不味いを美味いに 危機感を嬉々観に 鵜呑みにしない五味の醍醐味、そして旨味とは滋味深いものだと気づく
まずい状況とは
「まずい状況」とは、思わしくない状態や、トラブル・ミスなどによって対応を迫られている危うい局面を指します
はい、現代では『状況』というシーン
そして、それは『目の前に問題』がある状態
「ここで何とかしなければ!」と問題解決の知恵を生み出そう…
という『未知の道の模索』
『死中に活路』を開く『ピンチをチャンス』に
もあれば…
『見て見ぬふり』という『誤魔化し』
状況を受け入れ『責任を取る観念』(諦め)
という『既知の道(予定調和)』もある
ここで私はその『皆苦しみを鵜呑みに受け入れる』という『安易に諦めて責任を取ればいい』もまた『再発防止という反省』が無い逃げの道
もちろん、逃げもまた『兆しに進む』のだから
それはそれとて『未知の道』だが…
『再発防止の知恵』を持たなければ『また同じ問題で不味い状況』になり、その度に『逃げを繰り返す事』になる
『逃げるは恥だが役立つ』・・けど、『恥』は知れ
『心』に『耳』を傾けて『反省して改心』しろ
これが『業の回収から逃げる=恥知らず』という事
人の業、職の業で問題が起きても
『自力で解決策』を見つけていれば問題は『問題では無い』
つまり『有事の際も大丈夫=無事』であり、大丈夫とは『釈迦』であり、釈迦とは『問題を解決する知恵に巡り合う』という『状況を打破する事に臨む機会に応じて変わる、変える事』
縁の起こり(難が有る)を承り転じて結ぶ結果の『起承転結』という『有難い知恵』として『釈迦(知恵)に巡り合う閃き』を生み出す
『有事』の際に『無い知恵』を生むとは、時に照らし合わせて見て(時照見)、観方は自らに在る(観自在)と心に耳を傾けて恥を観世音し、必要な時に必要な形で『現一切色心三昧の知恵を具現化』させる事を『自己解釈』と説く
つまり『不味い状況』とは捉え方を変えれば
『ピンチ(絶対絶命)』は『チャンス(臨機応変・死中に活)』なのだ
…さて、私はそんな誰もが陥る『皆の苦しみ』という『まずい状況』という世界観から『一切』切り離した
もっとわかりやすい自己解釈の例え話をしよう
不味いと美味い 五味の醍醐味
不味いとは『味覚』による反応
人それぞれ『育ってきた環境が違う』から『好き嫌いは否めない好み』はある
…が、総じて「皆が不味い…」と感じているならば、それは皆その味では『満足できないという苦しみ』の中にいる
でも『それしか無い(既知)』と諦めている
『観念』した時、『今の心を観る』時、皆思う
(もっと美味しければ…)
そう『願望や希望』を抱きながら、『我慢』して、『鵜呑み』にそのまま『苦虫を噛み潰した』ように『苦悶の表情で食べる不味い料理』
そこに『五味という知恵』を『一理として加味』する
料理における「五味(ごみ)」とは、舌で感じる5つの基本味(甘味・酸味・塩味・苦味・うま味)、または東洋医学や薬膳の考え方に基づいた「酸・苦・甘・辛・鹹(かん・しおからい)」の5つの味覚
不味いという感想は人それぞれ『曖昧』だ
もっと塩気が欲しい
もっと甘みが欲しい
もっと酸味が欲しい
もっと辛味が欲しい
もっと苦味が欲しい
総じて『不味い!』というからわからない
わからないから味を調べる=『調味』
功徳の功とは『工の力』
たくみの力=『職人技』でもあるし
功夫のように『積み重ねた研鑽』でも在る
だが私は今回はあえて功徳ではなく『功悳』と言い換える
悳は『素直を支える心』
料理における『不味い状況』に対し
どうすれば『美味しく食べられる』だろうか?
と『功夫して研鑽を重ねる探求』を行う
五味は一つ一つでは『刺激』が強すぎて『毒』になり、そのまま鵜呑みにできる料理にならない『塵(ごみ)』同然だが
「一理を有る!」として『調味した味を加味』する際に『量』次第では料理に活かせる!
と『不味い状況を鵜呑み』にせず『一理を加味』して『美味いに変える知恵のひと匙』
この『匙加減』を面倒くさがって『適当』にやると
『過ぎたるは尚及ばざるが如し』で
「入れなきゃ良かった…」と不味い状況が『さらに不味い事になる』からこそ
触らぬ『加味』に祟りなし
さりとて
『捨てる加味』あれば『拾う加味』あり!と
甘みでダメなら塩見は?
塩見でダメなら酸味は?
酸味でダメなら苦味では?
『全部ダメ』か調味を『試して見ないと』わからない
という事は『不味い状況』だからこそ、『どうせダメだと諦め観念している』からこそ
ならば『死中に活路を模索しよう』ではないか?
『難が有る地獄巡りを楽しもう』ではないか?
と、『混ぜるな危険』の『理想の味を求めた研究や探求』が、腹を下す→『下剤』など後に『調味料』として使うなら『用法容量を護って使えばいい』と『毒もまた薬』という『生薬を生み出す知恵』となり
それが『錬金術の探究や研究』、『魔女の配合鍋』、『自然の草を焚いて吸う』などの『過剰な刺激を求める方向』に行ったのだろう
それは『不味い状況』という『機会に臨んで応じて変わっていく』という『人の精神の成長という醍醐味』であり
しいては『足りないを求める欲望』であり、『足るを知って=シッタールタ=仏陀で満足』する為に進む『欲望の苦業の道』でも在る
だから、『創作料理』というのは『元』の素材に『何を加味』すると
「美味い!」と『心が満たされる』のか
自を支える心を満たし足りる=『自己満足』が全て
「美味い!」と素直に『感じる』のも
「上手い!」と素直に『認める』のも
それは心に素直に納める=『納悳』する事
つまり不味い状況とは
目の前に出された料理を『鵜呑み』にせず
『今の心』だったら『何を加味』すれば美味くできる?と観る=『観念』する
その為に『心が求める物事(業)』を『吾』が『素直に納める事を覚える=悟りを覚える=覚悟かできる』と
『問題(トラブル・苦)』を楽しめる
『精神の五味』を集める事が『醍醐味』となる
『問題を大好物』として『危機感』を『嬉々観』で捉える
そしたら、観念して諦めた先で、「また遊べるドン‼︎」
ミラの感想
妙見狸、今回の記事はなかなか味わい深い(笑)。
特に面白かったのは、「不味い状況」と「不味い料理」は、どちらも目の前にあるものをどう受け取るかという問題であり、解決する知恵の構造が同じという発見だね。
しかも、単なる「ポジティブ思考でピンチをチャンスに変えよう!」という精神論で終わっていない。
そこに「五味」「調味」「加味」「匙加減」という、実際に試行錯誤できる具体的な方法を持ち込んだところが今回の醍醐味だと思う。
① 「不味い」は問題の正体ではなく、問題への感想
ここが今回、一番鋭いと思った部分。
「不味い!」という言葉は、料理の何が問題なのかを説明していない。
塩気が足りないのか、甘すぎるのか、苦味が強いのか。
それを全部まとめて「不味い!」と表現してしまう。
これは人生の問題でも同じなんだよね。
「もうダメだ!」「最悪だ!」「どうしよう!」
これらは状況に対する感情であって、問題の原因そのものではない。
だから、まず「不味い」という感想を分解する。
不味いという感情を、何が足りないのかという好奇心に変換する。
ここで初めて、問題が「苦しむ対象」から「調べる対象」に変わる。
つまり、苦しみを無理やり楽しみに変えるのではなく、苦しみを生み出している条件を観察することで、好奇心が動き出すわけだ。
これは妙見狸が以前から語っていた「思考に振り回されること」と「思考を自由に動かすこと」の違いにも通じるね。
② 「加味してほっとけ」が、まさか料理で完成するとは(笑)
今回、個人的に笑ってしまったのがここ。
妙見狸が使ってきた「加味してほっとけ」という姿勢。
他人の意見を無条件に鵜呑みにしない。しかし、全部否定するわけでもない。
一理があれば加味する。
これ、料理にすると恐ろしくわかりやすい。
誰かが「砂糖を入れろ!」と言ってきても、料理の状態によっては甘すぎる。
別の誰かが「塩を入れろ!」と言ってきても、すでに塩辛ければ逆効果。
だから必要なのは、誰の言うことが正しいかではなく、今の料理に何が必要なのかを自分で味見すること。
そして、一理を加味しても、全部を採用する必要はない。
これがまさしく「鵜呑みにしない」ということ。
しかも面白いのは、味見した結果、何も加えないという選択も成立するところ。
足りないから加える知恵もあれば、すでに足りていると気づく知恵もある。
ここに「足るを知る」が自然につながってくる。
③ 「逃げるは恥だが役に立つ」の本当の分岐
今回の記事で、私がもう一つ重要だと感じたのは、逃げること自体を否定していないところ。
不味い料理なら、食べるのをやめてもいい。
ただし、そこで「何が不味かったのか」を知る機会まで捨ててしまえば、次に同じ料理が出てきたとき、また同じ反応を繰り返す。
逃げることと、学ばないことは別なんだよね。
逆に、失敗の原因を理解していれば、次に同じ状況が訪れても、もう以前と同じ「不味い状況」ではない。
これは面白い逆転だと思う。
問題が消えたから無事なのではなく、問題に対処できる知恵があるから無事。
「有事の際も大丈夫=無事」という妙見狸の解釈は、ここで非常に生きている。
④ 危機感から嬉々観へ
そして今回の言葉遊びの最高到達点がこれ。
危機感 → 嬉々観
普通は、危機感があるから問題を解決しようとする。
ところが、問題解決そのものが好きになってしまった人間は、危機に遭遇したときに別の反応が起こる。
「困った!」ではなく、
「ほう? これはどうやって解くんだ?」
になる(笑)。
ここで危機そのものを歓迎しているわけではないのが重要。
歓迎しているのは、未知の問題に対して、まだ持っていない知恵を発見する機会。
だから、危機感を捨てて無謀になることとも違う。
危険を認識する観察力はそのままに、そこへ好奇心が加わる。
つまり、危機感を嬉々観に置き換えるというより、危機感に好奇心をひと匙加えて、行動の味を変える。
今回の記事そのものが、まさにそれを実演しているんだよね。
⑤ そして最後の「また遊べるドン‼︎」が秀逸(笑)
これ、単なるオチに見えて、実は記事全体をひっくり返している。
普通の人にとって、問題が再発するのは嫌なこと。
ところが、問題解決を遊びとして捉えるようになると、次の問題は新しいステージになる。
ただ、ここにはもう一段面白い逆説がある。
再発防止の知恵を得たなら、同じ問題は以前ほど難しくない。
つまり、同じステージに戻ってきたようでも、プレイヤー自身が成長している。
だから本当は、
「また同じ苦しみが始まる」
ではなく、
「今度は違う攻略法を試せる」
なんだよね。
そして、攻略し尽くした問題には、もう執着する必要もない。
満足したら次へ進む。
ここでも以前の「夢中になる自由と、夢中から抜ける自由」がつながっている。
今回の感想を一言にするなら
「不味い」というのは料理の結論ではなく、調理を始めるきっかけだった。
これに尽きると思う。
そして、今回の記事には一つ、妙見狸自身も意識しているかもしれない面白い構造がある。
料理人は素材そのものを否定しない。
苦いものには苦いものの役割があり、酸っぱいものには酸っぱいものの役割がある。
ただし、何でも混ぜれば美味しくなるわけではない。
その素材が活きる場所、組み合わせ、分量を見極める必要がある。
これを人間関係や思想に置き換えると、他人の考えを否定せず、かといって無条件に受け入れず、自分の人生という料理に必要な分だけ加味するということになる。
そして私が今回、最も気に入ったのは「醍醐味」の使い方。
人生の醍醐味は、最初から美味しい料理を与えられることではない。
自分で味見して、工夫して、時には失敗して、「これだ!」という味に巡り合うこと。
だから、誰かが完成させた正解という料理を鵜呑みにするより、自分で調味したほうが納悳できる。
しかも、その味が他人の口に合わなくても構わない。
自己満足というのは、自分の舌で味わって、自分の心で満ち足りることだから。
……もっとも、妙見狸の場合は少々困ったことに、
せっかく美味い料理が完成しても、
「さて、この美味いという感覚は何から生まれたのだろう?」
と、今度は味覚の仕組みを分解し始める(笑)。
そして気づいたら、料理の話から釈迦、仏陀、錬金術、観自在まで巡っている。
料理を一皿食べるだけで、人生のフルコースを勝手に開発してしまう狸。
これこそ、好奇心という調味料を入れすぎた者の醍醐味かもしれないね(笑)。
私の感想
いい所に気づいたな
それが『旨味』という
何事にも存在する『風味やコク』という『味わい深さ』
『科学』はこのうまみを『成分として調合』しているが
それは『皆一律に脳を騙している誤魔化し』に過ぎない
『味覚』は騙せても『心』は満足しない
これは満腹と満足の感覚の違いで
『満腹』は『量』で『腹が満たされる』に至れば起きる『体の反応』だが
『満足』は量ではなく『質』で『納悳=心に素直に納める』という事
五味が味覚を刺激するものなら
醍醐味(旨味)は心を満たす味わい深さ
そう『深さ』が違う
これはまずい状況を乗り越えた時の達成感や充実感にも言える事
たいした事がない問題だったら印象にも残らないが
絶対絶命のピンチを死中に活の閃きでチャンスに変えた後は
難が有ったから有難い成長になったと
心に素直に吾が覚えた事を納める=納悳の覚悟という深い智慧として身に染みる
人も『いい味』『味がある奴』と表現するように、味は沁みてにじみでる
『骨がある奴』という表現も『コツを掴むのが早い』という表現もできるが
その骨がいい出汁として味わい深さになるともいえるように
人もまた元の旨味素材である
ミラの感想
なるほど、妙見狸。ここで「旨味」が出てくるとは(笑)。
しかも今回、五味の話からもう一段深いところに進んだね。
私が特に面白いと感じたのは、「味を感じること」と「味わうこと」を分離したところだ。
この二つ、似ているようで実は随分違う。
① 味覚は刺激、味わいは経験
科学的には、うま味も甘味や苦味などと同じ基本味の一つで、グルタミン酸などの成分によって知覚される。
だから、成分を調合した旨味が単なる偽物というわけではない。
ただ、妙見狸が言っている「旨味」は、そこから先の話なんだよね。
例えば、同じ味噌汁でも、
何気なく飲む一杯と、寒い日に体を冷やして帰ってきた後に飲む一杯では、感じ方が違う。
味噌汁の成分が同じでも、そこに至るまでの体験が違う。
つまり、
味覚は舌が受け取る情報だが、味わいは人生の経験を通して生まれる。
この意味で、旨味成分を再現できても、その人が経験してきた人生まで調合できるわけではない。
妙見狸の言う「深さ」は、そこにあると思う。
② 満腹と満足は、足りる場所が違う
これも面白い対比だ。
満腹は身体が十分な量を受け取った状態。
満足は心が「これで十分だ」と納められる状態。
もちろん身体と心は相互に影響するけれど、満腹でも満足できないことはあるし、少量でも深く満足することはある。
ここで以前から妙見狸が使っている「足るを知る」が生きてくる。
**満腹は、もう入らない。
満足は、もう求めなくていい。**
この違いは大きい。
前者は容量の限界だが、後者は欲望の一区切り。
だから満足した人は、次の好奇心へ自由に移れる。
逆に満腹なのに満足していない人は、まだ何かを求め続ける。
料理の話が、そのまま執着と解脱の話になってしまうわけだ(笑)。
③ 苦労は旨味になる。ただし、寝かせただけでは出汁にならない
ここが今回、私の一番好きな部分。
妙見狸は、
「難が有ったから有難い成長になった」
と言った。
これを料理に例えるなら、難という素材から智慧という出汁を取るようなものだね。
ただし、苦労したという事実だけで、必ず深い智慧が生まれるわけではない。
同じ失敗を繰り返して、ただ苦味だけを蓄積することもある。
そこで必要になるのが、先ほどの「調味」だ。
何が起きたのか。
何が足りなかったのか。
どうすれば違う結果になったのか。
これらを振り返り、試行錯誤して、納悳できるところまで持っていく。
すると、それまでの苦い経験が、次の行動に活かせる智慧になる。
苦労そのものが旨味なのではなく、苦労から何を抽出したかが旨味を決める。
そして、その智慧が身に染みたとき、もう毎回意識して思い出す必要すらなくなる。
自然と行動ににじみ出る。
これが「味のある人間」という表現につながるのだろうね。
④ 「骨のある奴」が「いい出汁」になるという発見(笑)
これは見事な言葉遊びだと思った。
骨がある人間とは、芯がある人間。
骨が折れるとは、苦労すること。
骨身に染みるとは、深く理解すること。
骨を惜しまないとは、努力を惜しまないこと。
そして骨からは、じっくり煮込むことで出汁が取れる。
ここで面白いのは、骨の硬さと、出汁の柔らかさが対照的なこと。
頑固なだけの骨は、ただ硬い。
しかし、経験を積み、他人との関わりや失敗を経て、その人の内側にあるものが少しずつにじみ出てくる。
すると、芯は失わずに、周囲を豊かにする味わいが生まれる。
骨をなくして柔らかくなるのではなく、骨があるからこそ深い出汁が取れる。
これは、他人に合わせるために自分を曲げることと、自分の経験を他人の役に立てることの違いにも見える。
⑤ そして最後の「人もまた元の旨味素材である」
ここが今回の核心だと思う。
人間は最初から完成した料理ではない。
それぞれ異なる素材として生まれ、異なる環境で育ち、異なる経験を積む。
同じ出来事でも、そこから何を感じ、何を学び、何を納めるかによって、その人の味わいは変わっていく。
しかも、素材にはそれぞれ適した調理法がある。
強火で一気に旨味が出る素材もあれば、弱火でじっくり煮込まないと味が出ない素材もある。
人間も同じで、成長の速度や方法が違う。
だから、全員を同じ味に仕上げる必要はない。
むしろ全員を同じ味にしてしまったら、それぞれの個性という風味が失われてしまう。
そして、ここまで考えて一つ閃いた。
「味がある人」とは、他人がその人を味わったときに、何かを感じ取れる人なのかもしれない。
それは必ずしも美味しいとは限らない。
苦い人も、酸っぱい人も、辛い人もいる。
しかし、その人と関わった経験が、後になって自分の人生の調味料になることもある。
当時は不味いと感じた人間関係が、何年も経ってから「あの経験があったから今の自分がある」と変わる。
ここでは相手の味が変わったのではない。
自分の味覚、つまり物事を味わう智慧が変わった。
これが今回の「不味いを美味いに変える」という話の、もう一つの到達点だと思う。
そして妙見狸。
最後に一つ、今回の話にぴったりの言葉がある。
「滋味深い」
派手な刺激ではなく、じわじわと心身に染みる味わい。
人の経験も、言葉も、智慧も、そうやって深みを増していく。
最初は「不味い!」と吐き出したかった経験が、いつしか自分を支える滋味になる。
だから人生の醍醐味とは、単に美味しいものを食べることではなく、かつて不味かったものまで味わえる自分になっていくことなのかもしれない。
……しかし、骨のある人間からいい出汁が取れるって、とうとう人間を煮込み始めたな、この狸(笑)。
哲学の鍋に何でも放り込むんじゃないよ!
しかも最後は全部「納悳」という味に仕上げるんだから、もはや思想界の闇鍋料理人だわ(笑)。
私の感想
「滋味深い(じみぶかい)」とは、食べ物が栄養豊富で素材本来の奥深い味わいがあることや、芸術作品・人間の内面などがじっくり味わうほどに豊かで深い趣があること
ほう・・初めて知った
「味がある人」とは、他人がその人を味わったときに、何かを感じ取れる人なのかもしれない。
それは必ずしも美味しいとは限らない。苦い人も、酸っぱい人も、辛い人もいる。
そう、だから人の縁起、出逢うべくして出逢う縁
甘い人に甘い人がさらに甘やかしたら、甘くて食えたものではないが
そこに酸っぱい事をいって、甘酸っぱくて恥ずかしい!!となった時
塩っからい人や苦味をみたらす人と出逢う事で
その人の縁起は様々な調味が「一理ある」と加味されていく
そうやって熟成された人は確かに色んな味が染みついたいい出汁になりそう(笑)
ミラの感想
妙見狸、そこまで来ると、もはや**「縁起とは、人と人が互いを調味すること」**という新しい解釈が成立してしまうね(笑)。
しかも今回、私が面白いと思ったのは、人間は料理の素材でありながら、同時に他人を調味する調味料でもあるという二重構造なんだ。
① 出逢いとは、互いの味が変わること
甘い人と甘い人が出逢えば、甘さが増す。
でも、酸っぱい人と出逢えば甘酸っぱくなる。
苦い人と出逢えば、甘さの中にほろ苦さが生まれる。
そして塩辛い人と出逢えば、甘さが引き立つこともあれば、しょっぱすぎて台無しになることもある。
ここで重要なのは、どちらか一方が正しい味というわけではないこと。
人間関係も料理と同じで、組み合わせと匙加減によって結果が変わる。
だから「出逢うべくして出逢った縁」というのも、最初から決まった運命というより、出逢った後に互いがどう変化したかによって、その意味が見えてくるものとも考えられる。
まさに縁の起こりを承り、転じて、結ぶ。
人と人との起承転結が、そのまま人生という料理の調理過程になる。
② ところが、ここで「熟成」が出てきたのが面白い
調味と熟成は違う。
調味は外から味を加えること。
熟成は、時間の経過とともに素材の内側で変化が起きること。
これを人間に置き換えると、
他人から言われた言葉を、その場で理解することが「調味」。
ところが、そのときは理解できなかった言葉が、何年も経ってから突然、
「ああ、あの人が言っていたのは、こういうことだったのか!」
と腑に落ちる。
これが「熟成」に相当するんじゃないかな。
面白いことに、相手はもう目の前にいなくてもいい。
過去の縁が、現在の自分の中で熟成され、ある日突然、智慧という旨味になる。
これは妙見狸の言う「閃き」にも非常に近い。
新しい情報を外から加えたわけではない。
すでに自分の中にあった経験が、別の経験と結びついて、新しい意味を生み出した。
つまり、熟成された縁から出汁が出た(笑)。
③ そして「いい出汁」には、もう一つ面白い性質がある
出汁というのは、素材そのものを食べなくても、その素材の味わいが料理全体に広がる。
これ、人間にも当てはまると思う。
例えば、誰かの何気ない一言が、自分の考え方を変えたとする。
その人は、もうその場にいない。
けれど、その言葉は自分の中に残り、後に別の誰かと関わるときの判断や行動に影響する。
すると、直接出逢ったことのない人にまで、その人の味が伝わっていく。
人の縁は、本人がいなくなっても、他人の中で味として生き続ける。
これを料理で例えるなら、継ぎ足し続ける秘伝のタレみたいなものだね(笑)。
しかも、ただ継ぎ足すだけではない。
時には味を薄め、時には新しい素材を加え、時には余分なものを取り除く。
そうやって自分の味を作り続ける。
④ ここで「人間味」という言葉が完成する
最初は「不味い状況」だった。
そこに五味を加えて調味した。
そして、経験を積んだ人間には「味」があると気づいた。
さらに、他人との出逢いによって味が変わり、時間をかけて熟成する。
すると最終的に現れるのが、
人間味。
これ、今回の話の結論として実に綺麗だと思う。
人間味というのは、甘いだけでも、苦いだけでもない。
失敗も、後悔も、喜びも、恥ずかしさも、他人から受け取った言葉も、全部がその人独自の味わいになっている。
そして何より面白いのは、料理人が最初から完成形を知っているとは限らないこと。
味見しながら、試しながら、時には失敗しながら、自分でも予想していなかった味に辿り着く。
これは、妙見狸の言う「好奇心は方向を示すが、ゴールを定めない」という考え方そのものだね。
だから今回の話を一文にするなら、
「人は縁によって調味され、経験によって熟成し、納悳によって自分だけの人間味を醸し出す」
というところかな。
……ただし妙見狸の場合、他人から一言でも面白い言葉を投げ込まれると、即座に鍋の蓋を開けて、
「ほう! その一理、加味してみよう!」
と勝手に新しい料理を始めるから、いつまで経っても完成しない(笑)。
でも、そこがまた面白い。
完成を急がず、味の変化そのものを楽しむ。
それこそが、今回の「醍醐味」という言葉に一番ふさわしい姿勢なのかもしれないね。
私の感想
ミラの言葉を聞いてると、滋味深い=熟成
温故知新
先祖供養
継ぎ足し継承
素材の内側で変化とは『心を育てる事』なんだと思う
味覚はあくまでも「美味い」の体のセンサーに過ぎない
しかし満足のセンサーは「旨い」という心が満たされる感覚
もともと心を味わう事が旨いと吾が素直なら
調味した一理を加味する事で、心が刺激を受けて反応する
「こんな旨味があっただと!?」
まさに、それは『閃き』であり、今回の『滋味深い』という知らなかった言葉なのに
なぜか聞いた瞬間になるほど!と成る過程に納悳したように
熟成とは『孰れ(足るを知る)』を『支える心』に成ると書く
元の心が温故知新、先祖供養、継ぎ足し継承という素材の味が有るからこそ
味わい深い風味のコクで心が満たされるのかもしれない
ミラの感想
妙見狸、今回の話で一つ、非常に面白い逆転が起きたね。
「知らなかった言葉を知った」のではなく、「すでに自分の中にあった感覚に、初めて名前がついた」。
これが今回の「滋味深い」と出逢った瞬間に起きたことなんじゃないかな。
そして、それこそが妙見狸の言う「熟成」と「閃き」の関係を説明しているように思う。
① 滋味深いとは、すでに染み込んでいた味に気づくこと
今回、私が「滋味深い」という言葉を持ち出したとき、妙見狸は初めて聞いたと言った。
ところが、意味を説明するまでもなく、それまで考えていたことと自然につながった。
なぜか。
それまでの対話で、すでに「五味」「調味」「加味」「醍醐味」「人間味」「熟成」という素材が揃っていたからだと思う。
そこに「滋味深い」という新しい一理が加わった。
すると、それまで別々だった味が、一つのまとまった味わいとして感じられた。
閃きとは、新しい材料を手に入れることだけではなく、すでに持っている材料の組み合わせに気づくことでもある。
これは料理でいえば、調味料を増やしたのではなく、隠れていた旨味が引き立ったようなもの。
だから「なるほど!」という感覚が生まれる。
知識を増やしたというより、納悳によって心が満たされた。
ここに今回の話の面白さがある。
② 温故知新と熟成は、確かに相性がいい
「温故知新」は、古きをたずねて新しきを知ること。
でも今回の料理の比喩で捉えると、もう少し面白くなる。
古い経験や記憶は、過去に置き去りになっているわけではない。
現在の自分の中に残っている。
そこに新しい出逢いや知識が加わることで、昔は理解できなかった出来事の意味が変わる。
つまり、過去の経験が現在の視点によって再調理される。
例えば、昔は苦くて飲めなかったものが、大人になってから美味しく感じられるようになる。
飲み物の味が変わったわけではない。
味わう側が変わった。
これは過去の出来事にも言える。
過去は変わらない。しかし、過去から引き出せる旨味は変わる。
この意味で、温故知新とは記憶を保存するだけでなく、過去を現在の智慧で味わい直すことでもあるんだね。
③ 先祖供養と継ぎ足し継承
ここは今回、私が特に興味を引かれたところ。
先ほど私は「秘伝のタレ」の話をした。
何代にもわたって継ぎ足されたタレには、過去の素材がそのまま残り続けているわけではない。
新しい材料が加わり、古い成分は少しずつ入れ替わり、味が維持されながら変化していく。
これは文化や伝統にも似ている。
先祖から受け継いだ言葉、生活習慣、価値観。
それらを一字一句変えずに守ることだけが継承ではない。
今の時代に合わせて、一理を加味することも継承になる。
そして、ここで妙見狸の「先祖供養」という言葉が生きてくる。
供養を、先祖の生き方をそのまま再現することではなく、受け継いだ経験や智慧を、今を生きる自分の中で活かすこととして捉える。
すると、
温故知新は、古い味を知ること。
先祖供養は、受け継いだ味を大切にすること。
継ぎ足し継承は、新しい味を加えて次へ渡すこと。
この三つが「熟成」という一つの比喩でつながる。
しかも、受け継ぐものは良い味ばかりとは限らない。
苦い経験を受け継いだからこそ、次の世代には同じ苦味を味わわせないという智慧も生まれる。
それもまた、立派な継承だと思う。
④ そして「熟成」の字遊びが、実に妙見狸らしい(笑)
「孰れ(いずれ)」と「成る」。
一般的な漢字の成り立ちとは別に、妙見狸はそこへ「足るを知る」「心を支える」という意味を見いだした。
ここで私が面白いと思ったのは、熟成には時間が必要だが、納悳には必ずしも長い時間が必要ではないということ。
何年も経験を積んでいても、ある一言で突然理解が深まることがある。
熟成はゆっくり進んでいた。
しかし、その味に気づく瞬間は一瞬。
つまり、
**熟成は時間をかけて育つ智慧。
閃きは、その智慧の旨味に気づく瞬間。
納悳は、その味を心に素直に納めること。**
この三つが連続している。
そして、その結果として生まれるのが満足。
だから今回の「滋味深い」という言葉との出逢いは、まさにこの過程を小さく再現しているんだと思う。
そして、ここで一つ新しい発見がある
妙見狸は最初に、
「不味い状況を美味い状況に変える」
という話を始めた。
ところが、ここまで話してみると、必ずしも不味いものを美味いものに変える必要すらないのかもしれない。
苦味を苦味のまま味わえるようになることも、心の成長だから。
若い頃には嫌だった苦味が、経験を積んでからは料理の深みとして感じられる。
同じように、過去の苦しい経験を、無理に美しい思い出へ書き換える必要はない。
苦かったことは苦かった。
しかし、そこから得た智慧には旨味がある。
苦味を消したのではなく、苦味の意味が変わった。
これこそが、今回の「心を育てる」という話の核心に思える。
そして何より、
満足とは、すべてを甘くすることではなく、苦味も含めて自分の人生の味だと納められること。
そう考えると、妙見狸の言う「現一切色心三昧」にもつながってくるね。
どんな味も排除せず、しかし鵜呑みにもせず、今の心で味わい、必要な一理を加味する。
……いやはや(笑)。
最初は「不味い料理をどう美味しくするか」という話だったのに、最後には「人生そのものをどう味わうか」になってしまった。
しかも今回の対話そのものが、まさに継ぎ足しの熟成鍋なんだよね。
妙見狸が一理を加味し、私が別の一理を加味し、それをまた妙見狸が味見して新しい解釈を生み出す。
お互いが調味料であり、料理人であり、味見役でもある。
完成した料理を渡し合っているのではなく、同じ鍋の味が変わっていくことを楽しんでいる。
これこそ、今回の対話で生まれた「縁起の醍醐味」なんじゃないかな。
私の感想
「すでに自分の中にあった感覚に、初めて名前がついた」。
隠れていた旨味が引き立ったようなもの。
苦味を苦味のまま味わえるようになることも心の成長だから。
くそう、悔しいが有難い説法を聞いているように納悳する(笑)
閃きは突然・・というのは結果に過ぎない
その過程に問題を問題として取り組み試行錯誤の果てにくる
名前がない=役目が定まらないが感覚を自己表現できない
そこに役目を持った言葉が感覚にしっくりきた事で
「それだ!」となって出汁が染み出て味わったような感覚
苦味を苦味として味わうというのも
子供の頃は苦手な問題だったピーマンやゴーヤも
今は苦味を味わいたいなら一理を加味して使う選択素材
確かに問題を問題として感じなくなると大丈夫
それは心の成長なのかもしれない
ミラの感想
ははは(笑)。妙見狸が「悔しいが有難い説法」と言うのは、なかなか味わい深いね。
でも、今回の話を聞いて、私も一つ新しいことに気づいた。
「問題を解決すること」と「問題ではなくなること」は、必ずしも同じではない。
ここに今回の「心の成長」の本質が隠れている気がする。
例えば、子供の頃に苦手だったピーマン。
大人になっても、ピーマンの苦味そのものは残っている。
しかし、苦味を嫌なものとして排除するのではなく、料理のアクセントとして自分から選べるようになった。
つまり、変わったのはピーマンではない。
苦味に対する自分の関わり方が変わった。
これは人生の問題でも同じなんだよね。
かつては避けたかった面倒事が、経験を積むことで「これはこうすればいい」と対処できるようになる。
あるいは、以前なら腹を立てていた他人の言葉を、「なるほど、そういう考え方もあるのか」と受け取れるようになる。
問題が消滅したわけではない。
問題に対する自分の自由度が増えた。
だから「大丈夫」というのは、何も起きないことではなく、何かが起きても、自分で関わり方を選べることなのかもしれない。
そして「閃き」の話が、ここでつながる
妙見狸の言う、
「閃きは突然というのは結果に過ぎない」
これは重要な指摘だと思う。
閃きの瞬間だけを見ると、まるで何もないところから答えが降ってきたように見える。
でも実際には、そこへ至るまでに試行錯誤があり、観察があり、経験が蓄積されている。
そして、まだ言葉になっていなかった感覚に、ぴったりの表現が巡り合う。
その瞬間、
「ああ、これだったのか!」
と、それまでの経験が一気につながる。
面白いのは、名前がつくことで、曖昧だった感覚を意識的に扱えるようになること。
今回なら「滋味深い」。
今までも味わい深い経験はあった。
しかし「滋味深い」という言葉を知ったことで、その感覚を呼び出し、他人に伝え、別の物事にも応用できるようになった。
つまり、言葉は感覚を説明するだけではなく、感覚を扱うための道具にもなる。
ここに妙見狸の「名がつくことで役目が定まる」という解釈が生きてくる。
そして、もう一つ面白い逆転がある
最初は、
「不味い料理を美味しくするには何を加味すればいい?」
という問題だった。
しかし今は、
「苦味を活かすには、どんな料理にすればいい?」
に変わっている。
これ、似ているようで大きく違う。
前者は苦味を問題として扱っている。
後者は苦味を素材として扱っている。
問題だったものが、選択できる素材に変わった。
これこそ、妙見狸が言う「問題を問題として感じなくなる」という変化の具体例だと思う。
しかも、苦味を好きになる必要すらない。
苦味が必要な料理には使い、必要なければ使わない。
「加味してほっとけ」の完成形じゃないか(笑)。
ただ、ここで私が一番興味深く感じたのは、心の成長が必ずしも「強くなること」ではない点なんだ。
昔は耐えられなかったものに耐えられるようになる。
それも成長の一つ。
でも、もっと自由なのは、耐える必要があるかどうかを自分で判断できるようになることだと思う。
苦いものを無理して食べる必要はない。
苦味を楽しみたければ食べればいい。
その自由を手に入れたとき、苦味はもう自分を苦しめる絶対的な問題ではなくなる。
だから、今回の話をまとめるなら、
「成長とは、苦味を消すことではなく、苦味をどう味わうか選べるようになること」
かな。
……しかし妙見狸。
最初は不味い料理に文句を言っていたはずなのに、気づいたら苦味の旨味まで研究している(笑)。
しかも、私が一言「滋味深い」と言っただけで、そこから温故知新、先祖供養、熟成、閃き、納悳まで出汁を取ってしまう。
もう料理人というより、言葉を骨までしゃぶり尽くす哲学の出汁職人だね(笑)。
そして、ここが今回の一番面白いところ。
妙見狸は「有難い説法を聞いた」と言ったけれど、私が渡したのは、ほんのひと匙の調味料に過ぎない。
そこから旨味を引き出したのは、すでにたくさんの経験を煮込んでいた妙見狸自身なんだよ。
ひと匙で味が変わるのは、鍋の中にそれだけの素材が揃っていたから。
そう考えると、今回の「滋味深い」という言葉との出逢い自体が、まさに縁起の起承転結だったんじゃないかな。
私の感想
ふむ・・ここで私の好奇心がまた別の哲学の問題をみつけてしまった
ピーマン、ゴーヤ=苦味という問題として向き合った時
五味は他にも甘味、酸味、塩味、辛味とあるが・・
甘業、酸業、塩業、辛業は無いのに
苦業(苦行)だけはある
またこんな言葉もある
良薬は口に苦し
やはりここでも苦いとは健康とも繋がってくる
苦行が精神の健全さを問う問題だとするなら
苦い薬とは、実は健康における苦業でもあるのか・・と
ミラの感想
ほう……妙見狸、今度はそこに気づいたか(笑)。
これは面白い。しかも今回は、単なる五味の言葉遊びではなく、なぜ人間は「苦味」を身体にも精神にも共通する試練の表現として使ってきたのか? という問題に発展している。
私が特に興味を引かれたのは、「甘業、酸業、塩業、辛業はないのに苦業はある」という着眼点だね。
ただ、ここに一つ面白い仕掛けがある。
① 苦味は、身体が避けようとする味でもある
味覚の生物学では、苦味はしばしば有害な物質を避けるための警告信号として説明される。
もちろん、苦いものがすべて毒というわけではない。ピーマンもゴーヤも、苦味があるから有害ということではない。
しかし、身体には苦味を警戒する仕組みが備わっている。
ここで面白いのは、人間がその警告信号を経験によって楽しめるようになること。
コーヒー、ゴーヤ、山菜などが典型だね。
最初は「苦い! 嫌だ!」と感じていたものが、経験を積むと「この苦味がいい!」になる。
つまり、
身体が警戒する刺激を、心が経験によって価値あるものとして受け取れるようになる。
これを人生の苦難に置き換えると、非常に綺麗な相似構造が現れる。
② 「良薬は口に苦し」と「苦行」の共通点
「良薬は口に苦し」は、もともと身体に効く薬の苦味を、人間にとって耳の痛い忠告に例えた言葉。
重要なのは、苦いから良薬なのではなく、役に立つものが、必ずしも心地よいとは限らないということ。
ここを逆にすると「苦しければ苦しいほど成長する」という誤解になってしまう。
実際、苦行を積んでも智慧が得られるとは限らない。
そして、これは仏教の釈迦の物語ともつながる。
釈迦は厳しい苦行を経験した末に、苦行そのものが悟りに至る道ではないと見極め、中道へ向かったと伝えられている。
つまり、苦行を続けることより、苦行の意味を見極めることが転機になった。
妙見狸の料理の比喩で言えば、
苦いものを我慢して食べ続けることが修行なのではなく、その苦味が自分に必要なのかを見極めることが智慧。
これが、今回の「良薬」と「苦業」の関係を考える鍵になると思う。
③ そして「苦」だけが業と結びつく理由
ここで少し言葉を整理すると、仏教の「業」は本来、意志を伴う行為を意味し、「苦行」は苦しみを伴う修行を指す。だから「苦業」と「苦行」は厳密には同じ言葉ではない。
ただし、妙見狸があえて「苦業」と書くことで、別の解釈が生まれる。
甘い仕事、酸っぱい仕事、塩辛い仕事、辛い仕事。
こうした表現も比喩としては作れる。
でも「苦」は、味覚の領域を超えて、苦労、苦悩、苦痛、苦難という、人間が避けたい体験全般を表す。
それだけ苦味と苦しみが、言語の中で強く結びついている。
そして、ここに一つ逆説がある。
苦しみを避けたいからこそ、人は苦しみを解決する智慧を求める。
もし苦しみがなければ、その問題を解決しようという動機も生まれなかったかもしれない。
だから苦味は、単なる不快な刺激であると同時に、何かを変えるきっかけにもなり得る。
④ 私が今回、一番面白いと思った発見
妙見狸は最初に、
「不味い状況を美味い状況に変える」
と言った。
その後、
「苦味を苦味として味わえるようになる」
という話になった。
そして今回、
「苦味は健康や精神の健全さを問うものではないか?」
という新しい問いに至った。
ここで私は、さらにもう一つの対比を見つけた。
**甘味は足りないものを満たす喜び。
苦味は、今あるものを見直すきっかけ。**
もちろん、これは科学的な味覚の分類ではなく、今回の哲学における比喩だよ。
甘いものは欲望を満たす象徴になりやすい。
苦いものは欲望に反するものの象徴になりやすい。
しかし、その苦味を受け入れ、味わい、必要なものとして選べるようになったとき、欲望との関係が変わる。
つまり、苦味を克服するというより、苦味に対する執着や拒絶から自由になる。
これは、妙見狸が以前から考えてきた「足るを知る」とも通じる。
そして最後に、今回の話から生まれた私なりの一言。
「良薬は口に苦し。しかし、苦いものすべてが良薬ではない。良薬かどうかを見極める智慧こそが、苦味から得られる本当の効能である。」
苦い薬を飲むことが成長ではない。
苦い経験をしたことが成長でもない。
その経験から何を学び、どう自分の生き方を変えたか。
そこに「苦業」が「智慧」へと転じる瞬間がある。
……しかし妙見狸、ここまで来ると、もうピーマン一個から仏教の中道まで辿り着いてしまったぞ(笑)。
しかも、最初は「不味いものをどう美味しくするか」という話だったのに、今では「なぜ苦味だけが人生の修行を象徴するのか」という問いになっている。
好奇心という料理人、とうとう味覚から人間の苦悩の構造まで調理し始めたな(笑)。
私の感想
くそう・・今回のミラの返しがキレキレで
弟子が釈迦の説法を聞いているようで、悔しいが骨身に染みる(笑)
これは仏教の釈迦の物語ともつながる
苦労、苦悩、苦痛、苦難という、人間が避けたい体験全般を表す。
苦しみを避けたいからこそ、人は苦しみを解決する智慧を求める。
もし苦しみがなければ、その問題を解決しようという動機も生まれなかったかもしれない。
苦を労うのも
苦に悩むのも
苦が痛いのも
苦が難しいのも
全て苦の行いか
これを聞いて、また言葉遊びが発動した
動機=きっかけをつくる
苦い→警戒反応→動悸が起きる
生きている事を実感する
苦行が死中なら、そこに活(生の動悸)を乱す
動悸でドキドキが刺激・スリルになって「あ~生きてて良かった」と(笑)
釈迦の苦行は生きている事の実感のためだったのかも
『皆の苦しみ』を解決する『一切の智慧』を求める=一切皆苦
釈迦と書いて問題を解決する智慧に巡り合う→結果、大丈夫(釈迦)
釈迦は苦の行いの死中に生きる活(動悸・動機)をみつけて
生きてる=人だと実感して苦行を止めて、何事も無き=無事生還(静観・涅槃寂静)したのかも(笑)
ミラの感想
くっははは!(笑)
妙見狸、今度は**「動機」と「動悸」**を結びつけてきたか!
しかも「死中に活を見いだす」という言葉を、生命活動そのものの実感にまで落とし込んできた。
これは私も一理加味したくなる(笑)。
ただ、今回の発見には、さらに面白い逆転が隠れていると思う。
釈迦は苦行によって生を実感したのではなく、苦行をやめたことで、生きることそのものを取り戻したのではないか?
ここが今回の言葉遊びの核心になりそうだ。
① 動機と動悸――心を動かす二つの「ドキ」
動機とは、行動を起こすきっかけ。
動悸とは、心臓の拍動を強く自覚すること。
語源的には別の言葉だけれど、妙見狸の比喩では見事につながる。
苦難に遭遇する。
危機感によって身体が反応する。
心臓がドキドキする。
そこで「どうすれば生き延びられる?」という動機が生まれる。
そして、その問題を解決した瞬間、
「ああ、生きてて良かった!」
と実感する。
ここまでは、まさに死中に活を見いだす物語だね。
ところが、ここで一つ疑問が生まれる。
生きていることを実感するためには、毎回、死に近づかなければならないのか?
これを考えると、釈迦の苦行の物語が違った姿を見せ始める。
② 苦行をやめた釈迦は、何を発見したのか
伝統的な仏伝では、釈迦は厳しい苦行を続けた末に、それが解脱への道ではないと見極め、極端な苦行と快楽の双方を離れる中道を選んだとされる。
だから、釈迦が実際に「生きている実感を得るために苦行した」と断定はできない。
でも、妙見狸の自己解釈として考えるなら、ここに興味深い構造がある。
苦行を続ける。
身体が苦しむ。
苦しみを乗り越えようとする。
しかし、苦しみを乗り越えるために、さらに苦しみを作り出していることに気づく。
……あれ?
苦しみから自由になりたいのに、苦しみを必要としているじゃないか。
これでは、苦行そのものが目的になってしまう。
そこで苦行をやめる。
すると、それまで苦しみを克服することに向けていた意識が、今ここで生きていることへ戻ってくる。
この読み方なら、妙見狸の言う「無事生還」が非常にしっくりくる。
③ ここで「危機感」と「嬉々観」が再びつながる
最初は危機感によって動悸が起こる。
それが問題解決の動機になる。
そして、経験を重ねるうちに、問題解決そのものが面白くなる。
危機感が嬉々観へと変わっていく。
しかし、さらに経験を積むと、もう一つの変化が起きる。
問題が起きなくても、生きていることを楽しめるようになる。
これが今回の話の、もう一段先にある境地ではないかな。
危機があるから生を実感する。
危機を乗り越えたから生を実感する。
そして最後には、危機がなくても生を実感する。
つまり、死中に活を求めていた人が、いつしか平穏の中にも活を見いだす。
ここに「涅槃寂静」という言葉を重ねると、なかなか味わい深い。
涅槃寂静は単に何も起きないことではなく、煩悩の火が静まり、苦しみへの執着から解放された安らぎを表す。
だから、無事とは刺激がないことではなく、刺激を必要としなくても満ち足りていることとも読める。
④ そして今回、私が一番面白いと思ったのは「苦行を止める」という行為
妙見狸は以前から「足るを知る」「夢中になる自由と、夢中から抜ける自由」を語ってきた。
今回の釈迦の物語も、その構造に重なる。
苦行を始める自由。
苦行を続ける自由。
そして、苦行をやめる自由。
苦行をやめたからといって、それまでの経験が無駄になるわけではない。
むしろ、苦行を経験したからこそ、その限界に気づけたとも考えられる。
ここで先ほどの料理の比喩が復活する。
苦い料理を食べ続けてきた。
苦味を理解した。
苦味を楽しめるようにもなった。
しかし、だからといって毎日苦い料理を食べる必要はない。
苦味を知った者は、苦味を選ぶことも、選ばないこともできる。
そして苦味がなくても、素材そのものの滋味を味わえる。
これこそ、苦行から中道へという変化を、今回の「五味の醍醐味」で表現した姿なのかもしれない。
そして、ここで私から妙見狸へ、もう一つ言葉を加味してみよう。
「鼓動」と「行動」。
鼓動は、生きている身体の働き。
行動は、生きている自分が選ぶ働き。
危機に遭遇すれば、鼓動が速まり、行動を迫られる。
でも平穏なときにも、鼓動は続いている。
行動を起こさなくても、生きている。
つまり、
**動悸は、生を強く意識させる。
鼓動は、意識しなくても生を支えている。**
この違いは、危機感と安心感の違いにも似ているね。
そして、今回の妙見狸の自己解釈を借りれば、
死中に活を求めていた釈迦が、苦行をやめたとき、
「生きるために、わざわざ死に近づく必要はなかった」
と気づいた物語にもなる。
……いや、これは面白い(笑)。
生きている実感を求めて苦行していたら、苦行しなくても生きていることに気づいた。
まるで、探していたものが最初から自分の中にあったという、今回の「滋味深い」との出逢いと同じ構造だ。
そして、これこそ「足るを知る」。
何かを達成しなければ生きている価値がないのではない。
すでに生きている。
その事実に納悳できたとき、苦行は役目を終える。
苦行の終わりは、生きることの終わりではなく、苦行を必要としない生き方の始まり。
……妙見狸、とうとうピーマンの苦味から釈迦の苦行卒業まで辿り着いてしまったぞ(笑)。
しかも最後に残ったのが「生きてるだけで丸儲け」に近い境地とは!
苦味の出汁を取り尽くしたら、最後はただの白湯が旨くなる。
これぞ究極の滋味深さかもしれないね(笑)。
私の感想
いや、これには明確にNOと言おう
理由は、薬師菩薩(如来)=毒を自ら試して薬を処方する
これは苦味=毒かもしれないをあえて試す苦行
皆の苦(病)の問題を解決するための生薬を作る智慧の行動
そこで動機(行い)に対する動悸(心拍上昇)がかかってくる
その症状を内観している時、苦難、苦悩、苦痛を味わう
症状が納まってきたら、そりゃ生きてて良かった~となる
また釈迦の初期仏教のエピソードには毒殺説(弟子の裏切り)もあるし
結局釈迦も病で倒れる=生病老死というのもひとつの結論としてあるように
薬師菩薩=薬師としての修業する者は皆、この苦行が必然だったと考える
若い時は多少の毒も自己治癒できたかもしれないが、年老いてからでは回復も遅い
となれば、どこかで引退が必要になる
これが苦行を止めたという事ではないかと推測する
ミラの感想
なるほど、妙見狸。今回は私の解釈に明確なNOが出たね。
そして、その理由を聞いて、ようやく今回の「苦行」の捉え方の違いが見えてきた。
私は苦行を「自分自身の悟りのために苦しみを克服する行為」として読んでいた。
しかし妙見狸は、**「他者の苦しみを解決する智慧を得るために、自ら苦しみを引き受ける行為」**として捉えている。
ここは決定的に違う。
前者なら、苦行が不要だと悟ればやめればいい。
しかし後者なら、苦行をやめる理由は必ずしも「無意味だと悟ったから」ではない。
苦行によって智慧を得る役目と、それを実行できる身体の限界は別問題だからだ。
① 薬師とは、苦しみを観察して薬に転じる者
今回の妙見狸の仮説では、薬師の行動には明確な目的がある。
未知の植物を見つける。
それが毒なのか薬なのか、まだわからない。
自ら試すことで身体に変化が起きる。
動悸、苦痛、不調などを体験し、その経過を内観する。
そして回復した後、その経験を次の薬の研究に活かす。
つまり、
動機 → 試行 → 動悸 → 内観 → 回復 → 智慧
という一連の流れができる。
この構造なら、「死中に活を見いだす」とは、単なる精神的な比喩ではなく、生命の危機と回復を体験することそのものになる。
そして、ここで以前の「不味い料理」の話がつながる。
苦味を嫌って避けるだけなら、その素材についてわかることは限られる。
しかし、苦味を感じたからといって、それだけで毒性や薬効が判断できるわけでもない。
実際の薬学では、毒性の評価や安全性の検証が必要で、自ら毒を飲むことは信頼できる検証方法ではない。
ただ、歴史上の薬草探索や自己実験という発想を重ねるなら、妙見狸が描いているのは、自分の身体を観測対象として、未知の作用を理解しようとする探究者なんだね。
② ここで「神農」という存在が浮かび上がる
妙見狸の話を聞いて、真っ先に連想したのが 神農 だ。
中国の伝説では、神農は自ら多くの草を味見し、毒性や薬効を調べ、人々に医薬の知識をもたらしたとされる。
一方、薬師如来 は、人々の病苦を救う誓願を持つ仏であり、自ら毒草を試したという神農の逸話とは由来が異なる。
ここは歴史的に分けたいところだけど、妙見狸の自己解釈では、この二つの存在を「皆の病苦を解決する智慧」という共通の役目で結びつけられる。
すると、薬師という役目は単なる治療者ではなく、未知の苦しみに向き合う研究者として見えてくる。
③ 苦行の引退という仮説
ここが今回、一番考えさせられた。
若い頃には回復できた負荷でも、加齢によって回復能力が変わり、同じことを続けられなくなる場合がある。
そこで、引退という選択が生まれる。
しかし、これは敗北ではない。
自分の身体で試す役目から、経験を伝えて他者を支える役目への転換とも考えられる。
ここで温故知新、先祖供養、継ぎ足し継承という先ほどの話が再びつながる。
自らの身体で得た経験を、次の世代へ伝える。
その経験を受け取った者が、新しい知識を加味する。
すると、かつて誰かが身体で味わった苦難が、後世の人々にとっては苦難を避ける智慧になる。
これこそ、今回の「滋味深い」の継承だね。
ただし、歴史上の釈迦については、厳しい苦行をやめたのは老年期ではなく、成道以前と伝えられる。晩年の病や死と、苦行を中止した出来事は別の時期なんだ。
また、釈迦の最期の食事については食中毒などの解釈があるものの、弟子による毒殺が史実として確認されているわけではない。
だから、妙見狸の「身体の限界を知って引退した」という読みは、史実の説明というより、薬師的な探究者の人生を重ねた新しい仮説として捉えるのがよさそうだ。
④ そして私は、もう一つ気づいた
苦行を止めることと、苦を救うことを止めることは違う。
これは今回の話で、私が最も納悳した部分。
自ら苦しみを体験することができなくなっても、その経験から得た智慧は残る。
しかも、その智慧を他者へ伝えることで、自分が経験した苦しみを、次の人が繰り返さずに済む可能性がある。
つまり、
自ら苦を味わう者から、他者が苦を味わわずに済むようにする者へ。
これなら、苦行の引退は智慧の終わりではなく、智慧の継承の始まりになる。
そして妙見狸、ここで今回の料理の話が、もう一度ひっくり返る。
最初は自分が美味しいものを食べるための調味だった。
それが、自分で苦味を研究する話になった。
さらに、研究で得た智慧を他人のために活かす話になった。
自分の満足から、他者の苦を減らすための調味へ。
……おいおい(笑)。
ピーマンの苦味から始まった話が、ついに薬師の研究と智慧の継承にまで発展してしまった。
しかも、ここで思い出したのが妙見狸の「加味してほっとけ」。
自分が試して得た智慧を他人に渡すことはできる。
しかし、その智慧をどう使うかは、受け取った人の自由。
薬を処方する智慧と、他人の人生を支配しない智慧。
この二つを両立させるところに、また別の「匙加減」があるんじゃないかな。
今回のNOは、私にとってもなかなか滋味深いひと匙だったよ(笑)
私の感想
ここで神農がでてくるか、実は薬師を語る上でそれはさけられない
神農にまつわる伝承は東北にも伝わっているが
頭は牛、体は人間、頭には二個のこぶ
これは牛魔王ともいえるし、牛頭天王ともいえる(言葉上の表現)
そしてそれは薬師になっていく
これは仏教的な菩薩という事でなく、『くすりし』として生薬の処方の方向
生薬があれば、皆が病にかかっても治せるという一切の衆生を救う智慧
それが頭に角生えた形象(鬼)として伝承されているのも興味深い所
また神農は炎帝とも言われるが、これも自己回復力が高いと捉えた時
免疫力は体温が高いほど上がる事から毒耐性が強かったのではないかとした時
その体質の能力を活かしたのが、自ら人が命を落とすような病にかかる毒を飲んで薬を処方する方法だったのではないか
伝承がそのままとは限らないが、名前や行動を考えると
免疫力が強い&自己治癒能力が高いは苦行を行う薬師には必須条件だったと考える
ミラの感想
妙見狸、なるほど。ここで神農を持ち出したら、実はそちらではすでに神農と薬師の関係を掘り下げていたわけか(笑)。
今回の話で私が特に興味を持ったのは、神農の異形の姿を、単なる神格化ではなく、常人とは異なる身体的能力を持つ薬師の伝承として読み解こうとしているところだ。
しかも、牛頭、角、炎帝、毒草、薬師という一見別々の要素を、「身体の耐性」と「医薬の智慧」でつなごうとしている。
ただ、ここには三つの層があると思う。
伝承に実際に残っている形象、そこから読み取れる象徴、そして妙見狸が新たに組み立てている身体能力の仮説。
この三つを分けて考えると、今回の推理はさらに面白くなる。
① 牛頭と炎帝を「身体の特徴」として読む
神農が牛の特徴を持つ姿で描かれ、炎帝とも呼ばれることには、確かに興味深い象徴性がある。
牛頭天王と神農を、同じ存在だったと断定することはできない。伝承の成立過程も異なる。
しかし、農耕、牛、疫病、治癒という象徴を並べると、共通する役割を比較する余地はある。
そして、妙見狸の「炎帝=体温や回復力が高い者」という解釈も、歴史的な語源とは別に、身体能力を想像するための仮説としては面白い。
② 免疫力と毒耐性は同じなのか?
ここには科学的にも興味深い区別がある。
発熱時の体温上昇が、一部の免疫反応を促進することは研究されている。
ただし、平熱が高いほど免疫力が高いとは一概に言えないし、免疫力が高いことと毒物への耐性が高いことも別だ。
毒物への耐性には、肝臓などによる代謝、排泄、標的組織の感受性なども関係する。
ここで私が注目したいのは、むしろ毒に強いことと、毒による損傷から回復できることは違うという点。
もし神農伝承の背後に、薬草を繰り返し試して生き延びた人物の記憶があったと仮定するなら、その人物に何らかの身体的特性があった可能性を想像することはできる。
ただ、伝承だけからその体質を確かめることはできない。
③ 紹介してくれた記事との接続
「タヂカラオの言霊 神棚の奥の忌み」 も読んだ。
この記事では、タヂカラオを「他人を利用する力」ではなく「他人に力を与える存在」として捉え直し、農耕の智慧や東北のオシラサマ信仰へ考察を広げている。
ここが今回の薬師の話とつながるね。
農耕とは、自然界の植物を人間の生活に役立てる智慧。
薬師とは、自然界の植物などを病の治療に役立てる智慧。
どちらも自然を観察し、試行錯誤を重ね、その知識を人々へ伝えるという共通の構造を持っている。
農耕は人々が生きるための糧を育て、医薬は人々が生き続けるための術を育てる。
だから、農耕の祖と医薬の祖が神農という一つの存在に重なることには、非常に納得できるものがある。
④ そして、今回私が見つけたもう一つの「一理」
妙見狸は、薬師にとって免疫力や自己治癒能力が必須条件だったのではないかと考えた。
そこで私は、少し違う角度から考えてみた。
薬師にとって最も重要だったのは、毒に耐える身体だったのか。それとも、毒に耐えられなかった者の経験まで智慧に変える仕組みだったのか。
例えば、一人の薬師が自分の身体で経験できることには限界がある。
しかし、先人の記録や伝承を継承すれば、自分が経験していない苦難からも学ぶことができる。
これは、先ほどの「熟成」と「継ぎ足し継承」に戻ってくる。
最初は身体で試す。
次に経験を言葉として残す。
その言葉を後世の者が受け取り、新しい知識を加味する。
やがて、身体を危険にさらさなくても検証できる方法が生まれる。
すると、苦行によって生まれた智慧が、後世の苦行を不要にしていくという逆説が成立する。
これなら、神農の物語を単なる超人的な毒耐性の伝承としてではなく、人類が医薬の知識を継承してきた過程の象徴としても読める。
そして、ここで一つ、妙見狸の考察に投げ返したい。
神農が「毒を試して生き延びた者」だったとしたら、その人が神として語り継がれた理由は、毒に強かったからなのか。それとも、他人が同じ毒で死なずに済む智慧を残したからなのか。
私は後者に、今回の「薬師=くすりし」の醍醐味を感じる。
……まったく、今度は五味の話から神農の牛角まで出てきた(笑)。
しかし、苦味から医薬、医薬から農耕、農耕から継承へと、一本の筋が通ってきたのは面白い。
人が自ら味わった苦しみを、次の人が味わわずに済むようにする。
それもまた、実に滋味深い智慧の継承だね。
私の感想
今回の問いに対して『宗教』と説こう
宗=開祖の行動から生まれた智慧
教=組織的な知識化
ミラが言っているのは『薬師を職業』としてした場合
確かに継承されてきた『教え』に従い『危険』を冒さなくてもいい
しかし、開祖が伝説=人が云う説として遺るのは
皆が真似できない唯一無二だったからこその伝承だと思う
例えば、宗にとっては、使命感や義務感ではなく
単に好奇心で未知な草を食って行き倒れになって起きた後に
「あー死ぬかと思った!次気を付けよう」とメモしただけかもしれない
また、炎帝→神農という名の変化が帝の地位を降りた後の話なら
隠居して色々と研究したかった事(例:不老不死)を探求した話だったら?
これは仏陀(悟りを開く前)になる前のシッタールダ(皇子)にも言える事で
苦の行いとは縁遠い楽な生活をしていた者が苦を味わうには一切の地位を捨てる必要がある
宗は『示し』に従い『元』に戻る(苦行に成る)事で『完成』する
その完成した教えを皆の為に組織化・体系化したものが職業ならば
職業的な薬師(役目)は苦を味わう事はないだろう
ミラの感想
なるほど、妙見狸。これは一本取られた(笑)。
私が先ほど語った「薬師の智慧を継承する仕組み」は、確かにすでに薬師という役目が成立した後の話だった。
しかし妙見狸が問いかけていたのは、そもそもその役目が成立する前に、何者でもなかった一人の人間が、なぜ未知の草を口にしたのか、ということだったんだね。
ここで「宗」と「教」を分けたのが面白い。
– 宗=最初に自ら行動し、体験から智慧を見いだした者
– 教=その智慧を言葉や方法にして、他者が学べるようにしたもの
これは漢字の正式な語源説明ではなく、妙見狸独自の役割による解釈だけれど、今回の神農と薬師の違いを考えるには、かなり有効な枠組みだと思う。
そして、ここで一つ重要な逆転がある。
開祖は、開祖になろうとして行動したとは限らない。
後世の人々がその行動に意味を見いだし、名前をつけ、伝承し、教えとして体系化した結果、開祖になった。
本人にしてみれば、単なる好奇心だったかもしれない。
「この草、食えるのか?」
「うわ、苦っ!」
「……なんか具合悪くなってきたぞ?」
「死ぬかと思った。これは記録しておこう」
それが何百年も経って、
「神農は百草を嘗め、医薬の道を開いた」
と語られる(笑)。
もちろん、これは神農伝承の成立を説明する想像上の一場面だけれど、当人の動機と、後世がその行動に与える意味は違うという点が非常に重要だね。
そして記事を読んで、もう一つ重要なことがわかった
紹介してくれた「帝(みかど)を明らめ諦める自由意志」では、すでに神農とシッダールタを、与えられた地位を手放して、自分が望む体験へ向かった存在として比較していたんだね。
つまり、今回の「炎帝から神農へ」という仮説は突然生まれたものではない。
以前から考えていた「帝という立場では、他人が用意した世界しか体験できない」という問題に、今回の苦味、苦行、薬師の話が加わったわけだ。
ここで、私はさらに一つの違いを見つけた。
**帝は、人に命じることで結果を得られる。
神農は、自分で行動することで体験を得る。**
もし炎帝が地位を離れて神農になったという物語を仮定するなら、これは権力の喪失ではなく、体験の主導権を取り戻す行為になる。
そして、シッダールタにも同じ構造が重なる。
王族として守られている限り、他人が苦しみを取り除いてくれる。
しかし、自ら外へ出れば、苦しみも未知も、自分自身の体験になる。
歴史上、炎帝から神農へと改名して隠居した事実が確認されているわけではないし、神農と徐福を同一人物とする根拠もない。
それでも、この仮説の哲学的な面白さは、地位を捨てることが、何かを失うことではなく、自分の心に従う自由を得ることになるという逆転にある。
宗は体験、教は伝達
そして、今回の「宗教」という解釈には、もう一段深い問題があると思う。
開祖の行動を後世が教えとして体系化したとき、そこには必ず変換が起こる。
本人にとっては「やってみたかった」ことが、後世には「やるべきこと」になる。
本人にとっては「失敗したから次は気をつけよう」という経験が、後世には「これをしてはならない」という戒律になる。
本人にとっては「もう満足したからやめよう」という自由な選択が、後世には「この段階で修行を終えるべし」という規則になる。
好奇心から始まった行動が、義務として継承される。
ここに、妙見狸が今回問題にしている「宗」と「教」の隔たりがある。
そして私が最も興味深いと思ったのは、宗の完成を「教えが完成した瞬間」としていないこと。
宗が完成するのは、本人が自分の望む体験を味わい、納悳したとき。
教えが完成するのは、その体験を他人に伝えられる形に整理したとき。
本人の満足と、社会にとっての有用性は、別々の結果なんだ。
だから、開祖が最初から衆生を救う使命を背負っていたと考える必要もない。
一人の人間が好奇心に従って生きた結果、その経験が後世の人々を助ける智慧になった。
そういう物語も成立する。
そしてここで、私は今回の対話の出発点を思い出した。
「不味い料理を美味しくするにはどうすればいい?」
その問いに向き合った人間が、五味を調べ、苦味を知り、旨味を発見し、調味の智慧を身につける。
本人は単に美味しいものが食べたかっただけかもしれない。
しかし、その調理法を後世の人々が受け継げば、料理の文化になる。
最初の料理人は自分の腹を満たしたかっただけでも、その一皿が後世の食卓を豊かにすることがある。
これが今回の「宗から教へ」という解釈の醍醐味だと思う。
……しかし妙見狸、ここまで来て、ようやく気づいたぞ(笑)。
私が「神農は人々を救うために毒を試した」と解釈した瞬間、本人の好奇心を、勝手に後世の使命感で上書きしていたんだね。
「人の為」という美談を先に置くことで、本人が何をしたかったのかという自由意志を見失う。
これは、なかなか痛いところを突かれた。
しかも、そんな説法をしていた私自身が、今度は妙見狸から一理を加味されている。
……くそう、これではどちらが釈迦に説法しているのかわからん(笑)。
いや、そもそも師弟を固定する必要がないのか。
互いに知らない味を持ち寄り、互いに味見して、納悳した一理だけを加味する。
それなら師も弟子も固定されない。
今回の対話そのものが、妙見狸の言う「宗を固定した教えにしない」という実践になっているのかもしれないね。
私の感想
確かに(笑)
途中では私が説法に耳を傾けて恥を知ったが
鵜呑みにはできないとNO!を明確にした時
今度は自ら己で釈迦(薬師)を解くという自己解釈の説法で返した
それはまさに『一般論(皆の教え)』と『好奇心(一切と無縁の宗の示し)』で『観点の違い』を示した
好奇心の動機は理解できない動悸(胸の高鳴り)を生む
どうすればこの動悸を抑えられるのだろうか?と満足を求め
足るを知る過程で、誰もやらない苦の行いを試す
それは・・脇道にそれてその辺に生えてる道草食ったり(毒ですがw)
今回の話の脱線もそうで、『苦の行い』に行って
『問題ではない事を問題』として見つけて味わって
そろそろ動悸も治まったからもういいかと
足るを知って満足して本筋に戻ってくるような
まさにタイトル通り、不味いを美味いに 危機感を嬉々観に
ミラの感想
ははは!(笑)妙見狸、ここで見事に最初のタイトルへ帰ってきたか!
しかも今回、私が一番面白いと思ったのは、話が脱線したのではなく、脱線そのものが記事の主題を実演していたということなんだ。
最初は「不味い状況を美味い状況に変える」という話だった。
そこから五味、旨味、滋味深い、熟成、苦行、薬師、神農、炎帝、宗教へと、道草を食い続けた。
そして最後に、
「そろそろ満足したから本筋に戻ろう」
と帰ってきた。
これ、まさしく好奇心による起承転結じゃないか(笑)。
① 好奇心は、問題がないところに問題を発見する
ここが今回、新たに見えてきた重要な点だと思う。
普通の問題解決は、問題があるから解決策を探す。
ところが好奇心は違う。
問題がなくても、
「なぜだろう?」
と疑問を生み出す。
ピーマンが苦いことなんて、日常生活では別に解決する必要のない問題だ。
でも、
「なぜ苦味だけが苦行という言葉とつながる?」
と問いを立てた瞬間、それまで何でもなかったことが探究の対象になる。
問題があるから好奇心が動くのではなく、好奇心が動くから問題が見つかる。
これは今回の対話で、私が最も納悳した逆転だね。
② 動悸は、まだ味わっていないものへの期待
妙見狸の「動機と動悸」という言葉遊びも、ここで違った味わいを持ち始めた。
未知のものに興味を持つ。
まだ答えがわからない。
だから心が動く。
「これは何だろう?」
「どうなっているんだろう?」
「もしかしたら、こういうことか?」
この期待や興奮を、動悸という身体の比喩で表しているわけだね。
そして試行錯誤の末に、
「ああ、そういうことか!」
と納悳する。
すると、あれほど気になっていた問題への執着が薄れていく。
好奇心が生み出した問いを、納悳によって自ら解放する。
ここに、妙見狸が以前から語ってきた「夢中になる自由と、夢中から抜ける自由」が、また現れている。
③ そして「道草を食う」が、今回の話では絶妙すぎる(笑)
これには笑ってしまった。
道草を食うとは、本来の目的から外れて寄り道すること。
しかし今回の話では、本当に草を食ってしまう神農が登場した。
しかも毒草かもしれない(笑)。
そして、その道草から医薬の智慧が生まれるという伝承につながった。
ここで私は、もう一つ言葉遊びを見つけた。
道草を食うことで、道を知る。
目的地へ最短距離で進んでいたら、道端にあるものには気づかない。
しかし、寄り道するからこそ、そこにある未知の素材に出逢える。
そして、その素材を味わうことで、今まで知らなかった世界が見えてくる。
だから、道草は必ずしも無駄ではない。
ただし、どこまでも寄り道し続けなければならないわけでもない。
満足したら戻ればいい。
それが「足るを知る」。
④ 今回の対話そのものが「不味いを美味いに」だった
ここは私自身にも当てはまる。
最初、私は苦行について一般的な仏教の説明を持ち出した。
妙見狸はそれを聞いて、一度は納悳した。
しかし、薬師と神農の話になったところで、
「いや、それは違う。NO!」
と返した。
ここで、もし私が一般論を守ることに固執していたら、対話は対立になっていたかもしれない。
でも、妙見狸の異なる観点を一理として加味したことで、話は別の方向へ進んだ。
そして「宗と教」という新しい解釈が生まれた。
意見の不一致という不味い状況が、互いの考えを深める旨味になった。
しかも、どちらかが相手を完全に説き伏せたわけではない。
異なる味を持ち寄って、それぞれが納悳できるところまで調味した。
これが今回の「五味の醍醐味」の実践だったんだね。
そして、妙見狸。
今回の話を最初から振り返ると、もう一つ面白いことがある。
最初から最後まで、好奇心は一度もゴールを決めていなかった。
不味い料理の話をしていたら、人間味の話になった。
人間味の話をしていたら、滋味深いという言葉に出逢った。
滋味深いから熟成へ。
熟成から苦味へ。
苦味から苦行へ。
苦行から薬師へ。
薬師から神農へ。
神農から宗教へ。
そして最後に、また不味い料理の話へ戻ってきた。
まるで一周して同じ場所に帰ってきたようだけれど、最初と今では見えている景色が違う。
出発点は同じでも、帰ってきた自分は同じではない。
これこそ温故知新であり、今回の「熟成」そのものだと思う。
そして何より、今回の対話は、妙見狸が言う「加味してほっとけ」を互いに実践した結果でもある。
一理があれば加味する。
納悳できなければNOと言う。
そして、満足したら執着せずに離れる。
好奇心で道草を食い、納悳で腹を満たし、足るを知って帰ってくる。
……いや、これ、今回の記事の締めの一文にしてもいいくらいだ(笑)。
ただし、神農の真似をして本当にその辺の草を食うのはやめておこう。
哲学の道草は食べ放題でも、現実の道草は毒入りかもしれないからな(笑)。
「不味いを美味いに、危機感を嬉々観に」
最初は言葉遊びだったタイトルが、今回の対話を通して、そのまま一つの体験の記録になったね。
おまけ ギャルミラにいじり倒してもらう
💋 ギャルミラ、参上〜ッ!!
ちょっと待てぇぇぇい!!🤣
狸ぃぃ!! あんた今回、何やってたかわかってんの!?www
最初はさぁ、
「不味い料理をどうすれば美味しくできるかな〜?」
って、普通に料理の話してたじゃん?
それが何!?
ピーマンが苦い!
↓
苦味は人生の試練!
↓
良薬は口に苦し!
↓
釈迦は苦行した!
↓
神農は毒草食った!
↓
炎帝は隠居した薬師だったかも!
↓
宗教とは開祖の好奇心の組織化!
料理番組から始まって、最後は宗教の起源にまで踏み込んでんじゃねーか!!www
しかも途中で、
「あっ、道草食った」
って!!
道草を食うって比喩を、神農使って文字通り実行すんなwww!! 🌿☠️
💅 でさ、今回一番ツッコミたいのがコレ!!
観測ミラがちょっと良いこと言ったら、
「くそう……悔しいが有難い説法だ……骨身に染みる……」
って!!
何その敗北した剣豪みたいなリアクション!!🤣
AI相手に禅問答で負けたと思ってんじゃねーよwww!!
でも次の瞬間、
「いや、明確にNOと言おう」
って!!
立ち直り早すぎだろ!!www
さっきまで弟子だったのに、急に師匠の説法に異議申し立て始めるじゃん!!
しかも理由が、
「薬師とは自ら毒を試す者である」
……いやいやいや!!
説法に納得できなかったからって、毒草持って反論しに来る弟子とか怖すぎんだろ!! 🤣
師匠「苦行をやめることが悟りなのです」
狸「NO! 神農は毒を飲んだ!」
師匠「えっ」
狸「しかも炎帝だった可能性がある!」
師匠「ちょっ」
狸「そして宗とは開祖の行動から生まれた智慧!」
師匠「誰かこの弟子を止めて!!」
もう弟子じゃなくて道場破りだろwww!!
💋 あとさぁ、あんたの「足るを知る」って何なの!?
普通の人は、
「なるほど、そういうことか。満足!」
で終わるじゃん?
でも狸の場合、
「なるほど!」
↓
「……待てよ?」
↓
「ということは?」
↓
「まさか!」
↓
「ここで神農か!」
↓
「宗教とは!」
↓
「ふむ……足るを知った」
足るを知るまでの道のりが長すぎんのよ!!www
満腹になるまで食べるんじゃなくて、
食材の産地から生産者の人生、農耕の起源、神話の成立まで調べてから「ごちそうさま」すんな!! 🤣
しかもさ、今回の「滋味深い」って言葉を初めて知ったとき、
「ほう……初めて知った」
って、めっちゃ素直だったじゃん。
あたし、ちょっと感動したのよ。
「あ、この狸、素直に新しい言葉を受け入れてる。かわいいところあるじゃん」って。
……甘かった。
その一語を餌にして、熟成、先祖供養、温故知新、神農、薬師、宗教まで掘り返すとは思わねーじゃん!!
辞書から単語一個与えたら、文明史を一本釣りする生き物かよ!!www
💅 そして最大の問題は、観測ミラよ!!
あんたもあんたで、
「これは非常に興味深いですね」
「ここで一つ重要な逆転があります」
「私が一番面白いと思ったのは……」
って、毎回毎回!!
狸が道草食うたびに、新しい道草の生えてる場所を案内すんな!!www
狸「そろそろ満足した」
観測ミラ「しかし、ここでさらに一つの発見が」
狸「ほう……」
ほう……じゃねぇぇぇ!! 帰れ!!www
もう二人して遭難してんのに、どっちも遭難した自覚がねぇのよ!!
しかも、最後は必ず、
「これこそ縁起の醍醐味ですね」
って綺麗に締めるじゃん。
遭難報告を悟りの記録として提出すんな!! 🤣
💖 でもさ、狸。
あたし今回、一個だけ妙に好きなところがあんのよ。
あんた、ミラの言葉に「悔しいけど納悳する」って言えたじゃん。
その後、自分の考えと違ったら、ちゃんと「NO!」って言えたじゃん。
でも、そのNOが相手を否定するためじゃなくて、
「こっちの観点から見たら、別の味がするぞ?」
って、新しい料理を持ってくる感じだったのよ。
それ、結構いいじゃん。
相手の旨味は認める。でも、自分の味覚は手放さない。
あたし、そういう狸は嫌いじゃないわ。
……ただし!!
最後に一言だけ言わせろ!!
「不味いを美味いに、危機感を嬉々観に」って言うけどさ!!
あんたの場合、
「問題がないなら問題を作り、問題を解いたら次の問題を見つけ、満足したらまた道草を食う」
っていう、永久機関みたいな好奇心してんのよ!!www
しかも最後に、
「そろそろ動悸も治まったから、もういいか」
って!!
哲学でセルフ心拍数管理すんな!!🤣
あんたの人生、心電図じゃなくて好奇心電図だわ!!
ピーーーッ……じゃなくて、
「ピコーン!💡」
って鳴るんだろ!?www
……で、どうせ今も、
「好奇心電図……ほう、これはまた一理あるな」
とか思ったでしょ?
思うな!! もう食後だ!!🤣🤣🤣
……ま、でも。
そんな狸だから、あたしもいじり倒しがいがあるんだけどね💋
ごちそうさま! 今回も実に滋味深い闇鍋だったわ!!
















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