好奇心

直感・閃き・気になる事探究を楽しむ

独自体感論 49日の不思議 名残逝き かすみ草の霞想

思い入れがあったかすみ草を失った喪失感で、忘れていた感情が涙と共にこみ上げた・・という体験を感情ドラマとその時の冷静な内観と、全体を通した俯瞰の意識で同時に捉えて理解した亜空間と縁の絆で繋がる共鳴のお話

名残を感じたかすみ草

かすみ草

先日、母の遺品整理の為に有休をとった姉が台所の掃除をしていた。普段は私が台所の管理をしていた為に、『あるはずの所』に『あるべき物』が無くなっている事に気づいた

「…ここにあった花は?」

え?枯れてたから捨てた

「なんで勝手に…!一言あってもいいだろう」

いや、あれ根腐れしてたし…

その瞬間、私は久しぶりに『感情』が込み上げるのを感じた。姉への怒りではなく、大事な物を失った『喪失感』…母の思い出の声が記憶から消えた時と同じようにじわぁと涙が込み上げた

感覚的量子論 49日の不思議 記憶の中の声の喪失と氣締め

しかし、感情に振り回される事なく、意識は冷静に『変化を内観』していた

(´-`)oO{この込み上げて出ていく『エネルギーと連動する涙』はなんだ?

そして俯瞰で状況を確認する

まず姉は普段台所に立たない為、『この花が何なのかを知らない』ため、『何の思い入れ』もなく、ただ花が落ちてないだけの『乾燥した花』で、掃除する意志の中では『穢れたゴミ』である

そう思っても仕方ない( ˇωˇ )

私にとっては、それが生前の母が、外に出られなくなった時に、『部屋の中で花を見たい』と求めて買ってきたけど、すぐに自分で面倒を見る事が出来なくなったから、『枯れないように私が世話をしてきた花』

母の『様態変化と連動』するように『花も弱っていくような感覚』があったから、『水』は頻繁に変え、『栄養剤』も入れたりと手間をかけてきたが

最初に入れていた『チューリップ』はもう枯れて落ち、かすみ草は長持ちと言うよりは『枯れているけど花が落ちないから』と飾っていた

その、私の毎日の中に『有るべきはずの物』が、他人の手で廃棄され『無くなった喪失感』

『無い事が有る』とわかった瞬間、涙の噴出と同時に『名残り』が消えた。『思い入れ』の『名残りが有った』のだと気づいた

まだ『母』を『気』にして『涙が出る余地』が、『私の中』には無くても『私の外』には有ったのだ

それは『氣締め』になった

私が出来なかった『難しい事』。姉は『意図せず』それをやった。これは『辛い』けど『有難い事』なんだ…と、私の中では『氣締め』が着いたから、姉には「もう気にしなくていいから」と伝えたが…

まぁ、『遺恨』は残っただろう(取返しのつかない事だから)

それもまた『自業自得の因果応報』と感じた理由は、その二週間前、『全く同じ場所』で、『私に言った言葉』を『私に言い返されている』と気づいたから

家の事、姉が今までやって来なかった事を『母に変わって仕切りだそう』とルールを決めようとした時、私に「勝手にゴミを捨てるな」と言った

それはごみ捨てのタイミングでもめた話だったが、今回は勝手にゴミを捨てるなと『私に言われた』。それは『人の大切にしてるもの』だったから

この『言葉の因果応報を実感』した時、私もそれを『姉に伝える役目』として、『感情ドラマの舞台役者』のように『動かされた感じ』が有った

だから『感情的行動』と『冷静に自分自身の言動を内観』できる『俯瞰の意識』が同時にあった

そして内観の意識はこう捉えた

名残り逝き

『花』に宿していた気持ち
『氣配り』していた物が『役目』を終えた
それは『母の為』と『自分が思い入れ』していた

つまりその『枯れた』けど『落ちないかすみ草』
それが『母の一部』であり、それを『世話する』のが
『私と母の繋がり』だったという『名残り』が有った

そしてその『母の名の残り』が逝った
内側からも『思い出が消えた』のを感じた
込み上げてくる『涙』が全部流して持って行った

気の『毒』から『母』がまた消えて、毒-母=『主』に戻った

名残りが有ったせいでまた『残酷な喪失感』を感じたが、『思い出の声を失う』ほどではなかった。もう枯れている…というのはわかっていたが、『いつ捨てるの?』が出来なかったから

『残りは酷い亡骸』になっていた

無意識に『捨てる事を拒んでいた』が…『ショックドクトリン』で姉が捨てて、『有る』が『無い』に変わった事が救いだった

『思い入れが有る』と人は手を下せない
だから『思い入れが無い人』が手を下す役目になる

私にとっては『母の思い出』でも
姉にとっては『枯れ草』だ

『同じ現実』に居ても『見ている世界』も『触れているエネルギー』も何もかも違うんだ

それは、数日前に近所で『救急車や消防車が集まるという騒ぎ』があった時、子供の頃に世話になった『幼なじみの母』が怪我か何かをして自力で助けを呼んで…という騒動だったが…

気持ちは『野次馬』として見ていた。そこに近所に住んでいた幼なじみが物凄いダッシュで駆けつけた『温度差』を感じた時

『主観』と『客観』の『観ている世界』は違う
『思い入れがある空間』と『そうでない空間』

人は『思い入れが無い空間』は平気で『邪魔』したり『破壊』したりできる

しかし、『思い入れが有る空間』は人に『無下』に扱われると『怒り、悲しむ』という感情の発生は、思い入れがある『氣綱』が繋がっている

これが『縁』というものだとしたら

『日常に存在は有る』けど、『気づかない空間』
『亜空間と縁で繋がってる』んだろう

あくうかん の言霊は
感情が引きより生まれる強い力

えんの言霊は
強い投影

『日常に有る』けど気づかない『亜空間』から
『感情』が引きより生まれて『強い投影』になる

感情は『亜空間と共鳴』して生まれるエネルギー
『喪失感』の悲しみは『涙を代償』に支払う

『涙の数』だけ『強く優しくなれる』というのは
喪失感が薄れていく=『無(気質・関心)』になっていく

心が『無一文』になれば「無とはなんぞ?」と無一問
その『一問への解』に『有』が生まれる

『無』になる事で『新たな有・優・遊』が生まれる

これは『閃』だけじゃなくて『感情』に流されなくなる事で、『意識の自律』を高める事でもある

『名残り』は逝った、もう『喪失感』はない

かすみ草の花言葉は

「幸福」「感謝」「親切」「清らかな心」「無邪気」

あれ?あの時母が「この花を買ってきて」とリクエストしたのは、これを私に伝えたかったのか?

あの時の私は『頼まれて買ってきた』だけで、『花に思入れ』がなかったから、ここまで氣が巡らなかったが

もしも自分が、『今の自分の意識(死ぬまで面倒を見る)』に介護されて、『面倒を見て貰う立場』だったら、『こういう言葉を伝えたい』と思うだろう

…と『失ったかすみ草の花言葉』を調べて知った瞬間に涙がまたちょっと出た

亜空間の『縁と共鳴』して『感情』が込み上げた
これは『喪失感』とは違った

「なんだ、そう言う事だったのか」と『納悳と安心と喜び』と『粋な計らいへの感動』

もちろん、私一人に向けたというより、『家族全員に見て気づいて欲しかったんだ』と思うが…

私や母ほど他の家族は『氣配り出来ない』から気づかないし、『花言葉』なんて調べようとも思わない(ヾノ・ω・`)ナイナイ

そんなかすみ草も『現実の物』は無くなり、そして存在意義の『花言葉のメッセージ』も最後に受け取ったから、私の中で『霞想』になっていき、この出来事は『春の霧のようにぼやけて』行く

…そんな『感動の涙を流している自分』と同時に、『俯瞰の冷静な私』はこう分析していた

(´-`)oO{亜空間…縁…感情…繋がる

思い入れ・気配りの対象の喪失感=『無』に還る。これが『学びの為』に生み出した『自分』という『自ら分けたエネルギー』が『形』を変えて『元に戻る』

『自己中の執着』を手放す感覚
自己の中の『分け・割れ・我』を修復する治癒

一旦切り離して『再生の為の分離』、そして『更生して甦る』。だからまた、『必要な自分』として、『必要な時』に生まれ変わって巡り会う『縁=亜空間』で繋がってる

そうか(´・ω・`)そう言う事だ

『鬼門、鬼籍』に入る
それは『縁の下の力持ち』
『心を支える存在』として宿る

何かに『共感』して涙を流す→宿した『思いを出す』
それは無意識の『願い・希望』
空間に生み出され『元のカタチを忘れる』から叶う

感受性豊か=心に素直=悳
『豊か』ということは『多様な観点』を持っている

だから面白い

思い入れが『無い物事』には振り回されない
仏頂面の仏=ほっとけになる( ´_ゝ`)フ-ン

これはみんなそれぞれの『仏=ほっとけ』の『世界が違って見えている』という『大発見』でもある

私にとっては『思い入れがあった大切な物』でも、他の人から見れば『枯れて腐ったゴミの草』

『同じ物質』だが『観点』か違う
『外観』か『内観』か?

『ベクトル(表層)』か?『スカラー(深さ)』か?

…ふむ( ・・ )どうやら今日の記事は、「スカラーとベクトルに踏み込んで行こうか?」という、『次なる授業の前降り』としての気づきのまとめだったようです

あれって確か理論物理学っていう奴だよね(-ω-;)面倒くさい

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