たまたま目にした宗+神+主と言う三つの単語を組み合わせた造語を見て、出処やGHQに消された戦前のワードとかどうでも良くて、大事なのはこれをどう活かすか?と言う話
戦前に存在したと言う宗+神+主の造語
宗+神+主でそしじというらしい
そんな漢字が戦前にあり、戦後GHQから消された…と言うのは『人の言う事を用いる=信用』なので私は正直、造語の時点で『人の業』であり、その『都合のいい意味』もどうでもいいし
それを発言して広げてる人の『思想強めと承認欲求のアピール』も逆効果の間違いの人の業であり、『違う因果』を生む訳で
結局はこのそしじという言葉の『与えられた意味』に振り回されてる『宗教』と変わらないが…
『漢字分解読み』において私はその一部『解釈の間違い』を正せば、自分的には『納悳してパワーワードに変える事が出来る』と感じたポイントを
ウ冠はひとつの物事に二元性
私の中での簡単な解釈を一例として
宗とは『おおもと』と読むのだけど
おおもととは『事の発端、始まりの祖』
そこから『知恵』が生まれ、それ以降は『知識』の教え
つまり『宗(門の開祖)』と『宗教(門下)』は全く繋がっていない 『1』と『その他大勢』。例えるならば、『妖怪の長のぬらりひょん』について歩く『魑魅魍魎』の妖怪大行進の百鬼夜行
それが『宗教』である
『ひとつの物事』から始まり『2つの相対性に派生』する
その流れがウ冠を示す=宗
つまりこの造語の出処
『物事の始まり』を示すウ冠を
『宗』と捉えるか?『宗教』と捉えるか?
『己が道を切り開く』か?
『盲信してついて行く』か?
ここから『パワーが引き出せるか』が変わる
それが次に繋がる
神とは示し申す=心
現代の神は示すが『ネ』に変わったが、それは『心』であり、おおもとは『示す』だった
示し申すのは心である
『心こそが示申』
こう捉えた時にウ冠に戻って見ればわかる
ひとつの物事には『心地よい、心地よくない』の『是非の二元性』が必ず生まれる
その受け止め方に対して『宗』から繋がれば、それは『己の心が申す事』として受け止め、『自業自得に素直に観念』して『自分を改める改心』して『前向きな力』になる
『宗教』から繋がれば、それは『教えられてきた帰依する神の采配』なのだから『神様の言う通りに』と『盲信して他力本願で依存』になる
『自力の知恵(未知)』を生み出すか?
『他力の知識(既存の道)』に従うか?
最後は『主』が決めるのだ
ウ冠のひとつの物事(業)に対して起きる『二元性の是非』はそれを受け止める『心が示し申す』
それは『辛い』かもしれないし、『苦しい』かもしれないが、それは『何のため』にあるのか?
『概念の紙の預言の神の運命』として、『皆苦の中にいるのが当たり前』で、いずれ世界が混沌とした時に『信じた存在』が『救世主となって救ってくれる』のを信じて従う
『神の下僕の主』になるのか?
『起きた物事を深く反省して内観』し『観念』し、今の心を観直して、この痛み苦しみを生み出したのは『かつての私の業』であり
その業をここで『改心して改修』しなければ『先の私』にその『負の遺産の業を先送りして渡す事』になってしまう
逆にその業を『今回収』し、その『業火』に焼かれそうになる者に『助かる道を道標』として『経験をまとめた経典(知恵)』を残せば
『同じ過ちを繰り返す者』が『1人でも2人でも減る』としたら、いずれ『塵も積もれば山となる』
誰も『衆生が苦しまない世界』が生まれる
『最後の一人まで見捨てない』為には
まずは『今の心の主』を導かなければいけない
問題や困難の『地獄を経る=経験からの経典』をまとめる
それは必ず『誰かの役に立つ』のなら、『二元の是非の両極端の地獄』を味わい尽くして『端間理』と『間違いを示す主』になる
それが『地獄に仏』と言う『開祖』を生む
これが宗+神(示申)+主
『忌み』を与えるなら
自業自得の因果応報の『過程』にある
因と結果の『間にある地獄を巡る経験』をして
その地獄に『救いの経典』を遺す
先に行った者=『先駆者』であり
それを『継承し背負う者』の心意気
だから『漢字を書いて持つ』とかそう言うのではなく
見た瞬間に『感じ取る=漢字摂る=エネルギーを獲得』
その瞬間に『新たな忌みを生み出す一期一会』
この漢字を見た時、私はそう感じたのは『今までの蓄積』があっての『納悳』だろう
この漢字を持ってると「神がツイてるわ〜」っていう『コレクター的な発想』の人の話は全然耳に入らなかった(笑)
やっぱり『与えられた概念の意味』と『己で感じとる忌み』は違うって事であり、それができるのが『日本人』だからGHQは『精神力を与える漢字を取った』と言えるだろう
有名なのは『氣→気』の話だが、私の解釈では『無限→有限』
最近で感じたのは『靈→霊』
世間の解釈は知らないが、私の直感的解釈は
アメノミナカヌシ
アメノミナカヌシと言えば偶像的に言えば『一人の神』を語るケースが多いが、この漢字には『三つの口』がある
つまり『三人・三つの役割』とした場合
善悪二元に中立の拮抗のバランス
その下に『巫(かんなぎ)=示申降ろし』
巫女=破瓜の処女=穢れを知らない『無垢』
『素直な心の巫』に『示し申す雨の三中主』
これは『三柱』であり『三女神信仰』と言う
『大事な教えを伝えた靈=例え』だったと私は解釈する理由は、幾何学的、かつ数学的、かつ力学的に『正三角形』からの『正四面体』における『五次元構造』は
『主』となる『中心を護る結界』になっている
またこの『靈』と言う漢字をみてわかるように
『雨冠』から始まりミナカヌシの『口から出る預言』を授かる素直な『巫』
まるで『ファティマの三つの預言』だとするなら、その預言の上に『雨』がある
『雨降って地固まる』ように
『止まない雨は無い』ように
『靈を宿す』のは『一時』の事
それが『人生』と言う『人の間』だとするなら
『靈を宿した人間』には最初から『三つの守護』がある
善でありそれは悪であり
中とは立場無き『バランスの意志』である
それらが拮抗して『無』になった時
三つの守護は『役目』を終える
しかし、その三つの教えのうち
立場のない中立は『争いが起きると消える』
それが『月読の尊』
月は『人のバイオリズム』を司る
それを『読む尊い存在』は…激しい善悪の二元性の争いの中には生まれない
争いのバランスが収まりつつある『拮抗状態の時』に現れる=『月読の靈を宿す者』が現れる
それは『特定の誰か』とかではなく、『免疫細胞』のように『炎症が治まりつつ』ある時に、『遊走(所構わず)』でどこからでも現れる『意識』
それも今回の『そしじ』に関係がある
ひとつの物事には二元性(善悪)がある
『ワクチン』には『功罪(善悪)』がある
過程では『不確定な役目』
『実験・治験』の段階では『人を殺める兵器』
『安全に使える』ようになれば『人を救う薬』
『真に靈を宿していた日本人』は、誰もが『空気』を読んで『口を紡いで黙り』していた『闇の中で光輝く月』のように、『真実を追う発言』を続けた
『気づく人』が増えれば『この実験は失敗する』と善悪の争いの『炎症被害を抑えよう』とした
これはそしじ で言う
宗 ひとつの物事に対する『2つの結果を示す』
示申 心は『被害者は自業自得』だと思いながらも、それでも『放っておく事はできない』し
何より『衆生を見捨てて己だけ助かると言う選択もない』と無理難題だけど『観念して心に素直』になり、例え周りに嫌われ疎まれ、『社会的な信用を失った』としても『間違いは間違いだ』と『発言する事が後悔しない事』と『心に素直に従った主』
それが『宗+示申(心)+主』と言う生き様
逆にこの始まりが、『宗教の偶像神』や『社会通念・概念=与えられた教え』になると『それに従う主』と言う
『主体性のない傀儡』になり、『善悪の百鬼夜行の魑魅魍魎の妖怪大行進の一部』になって「争いを止めろ!!」と言う争い』を続けて行く
だから、そうなったら月読は離れるが、『一時』でも、『一人』でも救えればいい
『万人』を『同じタイミングで救う事』は出来ない
『人一人』が救えるのなんて『一人』
それは『自分の意識を変える事』だけ
『人一人=靈・0』になる
肉体は無くても『意識』はある
なるほど(´・ω・`)
『そしじ』って文字に『氣』を巡らせて観たら面白い『隠れスイッチ』が沢山ある『励起=鼓舞のパワーワード』だな
というのも私はさっき二元の争いが収まりかける『拮抗の時しか月読=予言者は現れない』と言った
それは『阻止時』でもある
上と下を繋いで止める=正
上と下の邪な自我取った丄T=+
戦の中に入って止める=武
鍔迫り合いの刀を蓋する=文
『二元の争い』が『拮抗』して『止まる時』
アメノミナカヌシのミナカヌシ
『三つの口の教え』を広める巫=心に素直な正直者
それって『祖指示』でもある
そしたらそれって『宗』からの『教え』
『雨』が『宗(おおもとの知恵)』で『三中主』は『教えの知識』
カタカムナで そしじ の言霊は
外れた示し内なる示し
なるほど(´・ω・`)
外れた示しを『争い』とするなら
その争いから離れた『内なる示し』
君達はどう生きるか?と『心次第』
争いを『批判的に否定』すればそれは拒絶
ネガティブで何も『生産性』は無い
その争いを『客観的な観点』から『因果』を辿り『争いの端間理』を見つけて『どう収めるか』を『靈性=ミナカヌシの役目の性質』で考える機会でもある
それひとつの事象・現象の二元性を俯瞰で見て、心がどうしたいか『示し申す事に素直に反応出来る主』
逆にすれば
『主が示し申すひとつの選択を選ぶ』
現象に対する『行動の発現』
最後は『主』に託され
最後は『主』が決める事
そう『祖は指示(開祖の知恵)』していて、その『タイミング』を生み出す為に『阻止時(三中主の守護の役目)』があって、『心に素直に自由を選べる主』が決める
『主が決めた事が力(発現)』となり
『主が宗(おおもと)の知恵』となる
『自らの流れ』を生み出す
『造語』として『形象』になってるけど、私はこの組み合わせは『感じ取れる真』が沢山詰まってると、『共感性のエンパスのパワー』を物凄く貰いました(。-人-。)有難い
『覚悟=覚えて差取る事』が大事なんで、わざわざ『紙』に書いて御利益御利益と『物質依存は他力本願』の『格差』は間違いです
物に力が宿るのが『道具』なら『紙』はあまりに弱い『一時の効力』
破られたり、火(悪知恵)を使われたら終わりの『決壊の結界』
廃仏毀釈に神仏分離、GHQの教科書黒塗りなどなど『偽紙の神の依り代(物質的経典)』は脆くその『権威・格付け』を失うと『門下生』は路頭に迷う
でも『心』に宿したら『無敵の結界』
なぜならその言霊が『中にある事』を『誰も知らない』し、『欲しがる人も居ない』から『無敵』(笑)
いや〜そしじは面白い言霊!って私が『先祖供養して宿ってる先人達』も大喜びでした
『造語』だろうと『思いつきの自作の四字熟語』だろうと、社会にも誰にも認められる『評価』なんて必要ない
そこに『忌みを感じる漢字』なら
それは貴方に『力を与えるパワーワード』
『既存の概念(教え)』に囚われる必要は無いって『祖が指示』してました(笑)
概念に囚われていたら『開祖』と言う『自らの宗の流派』は生まれない
開祖(宗)は『後に生まれる流派(教え)』の事など一切考えないで、心に素直にしたがってるだけの『道なき未知』を切り開く存在。『生き様』など『後からついてくる者が価値』を決めればいい振り返らない孤高
『教えを盲信する時点』で、『開祖の気持ち』に気づかない
もしも『教えを悟った』なら、『その門から出ていくのが正解』で、『門下生』であるうちは、開祖の気持ちを悟ってない『ただの他力本願の依存』
『信』を盲信するな
信は『人が言う事を用いる為』に作られた『不自然な信用損得』の呪術的なワード
だから示し申す=『心』を観ろ
『今の心(三つの教え)』を観て『観念』しろ
そうすれば『祖(開祖)の気持ち』が『主』にはわかる
言葉にも道具にも『生みの親(宗=おおもと)』がいると
その『名』を感じ取れ
その名を『漢字摂れ=エネルギーを獲得』
感じるままに『体に吸収』してそれを『名(命題・宿業)』に活かせ
『祖指示』を感じる
だから結論から言えばこの漢字から感じたエネルギーは
己と向き合え
この漢字の『感じ取り方』は『きっかけ』です
貴方が『何にそれを実践』するか?
何と『向き合い』何を『取り入れる』か?
それは非常に『強い意志が生まれる兆し』となる
『向き合えば向き合う』ほどに力を引き出すパワーワードだから『鏡文字』なんでしょうね
物質的な光を反射する鏡ではなく神と我が向き合う鏡
神とは示申の間に我(割れ)が入る=示我申
我々=『割れ我は神=示申である』と『向き合って再確認』する『法具の神器』
『神器』はそっと『心にしまって置く』といいですね(´∀`)
と、『法具師』だったらしい過去世の私から、鏡が神器という秘密を・・
ま、別名、孵化師であり、それは不可視であるけど、現実的に言葉でのフカシは『嘘』として解釈される訳で・・
フカシこいてんじゃねーよ!って思うのも貴方の自由=『そしじ』なんですよ?
あなた(主)の心が示し申したことが『祖となる潜象』
現実は心が示し申したあなた(主)の『意識が観測する現象』
『嘘』だろうと『真』だろうと『そしじ』というのは『パワーワードである事に代わりは無い』ので、『扱いは注意』ですよ~
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