好奇心

直感・閃き・気になる事探究を楽しむ

妄想と執着は残酷になる忌みがわかった

想定した妄想の中で起きた想定外?!それを観念したら執着が残酷を生むのだと理解した気づきのお話

想定した妄想の中に想定外

いつもは目を瞑って行う意識のコントロールと呼吸瞑想を『目を開けて』やってみたら

寝る前のルーティンのはずがバキバキに眠気が飛んで、その状態で感度が上がりすぎたのか周囲の静寂がやたらはっきりして(チャクラ好転反応)眠れなくなった…

そこで波動を落とす為に『エロく楽しい妄想』でもして『血を下げて』みる事にした

好きな人と一緒になって幸せな生活
いつも隣でイチャイチャする

誰もが普通に抱く人間的な妄想
その幸せな妄想の中の自分が幸せすぎて『涙』を流していた

妄想している中の相手も「え?なんで泣いてるの? ?!Σ(゚д゚;)」だったけど、妄想している自分でも「なんで泣くの(´・ω・`)」と驚いて一旦『妄想をストップ』して冷静になってわかった

失う恐怖

望んだものを手に入れた
それで満足は『心の話』

しかし、肉体的、目に見える存在として相手に『身も心も委ねる』という事は…諸行無常の栄枯盛衰、『カタチ』あるものは『いつか壊れる』

相手の心が離れるでも自分の『委ねた心を失う』
相手が他界するでも『心の拠り所を失う』

妄想

『足りていたもの』が『足りなく』なる

覆水盆に返らず、委ねた心は戻らない

『失う事を恐れない』というのはそもそもそこに『心』を置いていない

『相手』がいないと成り立たない
そこに『心を置く』と相手を失った時『心は戻らない』

こころここに在らずで『彷徨う』

『妄想の中の自分』は妄想の絶頂期の『幸せの中』
妄想であっても「失いたくない」と泣いた

『執着』はなんて『残酷』な法則なんだと・・

残酷とは『残りは酷い』と書く

『先立つ』のは仕方ない
しかし『残されるのは酷い』

心にぽっかりと『換えの効かない穴』が空く

それは決して『ひとつになれない物』が何とかひとつになろうと『執着・密着』すればするほど、引き剥がされた時に『十分』から『半分』になる

元来ならば、そう言う『現実の過程』を経て、『心を失った者』が『地獄巡り=hell』をして至る、愛する妻を失った『ダンテの地獄巡り物語の境地』を私は『幸せな妄想の中』で味わった

よくよく考えると

『妄想』って『亡き女を想う』だもんな(´-`)oOしっくり

妄想

愛する事を『欲する』
欲する気持ちが『執着』

…『波動を落とす』為の『エロい妄想』だったのに、結果、また『哲学』して『波動が上がって』目が冴えてしまった

やはりH(叡智)は人を試す…

Hは人を試す

これが『性欲』を『高波動エネルギー』に変換する』という『性質変化体験』なんだろうσ( ̄^ ̄)

オベリスクが崩壊した(萎えた)

そして今も結果寝れない(笑)

人の世の愛=『特定の執着』を捨てる
それが『何も欲さず自我を捨てる』という事なら

それが出来なきゃ『残酷な事』になる
『名残』惜しい、『心残り』、残された者は『酷い』

現代の『残酷の意味』はこうなってる

無慈悲で人畜を平気で苦しめるさま

全く違う…とも言いきれないのが

『大切な何かを失った人』は『自暴自棄』で八つ当たりする。何かで『心の穴埋め』しようと欲望を抱き引き寄せしては、「これでは無い…」と自分勝手に捨てる

悲劇のヒロインの『被害妄想』に陥る

その相手に対する『慈悲』は無くなってしまう
「違う…」となった瞬間に『愛せなく』なってしまう

特定の〜でなければいけない=must
マストはMAST=船の帆柱

船の『帆柱』が折れたら『風』を掴めない
『行きたい方向』に行けない

『操舵不能』で波任せで『彷徨ってはぶつかる』
船長はもう『船をコントロール』出来ない

『夢』を持って『航海』の最中に『帆柱が折れる』なんて残酷な話だ…

私の帆柱も折れた(萎えた)

そんな『航海(後悔)』をしてはいけない
帆柱に頼ってはいけない(๑•̀ㅂ•́)و✧Σ(゚д゚;)急展開

『オール』を出せ!(੭ ›ω‹ )੭Σ(゚д゚;)漕ぐの?!

心はオール=all=自力=全て自分のもの

心は『他人に委ねる』のではなく
心は『自分を委ねる』乗り物

「お前のオールを任せるな」(๑•̀ㅂ•́)و✧Σ(゚д゚;)宙船

波動が低い=妄想を『自慰で消化』→気が『散る』
波動が高い=妄想を『自意で昇華』→氣が『巡る』

…という流れの全てを『俯瞰で観測している意識』の結論は、ちょっとした『思考シミュレーションの仮想世界』も『今の心=念』が反映されて『結末が変わり学びになる』と気づく

『残酷な結末』を迎えたくなければ『特定の執着』を捨てよ

それは『修業』ではなく『覚悟』なんだと

そう言う意味では、出家して煩悩に悩まされない環境の方が、誘惑や雑念が多い在家の哲学者よりも『執着は捨てやすい』のかもしれないが…それはそれで俗世に関わった時に『欲に対する免疫力がない』から『残酷』な事になりそうだ

しかしまぁなんて『残酷な法則』だ
飛ぶ鳥あとを濁さず

心を『他』に残しちゃ駄目なんだ

心を配ったままだと『心配』
心配を残したら『残酷』になってしまう

自我も記憶も『忘却』しなければ『生まれ変わる事』は出来ないが、それを『戒め』として『今締めた心=念』は持って行ける

念動力=『今の心』を『動かす力』

『心配』すんな『大丈夫』(๑•̀ㅂ•́)و✧(´∀`)
『大切なもの』は自分の『心の中』にしまっとけ

愛する人も大切なものへの想いも、愛すべき何もかもが『心に収まる』

そのくらい『心を広く』しろ
『再び生きる』時に『再生』すればいい

感覚的量子論11 意識の共存と多重人格と大器晩成

色んな体験を『意識して観測』して心に素直に『悳』を積んで『納悳』しろ

足るを知る=『足りないを求める執着』が邪魔
『完璧』である必要は無い

この世界は『96=%』で元々『4』が足りてない

96=%(可能性)の向こう側

96=%の圧力の三から人は王になる

パウリのたどり着いた1/137=4の量子の先へ

ここにはない4=死角・□
それは観測して通過する『プロセス』

さっきまで『妄想の世界』にいた『自分』
そこから『意識』が目覚めた『今の自分』

『学び』を『心』に納めて『内容(妄想記憶)を忘却』した
それもまた『死(世界の終わり)を超えた』事になる

…っていつの間にか誰かに『説法されているモード』になっているという(´・ω・`)私の中の『和多志』

心の隙間に『和を足す師(先人の知恵)

しかし、『私が想定した世界観の妄想』なのに、『その中の私』は『想像主の想定外の行動』を起こした

それが『想像主に新たな気づきと閃』をもたらしたという事は、この世界にも『創造主』がいるならば、同じように『想定外の発想や行動』をみて、『意識が拡大』して、『違う世界を想像して創造』するだろう

そうなると『この世界は忘却』されるけれど、『大切なもの』は『創造主の心に反映』されて新しい世界に『再生』されるだろう

これが聖書の預言とかに書かれている

『リストに名前のあるものは永遠の命』って奴か
多分、そのリストってのは『心』の事だろうな

…と、どこまで達観していくのか・・まだ眠気が来ない(´・ω・`)

そして実は、この記事の下書きの後に、トゥクダム(瞑想死)という言葉に導かれたという

瞑想死 トゥクダム(thukdam)の客観と主観

『妄想』が『亡き女』を求めて『地獄巡りの生』に繋がるなら『動』
『瞑想』は目は『光のない冥を求め死』に繋がる『静』

よくよく考えると『地獄』は阿鼻叫喚の叫び声やら火が燃えてるから『動きがあって明るく賑やか』よね(´・ω・`)

『生き地獄』とは言うが
『死に地獄』とは言わない…

おやおや?

『妄想=亡き女を想う』を止めたら『地獄巡り』が止まったぞ?

やはり思考とは『苦しみ』なんだな

独自体感論 考える時は眉間にしわが寄り、閃く時は開眼している

放心という方針が正邪の更新を見抜く観念と相似

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