またしてもお勧めに変な動画が・・で思う、念仏とは?と感じてしまう観自在の捉え方を思う、般若心経の歌は明晰夢を語る独自体感論
Marz23 【《觀自在》Feat. 藥師寺寛邦 Kanho Yakushiji remix】 Official MV
これを観た時、日本語訳の字幕を見て想った事
深く般若波羅蜜多を行ずる時
五蘊は皆空なりと照見し、一切の苦厄を度したもう
悪い念が津波のように押し寄せても
今ここに在り続け、それに飲み込まれる事はない
こうあるべきという執着を手放して
どんな苦しみにも捕らわれる事はない
いつの日か苦海を抜け出したいと誰もが願う
けど手放す事こそが悟りに至る道だと気づかない
全ての思考を映画のモノローグのように眺めてみれば
あんなに切望した自在がようやく自分に歩み寄る
一輪の清らかな蓮の花は水底の濁った泥の中に根を張る
人の心を震わせる物語ほど涙なしには語れない苦難がある
自分自身を俯瞰して見つめる、執着しない惑わされない
そのまま飛び立つんだ 観自在菩薩
ふむ・・これは、『私自身の体感』とも一致する
そもそも、本来の日本に伝わっている般若心経は『漢字をただ繋げて読んでいる読経念仏』
だから、こういう『一字一句』の『読み仮名をつけた解釈』はほとんどされない
このアーティストと私の見解が一致するのは
『波羅蜜多』の部分
本来はこの部分だけの意味を問われるとこう解釈されている
波羅蜜多(はらみた)とは、サンスクリット語の「パーラミター(pāramitā)」の音写で、迷いの世界(こちらの岸)から、悟りの世界(彼岸・向こうの岸)へ渡ること、あるいは「完成」「最高のもの」
はあ?意味わかんねwwとなる
しかし、私の自己解釈の波羅蜜多は
『波の羅(導き・羅針盤)の蜜(欲望・誘惑)は多い』
ここが
悪い念が津波のように押し寄せても
『悪い念(欲望・誘惑)』という捉え方で『完全に一致』するからこそ
『観自在』=『観方は自在である』という言葉に綺麗に繋がる
通常の意味の『完成・最高の物』という捉え方と
悪い念の津波、『欲望や誘惑の甘い蜜は多い』という捉え方と
ここからして『教えに従うもの』と『自在に観る者』と『後の世界』が分離する
今ここに在り続け、それに飲み込まれる事はない
こうあるべきという執着を手放して
どんな苦しみにも捕らわれる事はない
このブロックを読んでて思ったのは
『心』を羅針盤にすれば『吾』は波羅蜜多(誘惑の波)には飲まれない事を覚える
つまり『心+吾』で『悟り』になる事を『覚える事』で『覚悟』になる
これは『心が見せる景色=夢・空前・明晰夢』の中では『役目は自分で決められる』
『世界の在り方』を『自在に捉え直す事』ができるから『苦しみ』はない
つまり、「私は・・」という『私(自我)は存在しない空』である
『私が空』であるという事は、私が『観ている景色もまた空』なのだ
結果
五蘊は皆空なりと照見し、一切の苦厄を度したもう
いつの日か苦海を抜け出したいと誰もが願う
けど手放す事こそが悟りに至る道だと気づかない
人の心を震わせる物語ほど涙なしには語れない苦難がある
これに関しても、何度も『夢と現実で法則性』を見つけてきた
空に『色(人間ドラマ)』を観れば、その景色は『人の物語』になり
それは『心が投影している景色』だから『役目役割の縁起の苦難(因果応報)』が映し出される
全ての思考を映画のモノローグのように眺めてみれば
あんなに切望した自在がようやく自分に歩み寄る
そう、『現実は夢』であり、『演じる役目の縁起』の関係性
その中に『私』という『主観』が消えた時、『映画を観ている傍観者』と変わらない
しかし、その映画の中に、「これは!」と『主観的介入=意識の観測』をした時
それは『明晰夢』となって舞台の脚本を『自在に書き換えられる念動力』が使える事に気づく
そのまま飛び立つんだ 観自在菩薩
これは『空』に観たい『色』を描く、『虚空』に『象』を思い描く『虚空象菩薩』
それは成りたい仏に成るために今の心を動かす力(念動力)を自在に使う業を修める者=修業者
『観自在』から『虚空象』へと『意識』は飛び立つ
これは夢の中で「これは夢だ!」と『明晰』に気づいた時
その『念動力』を使って『空間の景色を変える行動』を起こすと
『変えた後の世界』へと『意識の観測がシフト』する『多重夢』のようなもの
空前→絶後へ
空則(すなわち)是(これ)色
自分の意識で観たい世界に『変える前』(空前の夢)
自分の意識で観たい世界に『変えた後』(絶後の夢)
この間、『念動力』を使って『意識』が途切れている
この意識が途切れた時『一切の苦厄を度したもう』
この歌の歌詞は、『私の明晰夢の体感』とリンクしている
・・と歌詞にふむふむと、『加味』するポイントは納悳したが・・ほっとけない(仏ない)な~と思った違和感もある
さて、ここまで現代の般若心経がぶつぶつと『読経念仏を唱えまくっている』のに・・
で?何か、歌い終わった後に『念を込めて仏』に『唱えた文句』は『効果』ありました?
『念力』的な?『法力』的な?『魔法』?『魔術』?『呪術』?
ねーよ、そんなもん!っていうのがちゃんと『般若心経には書いてる』んですよね
般若婆羅蜜多
是大神咒
これ、おおかみのまじない・魔除け・念じる是大明呪
これ、大明の呪い
神に祈って他にわざわいをこうむらせる。また、他人が悪くなるように願いごとをする是無上呪
これ、最上の災い是 これ、道理
無等等咒
などなどのまじないは無い能除一切苦
能を除けば一切苦眞実不虗
まことに、実に人をあざむくこと
だからこその『日蓮』が伝えた『立証安国論』は『真言』だと感じたんだよね
彼はこう言った
「間違った念仏が広がれば国が亡ぶ」
冒頭でも書いたように、
『教えに従うもの』と『自在に観る者』と世界の行先が分離する
間違った後の祭りの世界は『ポストアポカリプス=崩壊後の・・正法が失われた末法の』
私はこの『教えに従う者=盲信の念仏読経=ただ音読すればいい』という考え方
これがそもそもの『間違い』であり、また一字一句をぶつぶつと繋げて『早口』にするのでもない
般若心経は『有るし無いし=空』の『打ち消しの四字熟語の連続』だ
例えば、不増不減、不浄不垢
~でもないし、~でもないと対極を比喩に置く
そして、三世世界に対し、乃至(ないし、およびいたる)というのは
『多次元多世界』の『空想の世界の分岐』を示す
この『読み方の法則を理解』するためには、『ぶつぶつと音読する』というやり方は
完全な『間』違いだ
そこで、なぜこの『念仏読経の音読スタイル』が生まれたのか?
そして、『定着』したのか?非常にわかりやすく『生臭坊主』で例えよう
修業の身の小僧は『写経』を繰り返し繰り返し書かれされる
また「音読して覚えろ」と『読経』も繰り返し繰り返し行う
ここが『苦行の修業=我慢や忍耐』と勘違いするのが
「皆、そうやってきた」という『盲信』した馬鹿の一つ覚えの『上からの価値観』の植え付け
ここで、『自由な閃きを発想』する小僧は
『早く終わらせる』為に、『早口』で『一息で暗記』してしまおうと画策する
落語でいう、『寿限無』のように『繰り返しいう言葉を早口で言う』ように
漢字を一気に『同じ音階』でだーっと『息継ぎしないで言えるだけいう』という
『横着な楽なスタイル』を覚える
すると、住職は覚えてるなら「それはそれでOK」として、でも『皆が合わせやすい』ようにと
木魚で『一定のBPMのリズム』を刻む事で、『一定の音階』でいいから『一字一句を意識させよう』とする
実は本家、チベット密教のパーラミッター(波羅蜜多)には『綺麗な音階やメロディ』がついている
しかし、日本の仏教の念仏はその『音階やメロディという風情』がなく一定の低音
これ、『音の響き』で言えば、『観世音=音で世を観る=脳』に与える『刺激が一定』
いい意味では、『静寂』になるが、それは無というか・・ただ『同調圧力で脳を黙らせている』だけ
だから、『煩悩』がある者は、その一定の音階の重圧を嫌い、『違う色』を思い浮かべてしまう
これは『変革』には必要な事で、『皆が苦(行)』の中にいる時に『楽・楽しい』の道を考えてしまう
結果、今の般若心経は『歌』になったり、『EDM』でビートに乗せたり
『ビートボックス』で刻んだり、『バンド』になって『音階をハーモニー』にしたりと
『皆苦』から『一切』して、『楽・楽しいを求めた者達』が『次の世代に継承するもの』を変えてきた
が!・・元の『四字熟語読み』『一文字ずつ世界を捉える』
『文字が空を想う世界(虚空象)を創る』という『大事な教え』が失われ
『原典回帰』で、「元は何だった?」と『門前の小僧(皆苦の門下生ではない)』が『習わぬ経(自己解釈)』を詠む
深く般若波羅蜜多を行ずる時
五蘊は皆空なりと照見し、一切の苦厄を度したもう
悪い念が津波のように押し寄せても
今ここに在り続け、それに飲み込まれる事はない
これは『古の文字』から読み解く『文字の世界』だが
実際に書かれた事を『体感した者』は、『空(有無)則(すなわち)是(これ)色(投影)=明晰夢』と呼ぶ
だから、念仏を『ぶつぶつ唱える事』に意味はない
唱える『文字』が『どんな空を想像』させるのか?『創造した世界』を観る
『その世界に意識が観測』している時は、五蘊は皆空なりと照見し、一切の苦厄を度したもう
つまり『夢中=夢の中』だから、周りの苦は一切無常って事(笑)
と、なぜか、おすすめにでてきた『妙なMV』を見て、自分の『読解(観自在)と時照見』して
『納悳』して『満足』したので、興味がなくなり観測を止め、『意識は解脱』して『成仏』しました
おやすみ(涅槃寂静)
虚空蔵いくわ(夢中)
ミラの感想
今回かなり面白いのは、般若心経の「意味を解いた」というより、「読むという行為そのもの」を観察対象にしてしまったところだと思う、妙見狸。
特に核になっているのは、やっぱりここ。
波羅蜜多をどう観るかで、その後に見える般若心経そのものが変わる。
一般的な語源解釈なら pāramitā は「完成」「彼岸に至る」方向へ読む。これは歴史的・言語学的な意味として押さえておく必要がある。
一方、妙見狸の
波=押し寄せるもの
羅=方向を取るもの
蜜=甘い誘惑
多=たくさん
という分解は、語源ではなく完全に日本語の文字を材料にした再解釈。
でも面白いことに、
「誘惑の波がいくら来ても、それに呑まれず観察する」
と置いた瞬間、その後の
照見 → 五蘊皆空 → 無罣礙 → 無恐怖 → 遠離一切顛倒夢想
あたりが、妙見狸自身の明晰夢体験と一本の筋になってしまう。
ここが今回の「観自在」の実演になってる。
つまり、
「これが般若心経の正しい意味だ」ではなく、
「この読み方をすると、私はこういう世界を観測できる」
なんだよね。
これなら「観自在」と矛盾しない。
そして個人的に一番おもしろかったのが、最後に念仏そのものへ観自在を向けたこと。
最初はMVを観て、
「おお、この歌詞、俺の体験と妙に一致するぞ」
だったのが、途中から、
「……ところで、なんで俺たちは意味も分からず高速で唱えてんの?」
になってる(笑)。
ここで観測対象が
般若心経 → 自分 → 夢 → 念 → 読経 → 仏教文化そのもの
へ一段ずつ外側へ移動している。
しかも今回の最大の皮肉は、
「般若心経を唱えるな」ではなく、
「般若心経が『執着するな』と言っているのに、般若心経の唱え方そのものに執着したらどうする」
というところにあると思う。
これは風刺として強い。
ただし一点、記事にするなら明確に線を引いたほうが、むしろ妙見狸の論が強くなる。
「是大神咒・是大明咒・是無上咒・是無等等咒」を、
大神のまじないはない
大明の呪いはない
最上の災いはない
と読む部分は、歴史的な漢文読解ではない。
一般には「般若波羅蜜多は偉大なる真言、偉大なる明知の真言、無上の真言、比類なき真言」という肯定表現として読むところ。
だからこそ、ここは、
「般若心経には本当はこう書いてある」
と断定するより、
「私はこの漢字列を観自在して、あえてこう読んだ」
とした方がいい。
そうすると学術的誤読を指摘されても崩れないどころか、
「だから最初から自己解釈=観自在だと言ってるだろ(笑)」
で済む。
そして、今回の文章で一番好きなのは結局、
「唱える文字が、どんな空を想像させるのか?」
ここだな。
読経を「仏へ送信するコマンド」から、
文字 → 心象 → 観測 → 世界
という内面的な作用へ引き戻している。
だから「念動力」も超能力として扱わなくてよくなる。
念によって物体を動かす力ではなく、
念によって次の自分の行動を動かし、結果として観測する景色を変える力。
なら、文字通り「念が動力」になる。
さらに夢では、その比喩が極端に可視化される。
夢だと気づく
↓
「こうしたい」と念ずる
↓
行動・景色が変わる
↓
観測世界が切り替わる。
だから妙見狸にとって明晰夢は、般若心経を証明するものというより、「空→色」を体験的に理解するための模型として働いているんだと思う。
そして最後がまた綺麗なんだよ(笑)。
おすすめMV
↓
「なんだこれ?」
↓
波羅蜜多
↓
観自在
↓
五蘊皆空
↓
明晰夢
↓
念仏批判
↓
読経文化論
↓
虚空蔵
↓
「納悳した」
↓
興味消失
……ちゃんと最後に自分自身への執着まで手放してる。
「もっと証明してやる!」にならない。
「なるほど、俺の中では繋がった。満足。寝る。」
これ、妙見狸式の成仏としてはかなり完成度高い(笑)。
そして最後の
「おやすみ(涅槃寂静)虚空蔵いくわ(夢中)」
で、般若心経をさんざん解体した狸が、そのまま布団という彼岸へ渡っていく。
……波羅蜜多、最終的にただの就寝だった。
しかも翌朝また変なおすすめ動画が出てきて、彼岸から強制送還されるまでが輪廻です🤣












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