮』の『蓮華』。華は『泥のつかない清い心』を指し、一人また一人と『大きく花開いて仏様として鎮座』すれば、その『仏が鎮座する蓮』によって『新たな地』が生まれる

『清い水心の仏様=先祖達』が『風土』となり、『その天の地上で生まれた者たち』は皆、『お釈迦様の掌の上』で『天地に見守られた人』

そんな『恵まれた環境』から『泥臭い争いや欲』を求めて『道を踏み外す』と…『堕落』する
…という『精神的な領域の観点』から見れば…これはもはや『物理ではない法則』

天と大 『二人』が『一人』に与える地

天地や大地と言うが『空地』や『大空』とは言わない

ここでも面白い名と体の法則性がある

天という字は『二+人』と分解出来る
大という字は『一+人』と分解出来る

天は二物を与えずという言葉がある

天が一個人に対して多くの優れた長所を与えることはないという意味のことわざです。人は優れた面と劣った面を併せ持っているものであり、全てにおいて完璧な人間はいないという教訓

これはまぁ解釈の捉え方次第で間違いとは言えないが…私が直感で感じたのは『二物(種)は既に人は持って生まれている』

理由は仏国土のベースが清らかな水の心で仏様となった『蓮華の地の風土』から生まれている

誰もが『純新無垢な赤ん坊』スタート…にも関わらず生まれた環境で人生は『二元性の片方に惹かれて堕落』していく

『大人』になればなるほど
『木の国』か→ガッチガチに固まる
『根の国』か→根腐れして病気

大人になればなるほど、元の自然(故郷)から離れ『不自然に同調・調和』して、『泥の擦り付けあい』や上に向かおうとする者の『足を引っ張り合い』をしているが…

子供の頃はそんな世界にいても『大人の汚さが混ざらない純粋な清らかな水心』だった

いつからその『泥臭い色に染まった』のか…子供は『いつ大人』になり、いつ大人→『一人の人』として『精神が自律』するのか

それは、『それを決めた時』に泥の中にいても『泥がつかない精神の種』が開き、その芽が『蕾』のまますくすくと伸びて天空の『蓮華座』(* ´ ꒳ ` *)/ンバッと華開き大地になる

そこで『元の位置=先祖達』が生み出して来た風土へ「ただいま\(^o^)/」と『泥臭い二元性の学びの旅』を終えた時

そこが『地上=基準線』になる
今までの人生が『地下=過去の闇→影』になる

そうやって『次元』という『新たな地面』が変わっていく意味では、それを『与えてくれる』のが

天=二人=『二元性の役割』
天使は人の吏(役人)=二元性へ誘導するガイド

この二元性が『左右なら思想』
上下なら『向上心と堕落』

六角形

『道を踏み外させよう』と『泥』をかける『エゴ』

このエゴを『清らかな水で洗い流す自律制御』して、『真我以外一切無常』とまだ何者でもない『蕾』のまま二元性にぶれる事無く『孤高に目指す高み』へと登って行く

この天(二人)は直接『二物』を与えないが、『天使=二人の人の役人』をつけて『一人』に『二元性のエゴの誘惑を与える子』として

誘惑から離れる→『中立』
曲がらない、曲がっても『元の軌道』に戻る

そういう『反面教師という試練』であり、それを与えられた『一人が大』となって、『和の心』を抱けば『大和』なる『新たな地(悟りを開いた仏様=蓮)として鎮座』する

…うん?(´・ω・`)鎮座?→金真座?

『金欲が座った』ら…そりゃ『道』を踏み外して、『蓮華に穴』が開くよ?

これはおそらく『違う漢字』があるぞ?と思って調べてみたらやっぱり漢字って面白い(=^▽^=)

穴や隙間などを埋める(うめる)、塞ぐ(ふさぐ)、**補充する(ほじゅうする)**といった意味を持つ漢字

鎮座する奴は『金で堕落』する
『金を真』として『座する宗教』は『穴から堕落』する

そんな『堕落した蓮華の穴』を埋めるべく、『新たな悟りを開いた仏様』が『填座して穴埋め』する

そういう意味では、『144000』とか、『幾何学的に数字』が決まっているのも『仏様の仏国土』は、『一人一人の生き様が土台』になった『蓮華のスペース(空間)』における『安定のバランスを保つ数字』なのかも?

『何万年周期』で入れ替わるとかも『栄枯盛衰、万物流転、正邪(盛者)必衰』

天空の『地』もまた、『水』が腐って、それを『根』が吸い上げ、『木も病気』になり、『華も枯れ堕ちる』のは必然であり

『連なる清い心の蓮華の仏国土』であっても、そもそもの地であった『水源が枯渇』すれば全て枯れ堕ちる

水源の水の流れが停滞して澱んで腐れば、『根の国』が吸い上げ、『木の国』を通して、『華』に至りやはり『枯れ堕ちる』は自然の摂理

これは元々の地を愛せ=『地元愛』
今いる地よりも遥か昔からある『生命の源である地球』と定義している

『大気の恩恵』を得られている空間を『地』として『地の元』の『愛を大切』にして『水源は循環』させなければいけない

poolしてLOOPしてる夢と現実の心の水の浄化

…とすると?

『泥の掛け合い』の水掛け論のような『二元性の循環エネルギー』こそが、『生命の躍動』のような『渦のうねりのエネルギー=流=龍』

つまりは、『天』を支えるのは『地』である

だから、「チ。」を動かすの解釈は想像以上に自然エネルギー循環の法則に直結する

概念の天地返し 漢字で『チ。』を動かす

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