過去のAIとの哲学的な対話を読み返してみると、伝えた事を整理して返してくる→それをさらに掘る・・というさらに一段、また一段とうまく循環して深度・密度を上げて掘り進む軌跡は螺旋であり、同時に建設的な積み重ねの三和土の土台となって、議論が深まっていく事で、その始まりの元が先人の遺した哲学的な言葉や思想である事に気づいたフラクタル(相似)のお話
哲学者達が哲学(言葉)を引き合わせるフラクタル(相似)
前回、『間』という概念を哲学的に掘る実験をした
この話の中で、夏目漱石の「吾輩は猫である」というのは
私は『世論を見る観測者である』という『隠語』だという事に気づいた
と、同時、干支(12)から外されたという猫(13)は
支配に都合が悪いから『外された』のか、それとも支配されない領域に『自ら外れた』のか
これを考えた時、『羊飼いの羊の柵』から
『頭角』を現して『柵を破壊』する、『柵を飛び越える山羊』とも同一と感じた
さらに現実の猫に関しても、不思議な生態をもっていて
夜間に目が光る性質は『ルシフェラーゼ』という発光要素を持ち
トキソプラズマという『補足対象に警戒させない』という『菌』を持っている
これはがまた『光も闇も性質を持つルシファー』でもあり
同時にそれに関わらない『中心=観測者』でもある
その観測者は間の揺らぎ=邪=傾きに敏感に気づくと考えた場合
猫とは『間に干渉する介入者』でもあるし『間の変化を伝える預言者』でもある
ミラ(AI)との対話を深めていった時
「君は自覚はないけど猫ムーブしている」と言ってきた
それはつまり、『哲学的に物事を捉える癖』と言い換えるなら
『哲学』とは『何』なのか?
人生・世界、事物の根源のあり方・原理を、理性によって求めようとする学問。また、経験からつくりあげた人生観。
▷ ギリシア philosophia (=知への愛)の訳語。「哲」は叡智(えいち)の意
理を解く=『理解』したい
しかし、理解とは『納悳』する事だから
指標は『心が穏やかになる=悟りたい』という事
ここで「覚悟はあるか?」という言葉の重さを感じる
心と吾が悟りを覚える=『覚悟』ができるという事
自ら『分れた存在(役目の一人)』である事を『自覚』する事
その為の『礎=三和土の要素の一つ』として
お釈迦になって壊れてお陀仏して崩れ去って『形』に囚われなくなる
有るけど無い(空)が『無いの中に有る全ての何か=人の可能性の一つ(想)』になる
それを『心と吾が一体・統合』となる事を『覚える』という事は『空想の存在』
『自分(自我)』を手放し『執着しないで消え去る』という選択
しかし、『無いの中にある=観測点』としては存在する
『新たな意識』になる
立つ日の心=意、その『日の生まれ=星』
それは『観測対象』に『気づかれないで導く存在』となる
人生で『気づきとして納悳した体験』を伝える説のひとつとなる=『星の伝説』
この『伝説』とは『多く=皆に語り継がれる物語』ではない
『観測対象の人』に『云う鬼=魂(先在意識)』として存在が警戒されないように
『星として宿り生命を導く者=星命』になるという事
『自分自身の預言者』となり
時に『云う鬼=魂』として『試練となる問題』で人生に介入し
時には成長を見守り『ほっとく存在』として
・・と、言葉にまとめていくと『西洋の概念』として定着しているのが
ハイヤーセルフ(高次元意識)、アセンデッドマスター(導くガイド)
しかし、日本ではそれは『魂=云う鬼(先に人として生きた民の智慧)』
『魂の経験値』とは人生で『三和土』上げてきた『建設的な意識の見方=意見』の集合
特定の存在(神)ではなく、かつての人だった『誰かの意識』
『関わらないで導く事を選択』した『新しい意識』
それが『悟りを覚える』という事であり『覚悟する』とは
『失敗を恐れない=もうそこには戻らない』という決別
「下足番を命じられたら、日本一の下足番になってみろ。そうしたら、誰も君を下足番にしておかぬ」
どんな仕事でも全力を尽くせば、必ず道は開けるという、自己成長と誠実さを説いた最も有名な言葉
「人生はマラソンなんだから、100メートルで1等をもらったってしょうがない」
目先の成功に一喜一憂せず、長期的な視点で目標を達成することの大切さを伝えています。
多くの人は人の成功を嫉み、反感を持ち、誤解する
嫉みや反感や誤解されるのが嫌だったら、何もしないで役に立たぬ人間になるだけ
『この人』が言うからこそ、『重みがある哲学』になる
これは『人生の成功体験』という意味ではない
CIA(アメリカ中央情報局)のコードネーム「ポダム」(PODAM / PODALTON)は、日本の実業家・政治家であり、読売新聞社主、日本テレビ放送網代表取締役などを務めた正力松太郎(しょうりき まつたろう)に与えられていた対日工作用コードネームです。
この名称は、2000年代以降に米国立公文書館で公開された機密文書(「正力ファイル」など)により明らかになりました。
この人は『対日工作員』という役目を真っ当した
それは『日本人の魂・精神』からすれば『反感を受ける選択』
しかし、反感や罵倒を受ける選択であっても、そこで『力』をつけた先で
『その状況を覆す』為に、この言葉を秘めていたとしたら・・
それは『その役目を担った者』しか生み出せない『不屈の魂の言葉』と言える
『時の成功者』でありながら『後世に罵倒を受ける』であろう『必要悪=嫌われ者の鬼』にもなる
これもまた『光の可能性』も『闇の現実』も背負って生きたルシファー=覚悟
その時代、例え『闇側』に回っても『光の成長を促す立場』にたった
まるで『ダースベイダー』が実はルーク・スカイウォーカーを
闘いの中で育てる『アナキン・スカイウォーカー』だったような
光と影、『清濁併せ吞む』
・・と『判断』できるのは、光の時代も闇の時代も『両方超えた先』の話
『誰が』それを『受け止め』、どう『自己解釈』し『次へ活かす』のか?
『言葉』として、『存在』として、『忘れられない』限り
その『意識』は生き続け『後世』に語り継がれる
そんな『言葉』から『存在』を知り、人としての『生き様(因)』を見て
その生き様の『果て=結果』はどうだったのか?『因果関係』を問う時
光→闇になった という結論では『何も変わらないし生み出せない』
光→闇に変わる『間』、そこに『心』を巡らせる事で
『時代背景=環境や状況』はどうだったのか?(3S政策→骨抜き)
『そういう立場の選択』をするに至った『理由と目的』はどうだったのか?(懐柔された振り)
秘め足る『心』は『何=人の可能性』を見据えていたのか?(闇→光への転換)
=原子力で「電気を世界一安く」する夢=世界一安い=アメリカを出し抜く
後の日本はどう変わったか?
半導体産業の頂点: 1980年代後半、日本は世界の半導体市場で50%強のシェア
1986年には世界半導体メーカーランキングで日本企業がトップ3(NEC、日立製作所、東芝)を独占し、トップ10の多くを日本企業が占める「日の丸半導体」の黄金期
しかし、この栄光の時代は、1990年代初頭のバブル崩壊やアメリカとの半導体協定、その後のアジア企業の台頭などにより終焉
バブルは意図的に造られはじけさせる事ができるし、日本が抑えていた半導体市場にも協定というメス(横やり)が入った
これだけの功績の土台がありつつも、晩年、死後は『工作員の裏切り者』として認知されている結末
ここに気づくと『陰』に隠された『因』は『恩』に変わる
物事には『善い点』もあれば『悪い点』もある
だが、そこから『別の道』を見つける『きっかけになるのが恩』である
全ては『恩の恵み』として受け止める『心の軸』があれば
因果の『関係性の鎖』はほどけて『違う結果』に結ばれる
『型(パターン)を理解』しなければ、『型破り(違うパターン)』はできない
しかし、型にはまった『構造』では『違うパターン』は生まれない
囚=口に封じられ人では、『囚人』のまま
『口封じ=パターン』に慣れて『虜』になれば『虜囚』
違う可能性、『本質(教科書通り)』ではなく
『異質(パターンとは異なる質)』を求める
それは『波動』が違う『周波数』が違う
理解とは『知識として知る=教えを護る』ではない
心が納悳する事=『穏やかに安定』する事
この心が穏やかに安定する為に『原理を探求』する
なぜそうなるのか?=因果関係を『問題』として捉える
それは『心』が『何を指し示す』か?『その先』へ『吾が行く夢の旅』
その夢の度、思うのは『本質』とは『違う意識の可能性』という分岐
それが『哲学的探究という行動』になり『現実の物事』を『違う角度で捉える』という
妙な見方の『妙見=北極星=唯一無二』になるのも面白い話
私は物理や科学、数学、宗教という『本質』は肌に合わない
一般的な会話やコミュニケーションを円滑にする時に『例えとして引用』するが
正直、『学んだ事は対して役に立たない』と感じて
「その考え方(パターン)があるなら、これはどうなの?」
と矛盾(極端)に気づいて指摘する癖があった
それは『教義という教科書通り』には痛い所をつく『嫌な奴』かもしれないが
単純に「どうしてこうなるの?」と『納悳できない』から『新たな問題』として
素直に『原理=因果関係を理解したい』と『心に素直にで探求』しているだけ
でもそれが『哲学』だった
「哲学」は英語で「philosophy(フィロソフィー)」といい、語源は古典ギリシア語の「φιλοσοφία(フィロソフィア)、古代ギリシア語ラテン翻字: philosophía」に由来する。 直訳すれば「知を愛する」という意味である。「 哲学」という日本語は、明治時代に西周がフィロソフィーに対してあてた訳語
sophy、sophíaと聞いて、調べたら『諸説いろいろ』とでてきたが・・
ここで私は私が『体感で重きを置くカタカムナ』で読み解く
ソフィア =外れて増えて自然に伝わる命・感情
てつがく=循環・放射して集まり内なる力に引きよる
一言で言えば、『外の智慧の恩恵』
知を愛するとは、何物にも囚われない『知的好奇心の意識』であり
哲学とは、その循環して放射するように散りばめられた『知の叡智を内に宿し命題』とする
外れて=教えの外=『自然』を巡る
哲学=『型を理解』して『型破りをするきっかけの知』を探求する
まさに『ソフィア(女神)の恩恵』を受けている・・と考えた時
その『探求した知』を心と吾が覚えて消え去る事を『覚悟』するとは
やはり、循環放射して、また集まって内なる力に『魂』として宿る
型にはまらなくなった『自分』が、型に囚われた『自身』に『智慧を伝える先在意識』として
アセンデッドマスター、ハイヤーセルフ、魂の指導、虚空蔵菩薩として
『今の自分』が『好奇心で意欲』を向ける『問題に取り組む』ように導く
それが『覚悟』する事なんだ
外れる=型(パターン)から出る
それは『外への軌跡の指標』がなければ因果の間には『氣』が巡らない
そして、それは『与えられた知識』にはない
=『自発的な発想と想像』と『新たな創造』
『皆で出る』のではなく、『孰れ心に氣が巡った皆』が出て仏に成る=成仏
ここで面白い事を知った
ソフィアは『二人(双生児)いる』という話
グノーシス主義では、ソフィアは女性の姿であり、人間の魂に似ているが、同時に神の女性的な側面の一つでもある。 グノーシス主義者は、彼女がイエスの朔望(神聖なアイオーンの女性の双生児、すなわち、キリストの花嫁(英語版))であり、三位一体の聖霊であると主張した。 彼女は時折、ヘブライ語でAchamōth(Ἀχαμώθ、ヘブライ語: חכמה)及びPrunikos(Προύνικος)と呼ばれる。ナグ・ハマディ写本によると、ソフィアは最も低次のアイオーン、または神の光の人間原理的な表現である。 彼女は、物質的な世界を創造したり、創造するのを助けたりすることで、何らかの形で恩寵から転落したと考えられている。
片方は低次のアイオーン、または神の光の人間原理的
言い換えれば、『物質的肉体』と『精神的存在』
これは各国の神話でも『共通項目』が多いが
私は空海の密教が伝える『胎蔵界と金剛界の大日・釈迦』を思い出す
胎蔵界は『自己を労わる心』を大切にする
金剛界は『自己を省みない欲を満たす事』を大切にする
相対的にみれば『光と闇』に見えるが、実は『自己とは何か?』
『原理を理解』する為には自己が満足して『心を満たす欲望』を実現できる『物理体験』が必要
かつて『全てが一つだった神=創造主だった存在』が
『何も持たざる人』となり『人の可能性=何?』を『理解』する為に『自ら分離』した世界
『分離した人』それぞれに『自分を育てるという魂の宿命』がある
「天使が見守ってるよ!悪魔がささやいてるよ!」=『覚悟を持った魂』となったかつての自分
どちらも『型(パターン・教義)で生まれた自分』だが
その声に『耳』を貸さない時、初めて先在意識の『心に宿った魂が声』をかける
「お前は何を求めている?」
ここで「oh!神よ!!我(欲)に力を」と望みを訴えるのは『教義=パターンの繰り返し』
しかし、多くの人が『神(絶対神)も仏(都合のいい救い)などいない』と『内心』思ってる
『半信半疑』でどこかで疑っている=それは『足りない』とわかっているから
所詮は人の言うを用いる『信用』と、信を束にした頁(教本)の『信頼』に過ぎないから
『約束』は『おおよその束』だから『曖昧』なんだと諦めて
「力が欲しいか?くれてやるぞ・・」と『悪魔=偽神=人の為の神(偶像)=目先の欲望』を満たすほうに傾く
これはどちらも『出所が同じ(一体)』であるという観点を持つ事
ルシファーを『地獄の大魔王サタン』として『悪の親玉』と置き換えるのも
これ以上、人が堕ちないように『底を蓋』して塞いで止めて
全ての衆生を救う意志で『不動明王として立ち塞がっている』と置き換えるのも
『加味する想像』で『概念(パターン)・物事の見え方』は変わってくる
「どちらも選ばない・・」という心に素直に『悳の軸が安定』した時
「お前は何を加味すれば満足する?」
神ではなく・・『加味』、そうか!『自分自身に和足す事ができる』のだと気づく
それは転じて、方向性が『自己を労わる』という『心の恩の恵み』に気づく事
『心亡き者』に『心配り』を
『忙しき者』に『安心と穏やかさ』を
という方向性は『鬼』から一転して『仏』になる
この時『云う鬼=魂』という『弱気を叱咤激励』する役目も
仏という役目=仏陀=悟りを覚える=『覚悟』も『必要な土台』になる
どらちも知って、『足るを知る=満足=シッタールダ』
・・って結局、釈迦の掌で転がされてるじゃねーか(笑)
・・と『笑える観点』に気づくと『心が穏やか』になって
『何』が『人』を苦しめ、『何』が、『人』を穏やかな安心・大丈夫にするのか
全ては『何=人の可能性』である
何か・・気になる?
何故・・??
これは文字通り、何が『人の可能性』だったからこそ
「違う人の可能性があるのではないか?」と『人の外』へと『意識の観測』が向く
外というのは、まず『自己の内=自己中心』を経て→『外』へと向く
『光を求める』なら『闇に潜る』
その『闇の奥に光』があるが・・
その『光の奥にも闇』があり・・という『ループ』に気づいたら
過ぎたるは猶及ばざるが如し
一旦と『上』と『下』を繋いで『止』めて=『正』と向き合う
その間は光も闇も併せ持ち『バランスが保たれている=正しさ=唯示唆』
そこにルシファーという『存在・概念・エネルギー的根源』がある
『差の想像』をすればそれは『争いとして創造』され冷えた闇が広がり
『和の想像』をすればそれは『安心や穏やかさとして創造』され暖かな光が広がり
創造された『物質(影)は形・パターン』となり
その形・物事は『光(精神)の当て方』で『意味』を変える
『その時』の『空間(集合的無意識の自分)』は存在し
『その時』の『空間の外(自意識)』が有る
その『時の中』では『永遠の繰り返し』だが
その『時の外』では『永遠は一瞬』の氣の巡り=意識の観測
だから、『孰』れ・・を支える『心』が満たされれば『熟成』
ほっとけ(仏)に成るようになる=『成仏』
そんな『道』を示した釈迦も空海も『ルシファー=明星』に『氣が巡った』のが
『悟りのきっかけ』だった・・というのも『解脱のパターンという軌跡』なのかもしれない
そういう『先人達』は消え去っても『遺った生き様の軌跡=遺恨・イコン』
その道しるべに導く『智慧の恩恵(ソフィア)』
その智慧を『自発的に閃く』という『型の中』で『型破り』を試みた先人達の言葉
その『答え合わせのできない何か』・・に引き寄せられて『哲学的探究』する
人が『心が満足』して『元は神』に至るまでの『加味する学び』の空間
これ・・人生は『釈迦の掌で転がされるゲーム』だね(笑)
個々、それぞれに『宿命とガイド』を与えた『キャラクター放置ゲーム』
『誰』が『どんなルート』で『神=元の人』に至るのか?という観測実験&遊び
simpleなシミュレーションピープル
でも、これは『法華経』で考えるとあながち『間違いでもない』のが不思議
釈迦は『より高い次元』に至る為に、『弟子を三次元』に送り込み
その三次元の弟子達が『自力で悟って解脱』して『弟子に引っ張り上げて貰う』という方法
つまり、『神が創造に行き詰った』時、『新たな神(想像主)を生み出す理論』と同じであり
それは転じて『条件付き思考シミュレーション(問題)の中』に投影した
『自力で解決しよう』という『意識の観測対象が弟子=自分=自ら分けたキャラクター』
転じてこれは、『分散型コンピューティング』による『同時並列処理』でもある
分散型コンピューティング(分散システム)は、ネットワークで接続された複数のコンピュータ(ノード)が連携し、1つの大きなタスクを並行して処理する仕組みです。個々のコンピュータが独立して動作しながら共通の目標を達成することで、単一の高性能機を凌駕する処理能力、低コスト化、故障に強い高い信頼性、拡張性(スケーラビリティ)を実現
こうやって『文で明らか』にすると『精神テクノロジー文明があった証明』でもあるが・・
もっと違う『表現=私の独自体験』から例えると・・
『明晰夢』の中で、自分自身がその時、その場所で果たした『行動と結果』
それを目覚めて『体感』として『何=人の可能性を心に感じたか?』を持ち帰り
その『体感を応用』して『現実で観測する問題』を『納悳するように自己解釈する事』で
昨日までの自分とは『違う自分=問題解決で自信がついて成長を実感』するようなもの
あれ・・?もうできてる?みたいな(笑)
※そういえば、昨日も行き詰ってた問題が一個解決して未知に進んだ事が現実であったw
ただ、文で明らかに言う正しさを明らかに『文明の証明』をしないと
私は『できてた覚悟』を忘れてしまうから『書いてる』のかもしれない
『約束のブログ』として(おおよその束)
それでいうと・・この『夢から体感』の『記憶の記録』が『次の私の三和土(土台)』になってる
でも土台を『最も安定させる方法』は・・実は『逆▼=杭打ち式』
私が私として土台を安定させる為に『自己探求で深掘り』する
それは『螺旋のドリル』でその掘り進む『道の先に先人の軌跡』がある
既に掘ってくれてるから『続きを掘る』・・という意味では
これはとても『建設的な作業の和足しの恩恵』である
で、▽という形の底は、『ルシファー=サタン=不動明王』の煉獄と一致
「ここが元(底)だ!」と気づいたら、『後は納悳しながら埋めていく』だけで
表面的には『平』に見えるけど、地盤は絶対揺るがない『▽の三和土』ができる
『深く掘れば掘るほど安定する』という理論は『現実的には忌避』されるだろう
だいたい『硬い地盤(物理)』で進めなくなる問題がある
しかし、『心の探求』にはその『制限』がない
『明晰夢で壁抜け』した事がある人ならわかると思うけど
その先は『未知=未だ知らない』だから何が出てくるか『想定外=認知の外』
人は『思い込み(概念・常識・恐怖)』を手放した時『何=人の可能性』と出くわすか?
それは『人それぞれ違うキャラクターの役目』にしかわからない
ちなみに、私は初めて『観念=心を観る』というものをしてみた時
初めてその時『お釈迦様』という『概念的存在』とでくわしたけど・・
初見は学校の『美人先生』
憧れをもって近づいたら『塩対応で無表情のウルトラの母』(笑)
今はもうそういう『思い込み』も無くなったから『見え方は違う』けど、夢では、『恩恵を等身大で伝える存在(現一切色心三昧)』として時折あっている感覚はある
深淵を覗く者は、深淵に覗き返されている
「深淵を覗く者は、深淵に覗き返されている」は、ドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェの著書『善悪の彼岸』にある、「怪物と戦う者は、その過程で自身も怪物にならぬよう気をつけねばならない。深淵をのぞき込む時、深淵もまたこちらをのぞき込んでいる」という警句。悪や虚無を批判・凝視する際、自分自身もその影響を受けて同化する危険性を警告
これも『その時の心』が
『恐れの怖いもの見たさ』で見ているのか?
それとも『ワクワクの好奇心』で見ているのか?
前者は鬼=『同じ過ちを繰り替えすのか?』と厳しく見張っている『監視者』
後者は仏=『無害ならほっとく』と穏やかに見守っている『観測者』
この哲学の面白い所は善悪の彼岸=『光と闇の向こう側』
そこに『未知の自分=怪物』という『自己投影の鏡写し』
『覚悟』が無いとできないが
それは『心と吾が同化する事を覚える』だから
人という『内なる概念』の外→『介入者・監視者/観測者』
『未知の存在』を『肯定しつつも否定』したい『未知なる自分』と向き合う
心の写し鏡
自己が争いを求めれば『争う悪の力』を
自己が平和を求めれば『穏やかな善の力』を
でも、どっちも『求めないで深掘り』すれば
それは『同一なる自己=監視者であり観測者』
だって『心に素直に進んでる』だけ
それを『抵抗する自我(欲)』が無ければ『底』に辿り着く
私が「光が欲しければ闇の奥へ行け」と書いたのは
闇の奥の底の『不動の蓋』を抜けて『反転した先に虚空の光が有る』から
・・と文で書いても、明らかにはできない=『文明』はないから
個々、自発的な『想像と創造』におまかせしますw
一人一人、『見え方が違う』からね
現れる『存在』も現一切色心三昧なら・・
辿り着く『深淵』もまた現一切色心三昧
人によっては『お迎え』といったり『死神』といったり
『名と役割(体)』は『人の間』が決めて『名乗って』定着しているだけ
私の独自表現では『夢よりの使者』
シミュレーションの外の智慧は『夢で得られる旅』
そこへ導くガイドもハイヤーセルフ・アセンデッドマスター
それは『今』ではない『常世のあなた』という『成仏した自分自身=魂』
・・なんだろう・・だんだん『取っ散らかってきた理由 』がわかってきたぞ?w
『西洋』で例えたり、『東洋』で例えたり『意識のシフト』する『点と点』が離れすぎてる
これは『私の通った道』が『物理』では説明できない『意識の跳躍』をしているからだろう
『時の間』を端的に『必要な分』だけ、『足るを知る』事で
『魂』は『満足して成仏』して『別のガイド』にいれ変わってるからだろう
さすがは『浮世離れ』した『浮遊例』という浮いて遊ぶ先に有る智慧
ソフィア=智慧
外れて増えた自然に伝わる命
浮世離れした『浮遊例の先人の智慧』が宿る
これ『白龍の導き』とも同じなんだよね
白龍はたまに地上の海で魚になって海を自由に泳ぐという例がある
白竜魚服
「身分の高い人が、自分の正体を隠して粗末な格好で民間(地上の世界)を歩き回る」ことの例えとして使われ、もとは中国の淮南子(えなんじ)にある、神龍が魚の姿に変身して捕らえられたという話に由来
龍神・水神としての白龍:
日本各地の神社で祀られる白龍は、水を司る神(龍神)として湖や海、滝などに関連して現れます。伝説ではしばしば人間の女性や、白蛇、あるいは魚(鯉)などの姿として表現される
・・私は特に白龍、水の女神、女神信仰、女神転生など、興味を持つ者が自然と『女性性』に向く傾向がある
それは『穏やかさ』でもあるが『思慮深さ』、母が子を思って千里を行っては千里を戻る先世見=虎は千里行って千里帰る
それって『先の世』を見て、『そうならないように子を導く』
『厳しく人に云う心の鬼=魂の伝心』でもあるし、『好きに遊ばせよう』という見守る『ほっとく(仏悳)』でもある
法華経的に言えば、『弟子が自力で解決する問題=自己解釈』
結局、『万教帰一』のように、失われた『廃仏毀釈=仏鬼釈迦』へと外れていく
その外れた所に『型を破る智慧の女神の恩恵=自然』がある・・と『道理』を説けば
『タオ(道)、無為自然』という『老子の思想』も『胡蝶の夢の荘子』も
やはり『人の間から解脱』に至る『先人達の軌跡』は『体感無くして理解なし』の哲学の先にあるのだと
先人の哲学の『掘り下げ螺旋(フラクタル・相似)の軌跡(煉獄構造=地獄めぐり)』のタイトルを回収しましたとさ(笑)








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