釣った魚に餌をやらない という当たり前の事を表現したことわざが、何故男女の色恋沙汰に例えられるのか?を洞察したら、魚介類が下ネタになる語源と羞恥心とはレッテル貼りだと見えてきたお話
『釣った魚に餌をやらない』ということわざ
釣った魚に餌はやらぬとは、親しい間柄になったあとは、相手の機嫌をとる必要はないということ。多く男女の仲について
現代的な意味は『釣り』と全く関係ない、『釣り行為』に例えた『男女の色恋話』になってるけど、『魚を狙って釣る』という経験をした人ならわかる、『釣り上げるまでが目的』という事
釣るための道具一式、餌、など魚をおびき寄せ罠にはめる準備や魚の現れる場所や時間など、『入念に下準備をする努力』は惜しまない
しかし、いざ魚が釣れると『リリース』する
『目的達成の自己満足で完結』し、釣った魚はただの『証拠』としてカウントしてリリース、『大物だったら魚拓』を取って『その後の扱い』は執着しない
私は釣った魚は『責任もって食べるまでが目的』だったが、そもそも『釣った魚は活かしてはおかない=すぐシメる』から『追加で餌を与える事』は無い
至極当たり前の『釣り人理論』を『恋愛に例える事』が『既に間違い』であり
その『間違いから生まれた女性側の恋愛意見』も『滑稽』に見える
男は釣った魚に餌をやらないというが。『 餌を与えたくなる女になるよう努力』すればいい。 男は熱心に釣ったのだから責任持って餌を…
釣りは『釣って食う為に餌』を撒く
その『餌につられ寄ってきた魚』
その『過程に釣り人と魚の攻防』はあれど結末は『釣られた魚』として『まな板の鯉』
相手のなすがままで、自らの運命を自分ではどうすることもできないさまのたとえ。 また、死を覚悟して、どうにでもしてくれと開き直るさま
『食われる』か『遊んで捨てられる』か
『陸』に上がれば『腐り死んでいく』のに、なぜ『餌』につられて『陸に上がった』のか?
達観した魚はこう思うだろう(´-`)oO
『自らの餌に飛びつく業欲』が招いた『自業自得』であり、君子『危うき針』に近寄らず、触らぬ『撒き餌』に祟りなし
そもそも論として『男女の色恋沙汰』を『釣り理論』に当てはめる事事態が、お互いに『関係性の束縛』を求める『居ろ故意沙汰』
それに『執着』すれば決して『手に入らない物質(人)』を求め、『失ったら追いかける喪失感』の繰り返し
『逃がした魚は大きい』とも言う
手に入れそこなったものは、惜しさが加わって、実際より価値があるように思われるものである
これを『達観』すれば、『魅力的な餌が目の前』にあっても『飛びつかず見向きもしなく』なる
『そんな魚』を相手に『釣り』をしていると
自分がなんか『無理矢理関係性を構築』しようとしているけど、『縁もゆかりもない存在』なんだなと…
『釣れない素振り』をしやがって(´・ω・`)
あ、釣れないで『竿を素振り』してんのは俺か…ん?σ( ̄^ ̄)?つれない素振りをする『イケズ』?
意地が悪い、タチが悪い
『維持』が悪い?『立ち』が悪い?もっと『竿』をしならせろ?
んんん?(´・ω・`)なんか全部合わせると…
つれないそぶり
人に対する接し方が思いやりがなく、無愛想で冷淡である様子。
イケズ
意地が悪い、立ちが悪い
つまりイケズは『男性の竿の立ちと維持が悪い』から『逝けず』な女性は『マグロ』か!(´・ω・`)Σ(゚д゚;)下ネタ
行為中に冷め切った様子の女性の隠喩(女性側)
道理で夫婦間が冷める=冷凍マグロ
釣った魚=嫁・彼女には餌を与えない旦那を揶揄した夜の営みの『下に例えた魚釣りのネタ』だった
これは下ネタは『海の男と女から広がったエロ話=海のから伝来した語源』だなと
ハマグリ剥いちゃいましたとか、綺麗なアワビとか、普通に『魚介類の事を話のネタ』の状態を言ってるだけなのに、それを『エロい隠喩』に変えたから『下=性器のネタ』になったのか!(*`ω´)b
とはいえ、ここも不思議な『羞恥心の教義』は『宗教的』な気がする
羞恥心というレッテル
私はエデンのアダムとイブが禁断の実を食べた事で、『アダムは股間を葉っぱ』で隠し、イブは『胸と股間を手で覆った』という宗教画が
『元々裸だった事に何も思わない状態』から、何故、『禁断の実』という『知恵を与えるはずの林檎』を食べた時
『知識』という『概念』である『羞恥心が芽生えた表現』になっているのか理解出来なかったが、今回の『魚のネタ』も含め、何故『隠喩=メタファー』になってしまったのか少し理解出来た気がする
『羞』という字は『差の工』が『丑』になっている
差とは引く、隔たり、互い違いで、工とはたくらみ
カタカムナの言霊で
さ は 『遮り』
『差』事態にあまり『良いエネルギー』を感じないこの『遮りのたくらみ』にはめられたのが『丑』と見ると
丑寅=鬼→『忌み嫌われる敵=レッテルな対象』
丑寅=『牛の教え(釈迦)』+『トーラ(原典)の教え』
それを遮る『廃仏毀釈』に『神仏分離』の『工作』
『格差』が『互い違いの教え』を遮った
=『羞』は『恥』とする『心得』が広められた
これは互い違いな『同一』という
互いとは物事の『捉え方が違うだけで同じ』
何も真実を隠してない『隠喩=真はある』
この言葉を解放すると
『羞』は『恥とする心得』である
一見、『何も変わってない』と思うだろう?
『立場=鬼・丑寅』に変えてみたらいい
『格差』を持ち込む『隔たりの工作』によって『釈迦や原典の教え』を遮られた『羞の状態』は『心に耳を当て恥じる心』を持て
つまりは『格差をたくらむ工作を仕掛ける者たち』が『元々ある同じ言葉』を使い、『忌み=己の心が大事という教え』を
『宣教に都合のいい意味』に書き換え『間違った伝導』を広める事を『鵜呑みにして加担する事を恥』と知れ
なんで『魚の名前で赤面』するんだよ?
いつから『そんな感情』を植え付けられた?
『ハマグリを剥く』のが恥ずかしいか?
『アワビを広げる』のは食べる為だぞ?
釣った魚も食うためだから『餌はやらん』し
釣れない素振りは『釣りが下手くそ』なだけで
『竿の立ちが悪いから途中で下がらないように角度を維持をしろ』という『忍耐の教え』でしかない
そもそも『イケズ』って『関西・京都の方の方言』だから、『魚を下ネタ』にして『汚した・穢した』のはそっちじゃねーか!となると
『変な言葉』を作って『風評被害を広げる』のは今も昔も西の方、『災いは西南』からやってくる法則
『恵方巻き』も『東の節分』には元々無かった文化
去年はあっち、今年はこっちの『旦那様の太巻きを節操なく咥えて奥までゴックン』という『芸者遊び』を大衆に広める
『節分=鬼は外』にぶつけるタイミングに『被せる工作』
虎の威か、猫の皮かわからんけど何かの『仮性の皮』は被ってそう
これもまた『羞恥心に気づくポイント』
節分は『丑寅=艮=鬼の教え』
『畑の肉と呼ばれる豆』を食えば『栄養』が取れて
『魔滅=邪気払い』=『季節の変わり目の風邪』を予防
『雪解けの畑仕事への身体作り』に必要な下準備
至極真っ当な『生きる為の真実の知恵』
それに『格差』が乗っかってきて『恥知らずな羞恥』を広めている事を鵜呑みにするなよ?と『周知』させる心
間違いは間違いで『正しさ』では無い
『間』が違う『常識=風土』である
『名は体』を現すように
同じ名前でも『態や他意』で違う
態は状態=主観的な『能力と心=心体』
他意は『他の意識・意欲・人也の思惑』
『思惑』に乗れば『惑わされる』のだから
『格差の工作』で『羞恥(劣等感)』を植え付けられる
それが格差=上と下の上下関係の『格付け』
馬鹿馬鹿しいと思うのはそれが『間違い=生きてる間が違う』から
そんな『風土』は『無い世界』
『名は同じ』でも『体』が違う『並行次元』
歴史は『人が他意で都合よく改変』できるが
暦は『月を読む先世見だから不変』なんだ
だからムーンショット=『月を討つ』
月世見の討伐=『丑寅の教えの根絶』
やってる事が昔から『莫迦の一つ覚え』┐(´д`)┌ヤレヤレ
語源と音の響きと『同音異義語』
まさに『元々の言葉の上書きの歪さ』の証拠
羞恥心を周知心
羞=相手に比べて自分が劣っている=劣等感
劣等感を恥じる心=『コンプレックス』
羞恥心の始まりとも言える宗教画のアダムとイブは『股間と胸を隠す=コンプレックス』があった
それは何故だろうか?
『乳首』の色、形、乳輪の大きさ?
『股間』の色、形、大きさ?
いずれにせよそこが『コンプレックスだと表現』しているとしたら、それは『小さかった事』だろう。例えばミケランジェロのダビデ像も『男性器は身長に対して小さかった』と言える
しかし、『ありのままを描写』したとしたら、当時はこれはコンプレックスではなかったし『レッテルの対象ではなかった』という事
女性も何故か、『乳輪が小さい』とか『乳首が小さい』とか穴が小さくて…という事を『恥じてコンプレックスに感じる人』もいる
そこは『好み』なのだが…と考えた時、宗教画を依頼されて描いた当時の画家は『間違えばパトロンに殺される』かもしれないと…
『どう描いていいか分からないから隠した』とも言えるし、それは『命令』された誰もが『偶像化』する時に、『選択の責任を問われたくないから隠蔽した』
とも言える
自分が『担当の画家』だったとして想像してみ?
目の前の『実像をありのままに描写する』のであれば、性器が小さかろうと、大きかろうと、そこに『モデルがあるから何も悩まない』が
『誰も見たことがない偶像を想像で描け』と言われ、その『自分の価値基準で描いた存在』が、今後のあらゆる事象の『シンボル』となるとなった時
性器の『色、カタチ、サイズ』をどう決める?決められる?人と神は違う、『神は人より優れている存在』で、『人のカタチをしているかどうかもわからない』のに・・と葛藤した挙句、描けないとなった時
『隠す!見せない!』そういう『裸の一部は見せられないという構図』にすれば、「ご想像におまかせします!」と『作品に奥行』が出て、後世の人にその『解釈の責任を先送りで丸投げ』できるじゃないか!
と、なるのではないかと思います
だって、その『性器の描き方』が、『宗教教義』になるという事は、『あなたが神を生み出す創造主』となる
『神という存在を盲信している熱心な信徒が神を生み出す』という『矛盾』しまくった『嘘の行い』
これが『人の根幹』にあるなら、『性器の大発見』である(笑)
『真実の隠蔽』こそが『現代人類の愚かさ』
ありのままをさらけ出せない=自然体になれない
どこかに『周知の劣等感』を感じている
『隠してる事を周りに知られる事』を恐れる
今回は肉体的コンプレックスの話ではないし、コンプレックスって実は『強みの教え』という話は前に『9次元思考』で訳詞如来した訳で
同音異義語という『同じ音の響き』なのに
『漢字』も『感じ方』も『捉え方の立ち場』も違う
何故そうなるか?の根幹に『劣等感のレッテル』を貼る『羞恥心の価値観の押しつけ』の『周知の流れ』と
「そんなレッテルは元々無い!『羞』は『丑(釈迦)の教え』を『工作』する『格差』を持ち込む為である!鵜呑みにするな!目を覚ませ!!」
と『周りに周知』させる『格差を取る=差取りの流れ』がそれぞれ、互い違いに元々『相対的だけど同一に凸凹』した『言葉』としては『真実は隠されていない隠喩』
ただその『意味』をどう捉えるかで『乗る流れ』が違うだけ
どうして『魚の名』を貶めるのか?
『真の魚』と書いて『真魚=後の空海』である
空海は後に東へ北へと渡り『丑寅の地』へ
『魚の教え』を『下ネタ』にする
『下世話な西』からの流れは、夢の中で一時、『龍の導きで呉越同舟』する時も感じた事
仲の悪い者同士が一所にいる、または共通の目標で協力すること
津軽弁を馬鹿にしやがって( º言º)
差と羞
ここに工作で『丑(釈迦)』封じ
その意味が『劣等感』で価値観の上書き
悟りではなく『差取り』なんだと、『差=劣等感・コンプレックス』を取り除けば、それはその人が持つ『元来の強み=宿業を成す為の才能』を引き出す
その根幹に『丑(釈迦)』があり、釈迦が目覚めれば『釈迦力』に運命が回る
忌むべきもの=嫌われる存在というのはこれは『羞』が隠した『劣等感』
忌むべきものはイム=『仏』
そこに『力』が加わり『カムイ=神威』
『神仏は元々一体』という教えであり
一体とは『一帯』という『そのあたりずっと。一面』
つまりは『自然体=あるがまま』って事
…うーんσ( ̄^ ̄)?てことは今回からまた『真の魚(ネタ)=空海』に意識が巡っていく訳か
これは神社の八代龍神(法華経)にお礼に行かないといけない案件だな(´-ω-)ウム。しかし、これだから『空海の筆』は面白い
『妙見狸の毛(氣)を筆』にして『訳詞』して導いてくれるヒントを元に
『君が(時)代』の教えの『邪な流れ(羞の格差)』を『差取れ』と
『レッテル=封印=コンプレックスを解け』って事か(´∀`)
ちなみにアダムとイブは股間を手ではなく『葉っぱ』で隠した=葉を使う=言葉=言い訳(画家の)
彼らがした事は『それだけはするな!!』と言われていた『禁忌』
林檎を食べた事ではなく『隠し事=嘘・隠蔽・誤魔化し』をしたから追放された
とするなら?
食べたなら食べたと隠さず、『素直にごめんなさい』すれば、間違いを『悔い(食い)』改めて『無罪放免』だったのではないかと私は思う
アベルはどこへ行った?という神の問いに「私が殺しました」と嘘をつかずに素直に言えば、『追放まではなかった』のではないかと私は思う
罪を憎んで人を憎まず
『行った行為』を『反省して更生』できるなら『甦る=永遠の命』
人は『自分の心に嘘をつく教え』を続ける限り、それを隠したい『他意と一体=世間一帯』となった…
あぁ、『一路一帯の業』にのまれ続ける現実
中国の習近平国家主席が2013年に提唱したシルクロード経済圏構想。 かつて中国と欧州を結んだシルクロードを模し、中央アジア経由の陸路「シルクロード経済ベルト」(一帯)とインド洋経由の海路「21世紀海上シルクロード」(一路)で、鉄道や港湾などインフラの整備を進める構想
『格差』が押し寄せ飲み込まれる『狂気のパレード』だね(´∀`)
それは間違いではない『間違い』
どこに『観測の意識の立場』を置くかの『間が違う』話
『立場』を持たない『仏』なら『己の心』のみ
真我以外、色即是空
…やべ、先世見の空海ターンが始まると狸の筆が止まらなくなるのでこの辺で(。-人-。)
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