宿命の星・・といえば、人生とか責任とか、めんどくさい重荷に感じるのは、遠い星という的外れな方向に意識の観測を向けている。星は日の生まれ=立つ日の心=思い立ったが吉日!の意が生まれ、それを味わいたい!と意味を見出し、それを志て意志とした時に命に加味して宿す=宿命になるという、先例・先靈が夢の体感を通して実感させてきた腑に落ちた気持ちを言葉にまとめてみたお話
星という文字を宿した先祖と語ったら・・
『星』というのは『日の生まれ』
『意』というのは『立つ日を支える心、音を支える心』
これは初志、初めて『志』が生まれる
『士心』と書いてサムライハート・・といえば『何を支えている心』かわからないが
『±(プラスマイナスゼロ)を支えている心』と捉えれば『軸』になる
初めて『心の軸』を確立するのが『初志』
そこに『味』を加える『加味』をする
神に『頼る』のではく
神を『宿す』
それは『加味する』という事
加味を『調味料』にするのではなく、加味を『出汁』にする
いい『下味』がしみこむ『加味鍋の心』が出来上がる
それが自分自身が生み出した『神』であり『意味』となり
日の生まれを意味に変えて宿す事を『星の宿命』とする
そういう意味が『存在』するのではない
そういう意味を『加味して存在』させるのだ
出汁からしみ出した『味』を思い出すのだ
意味なき事に『意味』を加える
どんな意味か『想像』して、どんな意味か『創造』するのだ
星とは『見上げる対象』ではない
星とは向き合う『心の正体』である
『地上の星』とは自分の心であり
自から『分れた身』へ伝わる『意の見方』
カタカムナで ほし は 引き離した示し
星と向き合うと『心』を思い出す
心と向き合えば『命に宿した星』が見える
星とは日の生まれを加味した心=『初志』だ
その『初志貫徹』する事=生まれた『意味を真っ当』する事
神は『頼む存在』ではない
そういう『先例・先靈』として『加味して宿す』
心の軸が『±0=志』がなければ簡単に『傾く』
『初志(加味する前)』も『意志(加味した後)』も忘れてはいけない
忘れてしまえば、心は亡き、心此処に在らず
簡単に『位置(座)』を見失ってしまう
『座して星』を観よ
夢夢、忘れるなよ
・・的な、感じの『独り言』・・のように、スラスラと『言葉』が出てきたのは、私の中に、『独自の意味を想像』して与えた言葉を借りて、宿した先祖が、私の中で『納悳できるように組み直してくれた』ような・・
昨日は、一晩で『とてつもない量の夢』を見た・・(一個一個まとめられない)
でも、どの『役目』でも『共通』して言えるのは『苦の先に帳消しになるレベルの楽』があった
初志貫徹の『初』と意志の『意』が消えて『志』だけが残った
『帳消し=±0=志』を完遂した事で、『何も無い(記憶)が全て有る(体感)』
空を想う=『空想』として思い出す事で、それが文に化けて言葉になって
その言葉の意味を、『何を加味したのか』を振り返ってみたら
『星の生まれ=宿命』という『自己解釈』になったという・・だけの話
「で、宿命ってなんなの?」と聞かれても、今は『±0=志』のみ
まだ『意=立つ日を支える心、音の心』がない(笑)
最近はずっと『雪かき』に追われていたが、今日は天気が良くて雪も積もってない
立つ日とは『思い立ったが吉日』
その「吉日に動きだそう!」という『音の心のリズム・イズム』が無い
つまり、『意』もなければ『何も加味していない』から
動き出す意味がない『±0の心』
『今の心=念』は動く力を持っていない=念動力が使えない・使う必要がない
・・というのも、先にもいった夢の中の『多岐に渡る役割』で使い切って
『空っぽ=空』となってしまったので、( ゚ ρ ゚ )ボーっと『気楽』である(笑)
夢の終わりも疲れを癒すような『女性とのアバンチュール』だった
『最後の女神』ならぬ・・『(金輪)際後は女神の癒し』
・・その『余韻』を楽しんでいるように今の心は『観念』している
「このまま、終わってもいい・・」と感じるのも『±0の心』だからだと思うが・・
それは今、この『体感を言葉として書いているだけの私』であって
「思い立ったが吉日!」(((o(*゚▽゚*)o)))と何かに『意』を見出したら
きっと『味』を『加える事』を求めるだろう
それを『志に加味』して『心の出汁』にして宿し『日の生まれを宿した命』となって
その星の宿命を果たす為に『今の心は動く力(念動力)を与える』だろう
という事は、『何も無いが全て有る』という『心持ち』というのは
『足るを知る満足』という『オチ(気締め)』ついた状態なんだろう
一休み、一休み、by一休
・・そのくらい、夢の向こうで『色々』やったきたからね
でも『体感』はあっても物事・出来事という『具体的な記憶』はない
具=道具・法具
体=からだ、人の本(教義)質
的=目的
記憶=記されたのは心の意
だから、心と向き合う『観念』した時だけ
その『意味=意志』として『宿した加味』を思い出せるが・・
それはこの『現実=現れた実態』から『引き離された示し』
『ここではないどこか』でしか『証明』できない
証明=言う正しさを明らかに、文で明らかにしたら
それは『文明=過去』になる
文明とは、『終わった古代』につけられる名
『現在』を文で明らかに証明できないように
現在=『現世の存在』もまた『一の位置(座)』がはっきりしないように
『自』から『分れた身』が『自の意』を『認識』する『自意識の空間』がある
私は『夢』という『認知』をしているが、それはそういう『現在の自意識』
カタカムナで ゆめ・む は湧き出る思考・試行・嗜好・志向の広がり
夢=DREAM→D+Ream
穴 ( あな ) を 広 ( ひろ ) げる
(不良部分などを) 取 ( と ) り 除 ( のぞ ) く
厳 ( きび ) しく 責 ( せ ) める
まさにDの意志(笑)
『夢=多次元多世界』と言っても過言ではない
昔の先人達は「心以上に大切なものは無い」という
カタカムナで こころ・しん は次々と転がり入る空間の強い示し
これは『心変わり』であると説く
私にとって、それは『加味を出汁・足し』にする事
和足された加味を足しや出汁にして『新たな想像と創造』をする事
全てが『学びとして有る』が『得ない』ならば『有り得ない=拒絶』
だけど、『加味』すれば、『有り得る=可能性』が生まれる
「無いに有る!」を見出した時、『意』が生まれ『志』に『加味』して『宿す』
そんな『加味を和足す』事で『可能性』は広がっていく
未だ知らない=『未知の道』が増えていく時
それは『夢・・だった(終わった過去)」・・ではなく『夢だった(可能性)』!(((o(*゚▽゚*)o)))
と見方が変わる
『自分自身』でありながら、『多次元世界の自分自身の体感も味わえる=加味』する
「夢夢、忘れるでないぞ」と『云う鬼=魂』の『経験値が加味』されていく
忘れるな=『亡きを支える心』になるな=『過去』にするな→『今の心』に活かせ
宿した加味=『先例・先靈たちが体験の苦』を通して『心に楽』を与えてくれる
これは、例えるなら『抗体の機能獲得』
「同じような事が起きても狼狽える事はないだろう?」と
さらに言い換えれば・・
『思い出したくない地獄』を『味わって』きたんだから
【アレ』に比べたら『たいした事=大は小を兼ねる』はないだろう?w
と大胆不敵になる(笑)
『思い出せない』・・のは『思い出したくない』のかもしれない・・
『加味の鍋』は・・言い換えれば『地獄のかまゆで・闇鍋』も同じ事
何でもかんでも『心に混ぜればいい=カオス・混沌』ってもんじゃねーぞ?と
『加味を出汁』にできるかどうか『味わって試して』きたんだろう?
そういう『味覚』もまた、体感としての『毒見』の感覚
なぜ『明晰夢が五感を伴う』のか?(体感した人しかわからない)
味=味覚、『身を持って味わう=体感する』=『別の星(日の生まれ)』の人生
それが『明晰な夢の醍醐味』と言える
そりゃ人ぞれぞれ『心が違う』のだから、それを加味したら『心変わり』もするさ
・・もしかして?『仏の道』に進まなければ、味わえない体験?
仏の道は『ほっとけ』と心を鬼にする・・『心を鬼』に・・
志=±0の心を『鬼(先例・先住民・先在意識)に同調』させる?
私は『潜在意識』という西洋の言葉、心理学がしっくりこない
『先に在る意識』と捉え直せば『底(奥・下)』にあるのではなく
『其処』にある意識
其=少し離れた人や物を指す
処=物や事が在る(起こる、行われる)
つまりは『隣人を愛せ』に通ずるものがあり
他人とは『其処にいる先例』でもある
そうならなかった自分(過去)
そうなる自分(未知)
人の振り見て我が振り直せ
これは『同調する事』を意味するものではなく
『同調する必要性がない』という『意味』でも取れる
『上下左右という方向』と『先=方向性はないが進む道』という言葉は違う
『先住民』という言葉は『過去=文明』を示す
しかし、『先の意味』がそこから離れた『其処に住んでる民』ならば
『先住民=鬼』は「ほっとけ」と『離れた先に住んでる民』でもあり
『相いれない領域の向こう』に金輪際関わらないと『決別した意識』であり
その領域に入る鍵が『云う鬼=魂』ならば
『魂の指導』で『経験を素直に心に納めて納悳』した者は
ある意味で『免疫寛容』として、無害だから『鬼門を夢で通過』できるかもしれない
・・で、その先で、『地獄(体験)』を見るのだけど(笑)
その『苦の体験に耐性』がついてくると、もう地獄を見なくなって
最後は何も気にしない『楽』に至る・・のだけど
また『人の間』に生まれたいと思ってしまうのも星の宿命
私は以前、夢の中で「現実学を研究している」と言っていた
ある庭園ような所に集められた卒業生達の同窓会?懇親会のような場所で、少年だった頃の私の漢字?が『有名な文集』か何かに掲載されていて『文豪達?評価をする側達の爺さん婆さん』から
文豪「君はこの時、どんな事を考えてこれ程のものを…」と至高の一品をマジマジ見るような質問を浴びたが
私は何の事かわからなかったので、「きっとその時の評価をする人の好みや思想で偶然選ばれただけじゃないですかね?謙遜とかではなくて」と返した
ある人から「その後は何を?…文学とか?」と聞かれた時に、少し考えて…ふっと頭に浮かんだのが
「現実学ですね」と答えた
あぁ、うんそうだ…現実体験という多様性を哲学として学んでいる。それがしっくりきた後、そこにいる他の人と話をしてる中で、タバコを吸おうとした人がいたので
「あ、俺にも一本‹‹\( ˙▿˙ )/››」とタバコを貰おうとしたら目が覚めた
急に現実感の罠(ノシ ‘ω’)ノシ バンバン
・・夢の内容を振り返って思い出すのは・・たばこ、現実の文学、文豪・・どうやら、この辺が私を強く現実に結び付ける道具なのかもしれない
たばこにははっきり言って『意味』がない、ただの煙
吸えば体に『毒素』として溜まるのもわかってる
その毒素が無い時の私は『浮世離れした方向』にいってしまう
『発想』が『この現実』に拘らないで自由になってしまう
・・そういう意味では『現実学の発見』をまとめさせる為に
つなぎ止める『鎖』なのかもしれない、そういう宿命なのだろう(笑)











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