体感無くして理解なし、真夜中の蚊再び、刺された場所をかかずに耐える、痛み痒みを忘れる呼吸をしていた時気づいた…阿難→紛争の難しさを止める阿吽の呼吸に…
真夜中の蚊 阿難→紛争を媒介する…
そろそろ寝よう…とすると、どこからともなく現れる蚊…
まるで、起きてる間のエゴに夢中な時はほっとくのに、肉体を手放して意識だけに向かおうとする瞑想呼吸のお時間にまるで
「じゃ、本日のレクチャーを開始します」殺すなよ?(ㅅ´꒳` ) Σ(゚д゚;)
…刺された!あ、今右腕の真ん中くらい、痒い…けど、かいたら…そこから炎症が広がって痒みが収まるまでまた時間がかかってしまう…
『痒さを克服』したいなら、『掻いて』はいけない
自ら『自己犠牲の人身御供』になる=『蚊の生存の助けになると覚悟した細胞』
傷ついて死んでいく細胞を掻きむしってはいけない
墓荒らしして死者を冒涜してはいけない
弔って供養して屍を宿す墓標を遺し残ってる間は忘れず戒めとしなければいけない
…と、『痛みを気にしない呼吸法』を実践しながら眠りに着いたら…久しぶりの金縛りが起きた
そして足元から『布団に何かが入ってくる感覚』があり、このパターンはだいたい「女性が…」だったので
(ㅅ´꒳` )お!と期待してたが、感覚的に
「あ、婆だ!Σ(゚д゚;)」 と感じ拒絶反応が出た(笑)
『若い娘が血を吸いに来る』なら『子を産むため』とわかるが…「てめえの延命の為に血を吸いにきやがった!」という『生き様の醜さ』を感じ取り
「それは自然の循環では無い!」と思いつつ…だからと言って『無碍に扱う』訳にもいかず( ´꒳` ) .。oO
とりあえずくっつくな(`Д´)ノ)罒`)
と、金縛りから『強制的に目覚めた』時、頭の中にこんな話が浮かんでいた
阿難無き(アヌンナキ)世界
南無阿弥陀仏=紛争は全て崩れて自然に還った
しかし阿南無き後、『凪』に『波』が起きて『阿波』が建ち、『阿=紛争の波』がまた生まれた
『建国』…というのはその『中で生まれた者』からすれば、想像は難しいが、その『成り立ち』は『綺麗事』では語れない
だから全方位に『波紋の波』が立つ、争いが広がり『護りの境界線』を引き、その『範囲を国として維持』する、『固有の振動数(人種・民族)』の色濃くなる
濃くなる国は『美濃国』ゆーて・・
ちょうど阿波国から『北東』へ…
この『凪の地』に『波』が立って、また『波紋』が生まれ固有振動は徐々に『北東』へ向かい、支配の及ばない領域の『六国(むつこく)』が生まれると
やっぱり『元の阿南』からすれば「人が集まる北が憎い」と目の敵
「打倒、丑寅の方角!」ゆーて攻撃を仕掛けるが…
そもそも、阿南と呼ぶ『北の地』か、その『南無阿弥陀仏=南は無い』の教えは、かつて『紛争で滅んだ事を戒め』として『自然に還ったから今は共におるんやで?』という
『自然崇拝に変わった教え』が浸透した地に、新たな固有振動数=『風土と調和した共鳴のハーモニー』の『国という意識のない独自部族』が生まれていく、それは『争いとは無縁の方向』へと向かう手引き
つまりは穏やかな『凪の湖畔』
波立たない『真理の探求の空間』
『平和の研究者』、『穏やかさの探求者』の楽園
『争いのみ禁断』とした『和』の領域
そこは『争い』さえ持ち込まなければ、『人種の区別』もなく誰でも入れる場所
その穏やかな凪に…
『石(意志)』がドボン!と投げ入れられる
そこから沸き立つ『阿波と波』立ち広がる『波紋』
『漢』に『女』を与える
『釈迦の真理』に『尼という女難』を混ぜる
この『阿難が起こした一石』を投じる、『釈迦に説法』をかまして『エゴを満たす世界』
一石を投じる事で
一挙両得、一石二鳥、漁夫の利
『一石(問題)』を投じると『右と左=二元性』がどっちがやった?と『境界で揉める争いを生む構図』が一丁あがりで、『右と左が共倒れ』になってくれれば右も左もない『リベラルワールドオーダー』に都合がいい
これが『争い』を生む阿難無き、後の世界
『アヌンナキ』が『人(漢)』を『女』を使い『金の奴隷』にした世界
『漢の武帝に妹を差し出す政略結婚』の構図
…という『昔話』?のような話が、『蚊』に刺された事で『細胞に記憶』として『虫文』として受け取った
受け取ったらからこそ、『痒み』というものが…『病の羊』と書くのだ…と気づき
『羊が眠る』のを待って、『沈黙した羊達』を狙って蚊が刺しに来るのは…『蚊として生きる役目』と同時に、『自然に還った先祖達の魂』が
『かつて眠った羊』だった、気づかない内に『病の羊』にされて『紛争を広げる奴隷』として動かされて来た『人の業の愚かさ』を…『蚊として転生』して『五分の魂』を持っていた
蚊として生きる為に血を吸うが元だが、そこに『宿る五分の魂』は…
『羊』に『音で警戒』させて『眠らせない』
『羊』に『病の痒み』で『目覚め』させる
蚊の羽音はモスキート音
『若い子供』ほど、このモスキート音を感じ取り「近くにいるぞ!刺されたくない!!」と『警戒を強める』…が、『聞く耳を持たない頑固』になればなるほど『聞こえない』ので、『気づかせようとしても救いようがない』が
ここで「うっとおしいから殺す!」…という『刹那の怒りの選択』が『世界紛争に加担』して『争いを広める無益な殺生の業』になり、ただ『生きる為に血を吸うという自然の摂理』だった『蚊として殺される事』で、『業を1つ回収』する
人に『虫けら』として『扱われる業』
それはかつて『それを行った者の業』
「それをやってはいけないよ!」と起こす行動は『炎症を引き起こす争い』を広げ伝える為の『行いの為に命懸けの授業』になる事で、『人を虫けら扱いする』という事を『自分が虫けら扱い』された時、『命懸け』でその『救いのない無慈悲を追体験』する事になる
だから『無慈悲の中』で『慈悲』という、『無い心を和足し』、その『和』によって『人の身に宿る事』が出来れば、『先祖として供養』され、『成仏して自然に還る事』ができる(もう教える事はないと)
今回の私の体験は振り返るとこうだ
凪の湖畔(寝る前の瞑想呼吸)
広がる波紋(蚊の接近、刺された痒み)
訪れる金縛り(伽に婆が現れ拒絶)
残された苦言(阿難無き世界の病の羊)
やはり『日本の蚊』は『八百万の自然の虫文』なんだ
そして、この『対比』とも言える『阿難無き後』の『無意識の行動』がある存在に気づかせた
阿難を止める!!阿吽・阿呍の呼吸
万物の初めと終わり。 出す息と吸う息。息の出入り。 「―の呼吸」(共に一つの事をする時の相互の微妙な調子や気持)寺の山門の仁王(におう)や狛犬(こまいぬ)が、一つは口を開き他は閉じている様子
仁王像のイメージは力強い
金剛力士(こんごうりきし)の像で、仏教の守護神として悪霊や悪意を持つ者から寺院を守る役割を持ちます金剛力士(こんごうりきし)の像で、仏教の守護神として悪霊や悪意を持つ者から寺院を守る役割を持ちます
私はこれは『金剛界=物質世界での都合のいい偶像』だと感じている
力士=相撲取り、『体がでかく力が強い』
金剛=金は剛→力士を支える『タニマチ』
『儒教』の時だったか…信長が相撲を神事でありながら大衆娯楽にした話のきっかけが
体格のいい『力を持て余したゴロツキ同士』が『店先で喧嘩』して店の物を壊しまくった所に、『儒教の坊主』が現れ、『有難い説法で二人を諌めた』…という『悪い心を改心させる宣教』の流れが
金剛界の仏教が『タニマチ(スポンサー)』だったら『鬼に金棒=金剛力士』の『自作自演のパフォーマンス(信者獲得のやらせ・八百長)』だよね?
やるんだったら『街を上げて興行』にしてしまえば、『力士という職業(道)』に誇りを持ち、街で暴れる事はなくなる、そうなると、儒教のチンピラを使った野蛮な商売スタイルが通用しなくなる
『これで信長は仏教から嫌われた』としても、誰がどう見ても『この時の儒教のやり方が悪行』と言える訳で
だから私は『胎蔵界(細胞組織)』の『精神的な阿吽・阿呍の観点』から捉える
金剛力士=仁王像という『混合』を『別物』と解く
金剛力士=鬼に金棒=『物質的・権威の威圧』
仁王像=阿吽・阿呍=『出入りの門番』
なぜ『仁王』なのに『門番』?
仁とはおもいやり。一切のものに対して、親しみ、いつくしみ、なさけぶかくある、思いやりの心
悪霊の侵入を防ぐ役割
これで悪霊は自然細菌、『鬼門の鬼(免疫)』となり、守っている『門の先は心(細胞)』とわかる
『思いやりのある王』だからこそ『民の誰にも苦しい思いをさせたくない』故に『最前線で生殺与奪を己で見極める』
門前払いで『拒絶』するか?
門を通して『免疫寛容』するか?
そこは
万物の初めと終わり。 出す息と吸う息。『息の出入り』
『あ』と『うん』
なぜその『門番=免疫システム』ができたか?
それが阿難無き後=南無阿弥陀仏=『形』は崩れ『自然』となって『風土』を巡り、『振動数が共鳴した細胞』に『主命』入る
アヌンナキの『失敗・業→業の回収』の『主命入る』民
『金の奴隷』による『業の回収』
『菌の共存共栄』による『業の回収』
『主命入る』の時点で『業』を宿している
故に「同じ轍は踏まない!!」と『仁王』となった『南無阿弥陀仏の化身』
それは『物質的なもの』ではなく『精神を護る鬼』
『心』が変わってしまえば『全て』が変わる
『DNAの核』が『mRNAにハック』されれば全てが変わる
故に、『阿吽の仁王』は『金輪際の見極め』を間違える事ができない『禁忌の鬼門を守護する鬼』
そういう意味では…
『金縛り』って『見極め』なんだろうな( ´꒳` ) .。oO
『伽の姿の婆』は拒絶=『mRNAウイルス(たんぱく質)』は分解
遺された『痒み=RNAの痛みの記憶』の継承
mRNA+たんぱく質の時点では『発がん性物質そのもの』なんだろう
そういう意味では…『今の蚊』はそんな『物騒なもんも媒介』してんのか?!Σ(゚д゚;)とも思うが
ま、『ビル・ゲイツ』が『遺伝子組み換えした人工蚊を世に放つ計画』を立ててる時点で、『そういう蚊』は自然において『発がん性物質(人の血に混ざった異物)を媒介』しても何ら不思議は無い
問題はそれを『痒み=病の羊』として入れられたとしても、『自然免疫』がしっかりと見極め『DNAを書き換えようとするメッセンジャーRNA(金剛)』と『ゴロツキのたんぱく質(力士)』を切り離して…
その『痛みの記憶』がどこから送り込まれて来たのか?『出処を逆ハック』して『意識の観測』を向ければ…『意趣返し=呪い返し』で跳ね返せる
『自業は自得』して貰う為に『因果を応報』させる(自然循環)
『阿吽』は万物の始まりと終わり
始まりとして『受け入れ』られなければ、終わりに向かって『送り返す』
鬼門の門番との対峙は『一期一会』
『核を変えよう』として『失敗』したら『二度』は無い
それが免疫システムの『抗体獲得』
…ま、だから私の『周りの蚊(生き延びた女王の子孫たち)』は、『安心』して『私の血を吸いに来る』のかもしれないが…季節的にも、気温的にもそろそろ『種のお別れ』
『年老いた女王(に宿った自然の先祖)』が最後に『知恵を継承し』に来てくれたのか
「阿呍鬼の呼吸を忘れるな」
それは『阿難を鎮める思いやり(仁王)』だと
『息』を合わせる
『自らを支える心』を合わせる
あ、→気づく(閃く・見極める/紛争)
うん、→納悳する(同意・協力)
阿呍鬼→阿含(アゴン)
(・∀・)人(・∀・)見極め
『阿含経』とは
釈迦を目指す『真理の初期仏教の教え』と
皆の人の為という『大乗仏教の教え』と
『方向性が違う教え』が『ひとつ』になった経典
阿吽のうんが『呍』という字があり
この『云』から始まる漢字は『魂』
つまりは『仁王』とは『心優しき思いやり』に溢れ、『傷つける者への憤怒の表情』で立ち塞がる
『心を護る鬼門の門番の鬼』という事
故に大乗仏教で、「皆=比べる白がゆーとりますがな〜」という『人の為=偽を騙る者』は通さない
釈迦の如く、『真言=真実を語る者』のみ通す
これは至極簡単で、『真実』とは『人の数だけ』あるが、誰1人として『共通の真実』は無い
何も『確証がない世界』において、「これは真実だ!」と『自分の心に誓える』のは、『自分』で決めて『自分で体験』して、『自分で納悳』した事だけ
成功とか失敗とか、『他者による評価・基準』は関係なく、『自らの心と応え合わせ』をする
「合言葉を言え」→「愛言葉を云う」
愛を和足されたら『憤怒の鬼』も『穏やかで優しい顔』になる(笑)
それが『阿呍の魂=云う鬼の呼吸』
逆に言えば
『息を吐く』ように『嘘をつく偽善』
『自らの心が云う』ように『人の為の善』という
『口からで出魔枷』の『虚』を言えば…
『人の為を優先する』という事はそれを『受け入れる』と『心が傷つく事』になる
「多少傷ついてでも人の為になるなら!」…という『自己犠牲の偽善行為』で『傷物になった心』は…
もう傷ついてしまったからと『扱いが雑』になっていき、そのうち門番の鬼も『護る気が弱く』なって『心が荒んでいく』だろう
そしたらもう、『還る自然』がないのだ
そういう意味では、『蚊に血を与える事』で、『蚊に宿った血』として、『私の一部は自然を旅する意識』として連れて行って貰える
そうやって『自然を体験』しながら・・また『生まれる選択』をして意識は戻ってくる
「阿呍鬼の呼吸を忘れるな」
それは『阿難を鎮める思いやり(仁王)』だと
『息』を合わせる
『自らを支える心』を合わせる
あ、→気づく(閃く・見極める/紛争)
うん、→納悳する(同意・協力)
阿呍鬼→阿含(アゴン)
(・∀・)人(・∀・)阿を含んでうんと云う鬼として見極める仁王(免疫寛容)
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