好奇心

直感・閃き・気になる事探究を楽しむ

人生の履修科目は離衆寡黙にこなせ

卒業に必要な為の単位取得の履修科目を訳詞如来したら、黙って徳の少ない衆生から離れましょうという老子みたいな生き様が出てきたお話

履修科目とは

「履修」とは、大学などにおいて、単位を修得するために必要な科目を学ぶこと

必修:その大学・学部・学科に所属している学生ならば、必ず取得しなければいけない単位(例えば、英語などの語学や、自分の専攻する分野の単位)

履修必修:いくつかある講義の中から、一定数所得しなければいけない単位(例えばA,B,C,D,Eの各講義があったとして、その中の3つは必ず取得しなければいけない単位。なので、A,B,Cを取る学生もいれば、A,D,Eを取る学生もいる)

これが一般的な集団の中でのルール
卒業したいならこれをやれという義務

『履』の意味は

足でふむ。ふんで歩く。実行する。おこなう。「履行・履歴」

足踏み?…と言うよりは、必須と言う意味では踏み絵に近い

踏み絵とは

「踏絵(ふみえ)」は,そのときに使われた絵や像のことです。 絵踏:江戸幕府が,キリスト教の信者を発見するため,人々にキリストやマリアの像などを踏ませた行為のこと。 踏むことができれば,信者ではないとされた

要は『大切なものを犠牲』に出来ますか?
と言う『捧げる覚悟』のようなもの

大学によって『主義思想』は違いますからね

まぁ『学問の徒』に自らなって『学ぶ覚悟がない』という『舐めプを振るいにかける』という意味では、まさに郷に入っては郷に従え

というか

『学業に入っては学業に従え』
というまんまやな(笑)

さて、そんな、学問ではない『人生の履修科目』は『人それぞれ選択科目(業)』は違うし、『ルーツの郷』も『卒業まで必須の単位の取得数』もまるで違います

したがって踏み絵というものがありません
あるいは『踏み絵だらけ』です(笑)

足で踏む、踏んで歩くって
『地に足つけて堅実に行う事』でもある

だから『やらされる』ではなく
自ら『進んでやる』(๑•̀ㅂ•́)و✧

ここにふたつの『単位の違い』があります

単位とは

ものの性質を値に表す場合の基準に採る量・形式。普通は定義を有する

たんいの言霊は
強く分かれる現象

『単位を決める』というのは
そのものの『スケール』が変わります

例えば『数字は同じ』でも
『g』と『kg』を間違えたら大変ですよね
『1円』と『1万円』を間違えたら大変ですよね

そんなの間違う訳ないよ?と思ったあなた

単位は『選択科目の知識』なので『履修してない人』は分からないんですよ

例えば芸能界の『ちぇーマン』という呼び方
例えばネット界隈の『30k』のような金額の隠語

知らない人は知らない(存在も分からない)

ただの言葉(共通知識)
されど言霊(受け止め方が変わる)

そのくらい『単位の受け止め方』次第で
『結果は分かれる』という意味と取れば

この世界には『一般常識や普通』という『概念』がありますが、それぞれみんな『違う履修科目を選択』しているから『共通ではない』のに

「普通だよ、一般常識(必須科目)だよ!社会に出たら(卒業)ね」

という『デタラメ』で成り立ってます

いや、『成り立ってない』から、社会に出ても『大学フィルタ』のような『マウントの取り合い』という『精神レベルの低い格付け』が行われているから

『格差(履修の立場)』という『格差(育ってきた履歴)』が消えません

そりゃ『好き嫌いは否めない』から『混沌』が続く
『なんの卒業もできてない精神』『留年』したまま『永遠の大学生の感覚』

そんな履修科目についてのメッセージが降りてきた訳ではなく

『同じ音霊』なんだけど『漢字の感じ』が違うんだよな〜(´-`)oO

りしゅうかもくの言霊は

離れて示しが自然に湧き出て生まれ
力が漂い引きよる

一旦、『離れる』
そしたら『気づく』

こんな感じなんよね

凄くシンプル=単純
単位=シンプルに『人が立つ』

だから面白いのが

その人が『人生でどんな単位を取得』してきたのか?それがその人の『個性が際立つ単位』でもあり『魅力』でもある

そんな魅力って『集団の中』では表面は磨かれ(精錬研磨)』はしても『形が変わるほど荒削り』はされない

例えるなら、傷がつかないように玉砂利の中で表面を擦り合わせるのと

山の頂上から鉄砲水に押し出されて、ガツンゴツンとぶつかり砕かれ硬い部分と傷口のようにかけた部位ができるのと

その人という『個性の単位を形成する過程』はその踏んで歩く『履修環境』にある

それは与えられた学びに従う『学徒』ではダメ

そこでしっくりくる感じの漢字がこちら

離衆寡黙

まずは離れる『衆生』から

かもくとは
言葉数が少ないこと。

すくない。「寡をもって衆にあたる」
徳がすくない。諸侯の自称

しゅうの漢字が習・集・修か迷ったけど『衆』が一番しっくりくる(人の数が多い。数が多い)

そうなると

『衆』議院議員って言葉が
『人の数が多い』って事なのか

ちなみに『参』議院の参は

比べあわせる・まじわって、かかわりあう。加わる

うーんダメだこりゃ
文字通り『烏合の衆』

まずは『名前』から『体・他意』を変えなきゃ言霊としてダメだな

寡をもって衆にあたる
得が少ないから徳を詰む
政治家たるものそうであれ

寡議院議員と散議院議員
まずは議員定数の削減

…(´^p^`)脱線した Σ(゚д゚;)

離衆寡黙

逆から黄泉返り言葉で言えば

黙寡衆離

『黙』って『徳が少ない衆生』から『離れる』
→離れる事で示しが自然に湧き出て生まれ力が漂い引きよる

まるで『老子』がくだらない争いをして『無為の自然の理を無視する人里を離れた』ようなもの

人が人に与える知識が『必要な人に必要な分だけ巡るのは自然』なことだが…

必須科目として『やりたくもない』のに押し付けられる思想やルール=『プロパガンダ』がある

それが『大学』というものであり、その『大学フィルタマウントがかかった社会』という大きいようで実は小さい『世間体=世間は狭い』

『社会不適合』という『襤褸の着物』を被って見ればそれが本来の『人の自由』というものから『かけ離れて行く』のを感じるけど

『そういう学びを選択科目』にした業を回収する者は、やはりいずれは『老子』のようにそっと『人目がある社会』から消える(´・ω:;.:…

黙寡衆離の離衆寡黙

潜像(心)
漂いが引きより力の示しが自然に湧き出て生まれて離れ
↓↓↓
現象(行動)
離れて示しが自然に湧き出て生まれ力が漂い引きよる

だから『自分の業』として『生まれる前に選択した科目』は他人とは『共有も理解』もない

黙寡衆離離衆寡黙

それ以外の事は『一切皆空』

『寡黙に科目』をこなしたら
次の寡黙が『授記』される

次の授業は3階のB室ね
急げ(`・д・)σε≡≡ヘ( ´Д`)ノチコク

霊界学園への里帰りのような夢

あなたにはあなただけの『授業』がある
『授けられる業』がある

その『単位を取得』するほどに
あなたの『個性は豊か』になる

『誰=一人』にも縛られないという事は
『何=一つ』にも縛られないという事

一は全、全は一
一に縛られない=『全』に縛られない
=『体』に『意識』が囚われない=意識の拡大は『無限』

カタカムナ52首 創造主の目的は意識の拡大

それは『理想の創作』において『必須科目』

愛である(ideal)は私の誓約(i deal)
理想(resource)は資源の示現(๑•̀ㅂ•́)و✧

という、履修科目を『離衆寡黙』に訳詞如来してみたら『黙寡衆離』に人里離れた

『老荘思想』が出てきたお話でした

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