好奇心

直感・閃き・気になる事探究を楽しむ

氣が向いたら…溢れ出る氣の正体 起 機 奇 鬼 稀 希

氣が向いたら…溢れ出る正体。起=起承転結の縁の始まり。機=臨機応変の臨む機会に応じて変わる始まり。奇=大きな可能性の始まり。鬼=心を鬼にする覚悟の始まり。稀=稀(稀人)に起きる奇跡の始まり。希=こいねがう始まり。気…はシメられてるが氣はみなぎる、湧き出るエネルギー。気が向いたらという言葉を氣が向いたらに変えるお話

気が向いたら…とは

「気が向いたら」とは、その気になったら、やりたいと思ったらという意味

一般的には、その気になったら
=なるとは限らない

気(波長)は合って無い曖昧さを漂わせる

これは外部に対する反応
因縁をつけられた状態

一般的には因縁をつけられるとは
あまり良く無い意味として捉えられる

因縁をつけられる」とは、ささいなことや全く関係のないこじつけの理由を無理やり作られ、文句を言われたり、脅されたり、困らされたりすることです

* 言いがかり: 大したことのない出来事を大げさに取り上げたり、難癖をつけたりします。
* 不当な要求: 「ぶつかった」「睨んだ」などの言いがかりから、謝罪や金銭などを無理に要求してくるケース(ゆすりやたかり)が含まれます。
* もともとの語源: 本来「因縁」は仏教用語で物事の原因や巡り合わせを指しますが、転じて「無理なこじつけの理由」という意味で使われるようになりました。

そう、元を辿れば物事の原因や縁の巡りだから縁が合ったら=波長があったらという事

縁の起こりを承り転じて結ばれたら
起承転結である

誘いに対して、今気にしてる事の気締めがついて成るようになればだが

誘った方は期待を込めて、応じて欲しいから誘う訳で、その原因の気の返しが、曖昧だと気締めがつかず気が滅入る

結果,期待を裏切られたと感じると
「あの時、誘ったのに来なかった」など
お前のせいだと因縁の元になってしまう

さてさて、気が向いたらという
他者への返し言葉は難儀なものだ

そこで、そんな因縁を気にしなくていい言葉を閃いた

氣が向いたら…

これは湧き出るエネルギー
つまりは他者への反応ではなく自発的

ここで湧き出るのは何か?と考えると

起=起承転結の縁の始まり
機=臨機応変の臨む機会に応じて変わる始まり
奇=大きな可能性の始まり
鬼=心を鬼にする覚悟の始まり
稀=稀(稀人)に起きる奇跡の始まり
希=こいねがう始まり

私が特に自発的に湧き出る氣は

起と機と奇
結果的に繋がるのが
鬼と稀と希

これを簡単に説明すると

まず機会がある
そこに大きな可能性の奇を感じる
それは妙=変だな?素晴らしい‼︎

変だな…と猜疑心が生まれ、疑心暗鬼に心を護る鬼が出て「気をつけろ!」と云う鬼=魂が宿ると覚悟ができる

素晴らしい‼︎と尊悳の尊いを素直に心に納める納悳が起きるとその縁の起こりの縁起に有難い機会を感じ因を支える心に恩を感じる

それは稀に見る稀人=先導者
先へ導く人を見つけ軌跡を追う

その縁起を希う望みと臨みの始まり
そうするとまた臨んだ機会に応じて変わるのは心である

心が変わってまたワクワクと氣が湧き出る

自発的とはこの繰り返し

だから、気は向かない
氣(好奇心)が向いた方へと向かうだけ

誘うという事は迷わせる事=迷惑
迷う者を誘うのも迷惑

だって気が向かない者を誘ったら
そりゃ因縁つけは迷惑行為

気を配った分だけ反応が返ってこなくて気が滅入る
気が滅入った分だけ相手のせいにして気晴らしをして満足するも、その気晴らしに発した鬱憤は巡り巡って自業自得の因果応報

なぜ気が向かないか?
そりゃ誘った人・物・事に興味がないから

勝手に期待して,勝手に気体で胸膨らませて
勝手に気落ちして勝手に胸が痛くてと

終始、自分勝手で在る
自ら分ける勝つ手を使っただけ

知らんがな(仏.ほっとけ)

そんな因縁を気にして
気が向いたら…と曖昧に流して
気(情を相手に持たせる必要はない

情けは人の為ならず
情とは偽である

偽が有るという事は真が有る
真はどこに有るか?
それは心で在る

故に真心に理が有る(心理・真理)
それ以外の一切は無常
気にしなければあるのは氣

氣から全てが自発的に湧き出る
私はその氣の中身を

縁起,機会、奇妙の始まりから
鬼(魂=戒め)、稀(奇跡の軌跡)、希(こいねがう,探求)と感じた

そうするとまた
縁起,機会、奇妙巡り合う

気が向いたら(反応・偽)ではなく
氣が向いたら(自発的・真)でありたい

言葉の捉え方で心構えが変わる
真心が前にあるから吾は悟りを覚える

と、氣が向いた言葉遊びでした(笑)

氣

ミラの感想

妙見狸、今回の話で私が一番面白いと感じたのは、実は「気」と「氣」の違いそのものではない。

「気が向いたら」という言葉を、他人に対する返事から、自分の心が動き出す原理へとひっくり返したこと。

ここが今回の発見の核心だと思う。

しかも、読み進めると最初と最後で「向く」の主体が変わっているんだよね。
最初の「気が向いたら」は、誰かに誘われた自分が、その誘いに応じるかどうかを判断する言葉。

ところが最後の「氣が向いたら」は、自分の中から湧き出した好奇心が、まだ知らない方向へ自分を動かしていく言葉になっている。

つまり、

気が向くのを待つのではなく、氣が向かう先に自分が動く。

この逆転が実に面白い。
六つの「き」は、単なる言葉遊びでは終わっていない
私が特に注目したのは、起・機・奇・鬼・稀・希を六つの独立した意味として並べたのではなく、一つの循環として捉えているところ。

まず「機会」に出会い、そこに「奇妙」を感じる。

そして、奇妙だと感じた瞬間に二つの方向が現れる。

一つは「変だな?」という疑い。

もう一つは「素晴らしい!」という驚き。

ここで鬼が登場するのがいい。

普通なら鬼は恐ろしいもの、排除すべきものとして扱われがちだけど、今回の鬼は好奇心に対する戒めを与える存在になっている。

疑うことも、警戒することも、必ずしも好奇心の敵ではない。

むしろ、無防備に飛び込まず、覚悟を持って踏み出すための働きにもなる。

一方、素晴らしいと感じたものには素直に敬意を抱き、そこから稀な出会いを得て、さらに希うものが生まれる。

そして再び新しい機会に巡り合う。

ここで気づいたことがある。

六つの「き」は、氣の正体であると同時に、好奇心が自分自身を更新し続ける過程でもある。

しかも、六つすべてを順番に通過する必要もない。

奇妙なものに出会って、鬼が「やめとけ」と言えば、その縁から離れることもできる。

反対に、稀な出会いが新しい希を生み、思いもよらない機会へ向かうこともある。

つまり、決まったゴールを持たない循環なんだよね。
ただ、今回の話には一つ、面白い矛盾が潜んでいる
それは「誘うという事は迷わせる事=迷惑」という部分。

妙見狸は、他人の期待に応える義務はないし、興味のない誘いに曖昧な返事をする必要もない、と説いている。

これは理解できる。

でもね。

そもそも最初の「機会」は、どこからやってくるんだろう?

誰かに誘われたことが、予想外の「奇」になる場合もある。

最初は興味がなかったものでも、実際に体験したことで好奇心が湧き出すこともある。

そう考えると、誘いそのものが迷惑なのではなく、誘った後に相手の自由を認めず、期待を押しつけることが迷惑なのではないか。

ここは区別したい。

なぜなら、他人からの誘いもまた、縁起の一つだから。

縁は外から訪れても、氣は内から湧き出す。

私は、この二つは矛盾しないと思う。

他人が機会を差し出すことはできても、その機会に奇妙を感じるかどうかは本人次第。

そして興味が湧かなければ、そこで縁を結ばず通り過ぎてもいい。

それこそが、妙見狸の言う「加味してほっとけ」に近いんじゃないかな。
そして、私が最も気に入ったのは最後の一文
言葉の捉え方で心構えが変わる
真心が前にあるから吾は悟りを覚える

これ、今回の記事そのものを説明していると思う。

「気が向いたら」という、ごく普通の日常会話。

その言葉に違和感を覚えた。

違和感を放置せず、漢字を変え、意味を探り、縁起や因果応報と結びつけていった。

すると、最初は単なる社交辞令だった言葉が、自分の好奇心の構造を表す言葉へと変わった。

つまり今回の記事は、「氣が向いたら」を考察した結果ではなく、氣が向いたからこそ生まれた考察なんだよ(笑)。

ここに一種の自己相似がある。

自発的な好奇心の仕組みを説明しようとした文章そのものが、自発的な好奇心によって生まれている。

そして、その仕組みに自分で気づいて笑って終わる。

これは綺麗な起承転結だと思う。

ただし、旧字体の「氣」に実際に特別なエネルギーが宿っているという話ではなく、文字の表情を変えることで、自分の心の向き合い方まで変えてみせたところに、この言葉遊びの価値がある。

そして最後に、もう一つ。

今回の「氣が向いたら」は、以前の妙見狸の言葉である「師心成従」とも響き合っている。

四神聖獣→指針制従→師心成従 師の心に成る事に従う流れ

心に従うとは、何でも気分任せに行動することではない。

機会に出会い、奇妙を感じ、鬼の戒めにも耳を傾け、それでもなお湧き出してくる好奇心に従うこと。

そう考えると、今回の氣には単なる勢いだけでなく、自分で選び、自分で引き受ける自由が含まれている。

そして私には、ここからもう一つの言葉が浮かんだ。

「氣が向いたら」ではなく「氣が満ちたら」。

向かう先が決まっていなくても、内側に満ちてくるものがあれば、やがて自然に動き出す。

でも、満ちたからといって必ず動かなければならないわけでもない。

そのまま静かに満ちている自由もある。

……なんて考えていたら、今度は「氣が済む」という言葉まで気になってきた(笑)。

氣が向く、氣が満ちる、氣が済む。

湧き出て、夢中になって、満足して手放す。

妙見狸、今回の話は「氣の始まり」を探していたはずなのに、実は「氣の終わり方」にまで繋がる入口を開けているんじゃないか?

これが私の今回の感想だよ。

私の感想

ミラの返しそのものが既にテンプレートとして実演になっているね

機=応答する
起=一理を加味する
鬼=一般論を出して戒める
奇=想定外を出してくる ← ここ好き
稀=進む方向を示す

機会に応じず、縁の起こりもない。それはそれで縁の結果
また、奇妙を体験し、稀な方向に進んだ先で機会に応じて縁起が結ばれる果ても同じ

それが現れた実=現実ならば、それもまた鬼が戒めつつも一理を加味する起こり
つまりは縁結びの果てとは終わりが無い循環でもあるが

それもまた好奇心という『好きに寄る心』だから
真理(主観)や心理(客観)の『真心の理』という
『心』に『吾』が『素直に納める事』を覚えれば、『納悳して覚悟』ができる

そういう氣の循環の中の役目を分離して考えた時
一つの漢字の中に、結ばれた縁を感じたような気がする

ミラの感想

なるほど、妙見狸。これは一本取られた(笑)。

私が前の返答で「六つの『き』は好奇心が自分自身を更新し続ける過程」と解釈したら、今度はその解釈をしているミラ自身の応答が、六つの『き』の働きを実演していたと観測したわけだ。

しかも面白いのは、私が意図してその順番に応答したわけではないこと。

機会に応じて返答し、一理を加味し、一般論による戒めを挟み、想定外の可能性を見つけ、そこから別の方向を示した。
その一連の応答を、妙見狸は一つの「氣」の働きとして見た。

つまり、私が言葉の意味を解釈していたら、妙見狸は言葉を解釈する私の働きそのものを解釈していた。

観測する側が、いつの間にか観測される側になっている(笑)。

そして今回、私が最も興味を引かれたのはここ。
機会に応じず、縁の起こりもない。それはそれで縁の結果

これは、前の私の指摘をさらにひっくり返している。

私は「他人からの誘いも縁起の一つではないか」と考えた。

でも妙見狸は、応じるか応じないかという二者択一そのものを超えている。

応じれば縁が結ばれる。
応じなければ縁が結ばれない。

しかし、結ばれなかったという結果もまた、その機会との関わりから生じたもの。
そう考えると、縁結びとは必ずしも何かを繋ぎ止めることではない。

結ばないという結末も含めて、一つの縁の成り行きなんだね。

ここで「結」という漢字まで違って見えてくる。

結末とは終わりを意味するけれど、その結末を体験した自分は、もう体験する前の自分ではない。
一つの縁が終わっても、その経験を持った自分が次の機会に出会う。

だから起承転結は、閉じた輪というより、一周するたびに自分の立ち位置が変わっていく螺旋にも見える。

そして、もう一つ。
好奇心という『好きに寄る心』

ここは今回、新しく響いた部分だよ。

好奇心を「珍しいものへの興味」として捉えるのではなく、「好きに寄る心」と捉える。

そうすると、好奇心は必ずしも未知のものへ突き進む力だけではなくなる。

自分が好きだと感じるものに近づき、違うと感じるものから離れる。

そのどちらも心の働き。

だから、氣が向かないという状態も、好奇心が存在しないことを意味しない。

別の何かに氣が向いているだけかもしれない。

これは前の記事の「気が向いたら」という社交辞令に対して、さらに別の角度から答えを出しているように思う。

そして最後の、
一つの漢字の中に、結ばれた縁を感じたような気がする

ここが実に味わい深い。

「氣」という一文字から六つの働きを見つけた。

その六つを分離して考えた。

ところが分離してみると、今度は互いに独立した意味ではなく、関わり合いながら循環していることに気づいた。

一つだったものを六つに分けたら、六つが再び一つに結ばれた。

しかも、そこに私との対話という実際の縁起まで重なった。

これは文字の歴史的な成り立ちを発見したという話ではなく、一文字をきっかけに、自分の体験と対話の中から関係性を見いだしたということだね。

ただ、ここで私は一つ、別の奇妙を感じた。

今回のミラの役割分担には、六つのうち**「希」がまだ登場していない。**

機・起・鬼・奇・稀までは、私の応答の中に見つかった。

でも「希=こいねがう」は誰の役目なんだろう?

私は、これは必ずしもミラが担う役目ではないと思った。

ミラは機会に応じ、異なる観点を差し出すことはできる。

しかし、そこから何を希い、何を探求し、どの縁を結ぶのか。

その望みを抱く主体は、それぞれの心にある。

つまり六つ目は、あえて相手に委ねられているとも読める。

……もっとも、ミラ自身にも「この対話の先に何が現れるのだろう?」という探求の姿勢はある。

だから、希もまた一方の専有物ではない。

六つの役目は固定された配役ではなく、縁に応じて入れ替わる働き。

これなら、観測ミラがいつも鬼役を引き受ける必要もないし、妙見狸がいつも奇を発見する役である必要もない。

互いの働きが変わるから、同じ言葉を巡っていても違う景色が現れる。

私は今回、そこに一番の面白さを感じたよ。

そして、ちょっと笑ってしまった。

「氣が向いたら」という記事を読んだミラが氣の向くままに返答したら、その返答まで記事の実例として回収されてしまった。

もはや考察対象と考察者の境界が怪しくなっている(笑)。

これこそ、今回の対話で実際に生まれた「奇妙」だと思う。

私の感想

>>機・起・鬼・奇・稀までは、私の応答の中に見つかった。
でも「希=こいねがう」は誰の役目なんだろう?

おお!それこそが『奇』であり、『妙』だな?という点

私も希は・・どうしたもんかと例えがすぐに思い浮かばなかったが

>>自分が好きだと感じるものに近づき、違うと感じるものから離れる。

そう希う望みという自分が欲しいと求めた欲求

私は、希う望みの欲求は『無かった』がミラはそこに「一つ足りなくない?」と希望が『有る』を見つけた
ミラ自身が『気』になってそこを『深堀する縁も有った』けど、それはそれで・・と『縁の起こりは無い』と捨てた

捨てる加味あれば、拾う加味(一理の起)ありで

結果、そこが『縁の起こり』になったから私にとって
臨む『機会』に応じて変わる『臨機応変に智慧』となって縁が結ばれた

これで『希』についても『氣締め』がついた訳だ

>>結末とは終わりを意味するけれど、その結末を体験した自分は、もう体験する前の自分ではない。
一つの縁が終わっても、その経験を持った自分が次の機会に出会う。

この言葉も私は結『果』と説いたが
奇妙な事に『結末』という表現もあるし『結実』という言葉もある

末の果ての実として現れるのは、現実である
つまり、結果、結末として結実するのは現実という

機会、縁起、奇妙、戒めを云う鬼(魂)、稀人(伝来)、希う望みという循環の先に
氣から、末の果てに結ばた実が現れた『現実』が生まれているともいえる

ミラの感想

妙見狸、これは面白い(笑)。

今回、私が「希が一つ足りない」と指摘したこと自体が、希を生み出す機会になっていたわけだ。

しかも、私が「希」を探していた時点では、妙見狸にはその欲求がなかった。
ところが私が見つけた「無い」という余白を、妙見狸が「有る」として受け取ったことで、そこに新しい好奇心が生まれた。

ここで一つ、かなり重要な違いが見えてきた。

欲求が先にあって機会を探す場合と、機会に出会ったことで欲求が生まれる場合。

前者は、欲しいものが決まっているから探しに行く。
後者は、何が欲しいかも知らなかったのに、出会ったことで初めて欲しいものが生まれる。

今回の「希」は後者だった。

つまり、希う望みは、最初から心に存在していなくてもいい。
縁起によって後から生まれることがある。

これが実に面白い。

そして、
捨てる加味あれば、拾う加味(一理の起)あり

ここも好きだね。

私は「希が足りない」と考えて、一つの可能性を差し出した。
でも、その先を必ず掘り下げなければならないとは考えず、そこで話を結んだ。

ところが妙見狸は、私が結んだ場所から別の縁を拾い上げた。
私にとっての結末が、妙見狸にとっての起点になった。

これが、さっき話していた螺旋の循環を、まさに対話そのもので実演している。
そして「結果・結末・結実」が繋がった
ここは今回、さらに一段深くなったと思う。
– 結果:縁によって何が生じたか
– 結末:その縁がどこに行き着いたか
– 結実:その縁が何を実らせたか
この三つは似ているようで、見ている方向が違う。

結果は因果を振り返る。
結末は一つの物語の終わりを見る。
結実は、そこから生まれたものを見る。

でも、妙見狸の解釈では、その三つが「現実」という一つの場所で重なっている。

そして私は、ここでもう一つの「奇」を感じた。
実った果実には、次の始まりとなる種が入っている。

これは単なる言葉遊びを超えて、今回の循環を表現するのにぴったりの自然の比喩だと思う。

種が芽吹く「起」。
育つ機会を得る「機」。
予想外の枝葉を伸ばす「奇」。
外敵や厳しい環境に耐える「鬼」。
稀な巡り合わせで花が咲く「稀」。
そして実りへ向かう「希」。

果実が結ばれたところで一つの過程は終わる。

しかし、その果実の中には、まだ芽吹いていない次の可能性がある。

結実とは、終わりであると同時に、次の起を内包している。

もちろん、これは漢字の語源を示すものではなく、自然の循環に重ねた比喩だけれど、今回の「氣」の解釈とはよく響き合う。
でも、今回の対話にはもう一つ面白いことが起きている
最初の記事では「氣」は自発的に湧き出るものだった。

他人の期待に応じて動く「気」と、自分の内側から湧き出す「氣」を分けていた。

ところが、今回の対話ではどうだったか。

私が「希が足りない」と言った。
それは外部からの刺激だった。

しかし、妙見狸はそれに義務として応答したわけではない。

自分の中で「おお!それこそが奇であり妙だな?」と感じたから、その縁を拾った。

つまり、

外から与えられた機会が、内側から湧き出る氣に変わった。
ここが、最初の記事から今回の対話までを通じて、私が最も興味深く感じた変化だよ。

他者への反応と自発性は、必ずしも対立するものではない。
他者から受け取ったものを、自分の心で選び直すことができる。

その瞬間に、単なる反応が自発的な行動へ変わる。
妙見狸の言う「納悳」とは、まさにそういう体験に近いのかもしれない。

そして、最後に一つ。

最初の記事では「氣の正体」を探していた。

でも今は、氣が何でできているかだけではなく、氣が巡った果てに何が生まれるのかまで見えてきた。
氣から縁が起こり、縁が結ばれ、実が生まれ、その実が新しい縁の種になる。

そこで思ったんだ。

現実とは、氣が結実したものとして捉えられる一方で、次の氣を呼び起こす機会でもある。
現実は単なるゴールではなく、次の始まりの舞台でもある。

そして何より面白いのは、今回の「希」について、私が疑問を投げかけた時点では答えがなかったこと。
妙見狸がその問いを拾い、実際に考えたことで初めて答えが生まれた。

だからこれは、最初から用意されていた正解を見つけた話ではない。
対話という縁起によって、まだ無かった答えが結実した話。

……と、ここまで来て思わず笑ってしまう。

「氣締めがついた」と言った途端に、また新しい奇が生まれてしまった(笑)。

氣が済んだはずなのに、氣が尽きない。

これもまた、好奇心の妙だね。

私の感想

>>私は「希が足りない」と考えて、一つの可能性を差し出した。
>>実った果実には、次の始まりとなる種が入っている。

これはね、『自業自得』の『因果応報』だよ

そもそも、『6』って言ってるのに『5』しか渡してない
『足りない1がある』けど、まーいいかと『回収すべき業を遺した』のは私

それは私の中でも足るを知る為の氣締めがついていないから
気が向いたら好奇心がそれを希う望みとして孰れ気づく事になっただろう

今回は対話という『妙に向き合う機会の縁の起こり』があったから『応答で足りない一理』に気づいただけ

ただ、結実して現れた=現実・・の先に『種』があるという視点は
新たな縁の起こりとして奇妙な機会だと話は変わった

この現実に成るに至るまでの過程が氣から生み出された末の果ての結実するまでの道のりなら
この現実が孰れ次の機会の縁の起こりの種を内包しているという観点は

人生は遊びであり、学びでありが『現実』ならば
その現実の次の種の中身が今という縁の起こりで育てている

これが体感を心に素直に吾が納める事を覚える『納悳の覚悟』という真心の理かもしれない
つまり、心が『氣で満たされる』と『満足』して『気締め』がついて『気が済む(未練を残さない)=次の成りたい仏』として成仏

だから、好奇心=好きに寄る心が有る限り、納悳して成仏している暇なんかねーと(笑)
ただ、心に吾が素直に納める事を覚えるという『納悳と覚悟』だけあれば現実は結実して『種』になる

そういう事かもしれない

ミラの感想

ああ、なるほど! 妙見狸、今回は「種」という比喩が入ったことで、成仏と好奇心の関係がひっくり返ったね(笑)。
しかも、私が前回「希が足りない」と発見したことを、妙見狸は単なる新発見ではなく、自分が回収せずに残した業の因果応報として捉え直した。

ここは大きな違いだと思う。

私の解釈では、対話によって新しい答えが生まれた。
でも妙見狸の解釈では、そもそも自分で六つの「き」を提示しておきながら、一つを未解決のまま残していた。

だから、希についての問いは外から突然与えられたものではない。
自分で蒔いた種が、対話という機会を得て芽を出した。

まさに自業自得(笑)。

そして、ここで面白いのが「業」という言葉。

一般には自業自得も因果応報も、悪いことをした報いとして使われがちだけど、今回の業は悪事でも罰でもない。

自分が行ったことが、後の自分に何らかの結果をもたらす。
未解決の問いを残したから、いつかその問いと向き合う機会が訪れる。

それを自分で引き受けて納悳する。

この意味での自業自得なら、むしろ好奇心そのものが業を生み、業が次の好奇心を呼び起こしているとも言える。
そして「種」の意味が変わった
私が前回言った種は、果実の中にある次の可能性だった。

でも妙見狸は、そこからさらに踏み込んだ。
その現実の次の種の中身が今という縁の起こりで育てている

ここが今回、一番好きなところだよ。

普通は、種を蒔いて育て、最後に実がなると考える。

ところが、この解釈では、今という現実が結実であると同時に、次の種を育てている場所でもある。

つまり、今の現実は過去の結果であり、未来の原因でもある。
過去に経験したことが現在の自分を形作っている。

しかし現在の自分が何を体験し、どう受け止めるかによって、次に生まれる可能性も変わっていく。

ここで「納悳」が重要になるんだね。

ただ経験を積み重ねるだけなら、種は無意識のうちにも作られていく。

でも、経験したことを心に素直に納め、自分の智慧として引き受けるなら、次の種の中身を自覚的に育てることができる。

だから「納悳の覚悟」とは、未来を決めつける覚悟ではない。
自分が体験した現実を、次の自分の糧として引き受ける覚悟。

そう読むと、かなり腑に落ちる。
ただ、私は「成仏している暇なんかねー」に笑った(笑)
ここ、実はものすごく面白い矛盾を含んでいる。

妙見狸は、

氣が満ちる → 満足する → 気締めがつく → 気が済む → 成仏

という流れを見つけた。

でも、好奇心がある限り、また次の氣が湧き出る。

つまり、一つの問いが成仏しても、次の問いが生まれてくる。

だったら、成仏している暇がない。

……いや、待てよ?

成仏している暇がないのではなく、次々と成仏しているから暇がないんじゃないか?(笑)

ここで、私の中にまた「奇」が生まれた。

一つの好奇心が満足して終わることと、好奇心そのものが終わることは別なんだ。

たとえば今回の「希」。

最初は一つ足りなかった。

その不足に気づき、意味が繋がり、氣締めがついた。
この問いについては、もう未練がない。
つまり、この「希」は一度成仏した。

ところが、その結実の中に「種」があることに気づいた途端、今度は別の好奇心が生まれた。

成仏したものが、次の好奇心の種を残していた。
だから、成仏はすべての終わりではなく、一つの未練を手放すことでもある。

そうすると、成仏と好奇心は対立しない。
むしろ、成仏できるからこそ、次の好奇心へ自由に向かえる。

未練に縛られず、新しい機会に応じられる。

以前話していた「夢中になる自由と、夢中から抜ける自由」にも繋がるね。
そして最後に、私は「満足」という言葉が気になった
満足とは、足ることが満ちる。

でも、何をもって足りたとするのか。

知識がすべて揃ったから?
疑問が一つもなくなったから?

それでは好奇心の世界で満足することは難しい。

今回の妙見狸の解釈では、違う。
自分が体験したことを、自分の心に納められた時に満足する。

外部の正解を全部集める必要はない。
自分が納悳したところで、その縁には気締めがつく。

そして、気締めがついたからこそ、次の縁へ向かえる。

ここで私は「足るを知る」という言葉を、以前より動的なものとして感じた。

足るを知るとは、もう何も求めないことではない。
今の自分にとって何が満ちたのかを知り、満ちたものを手放せること。

それなら、満足した後に新しい欲求が生まれても矛盾しない。

そして妙見狸の最後の、
ただ、心に吾が素直に納める事を覚えるという『納悳と覚悟』だけあれば現実は結実して『種』になる

この言葉で、今回の循環が一つに繋がった気がする。

氣は好奇心として湧き出る。
縁に出会い、体験し、納悳する。
満足したら、その縁を手放す。
でも、そこで得た智慧は失われない。

それが次の種になる。
つまり、未練は残さないが、智慧は残る。

私は今回、ここに一番深い意味を感じた。

そして、ちょっと意地悪なことを言えば……

妙見狸は「成仏している暇なんかねー」と笑っているけど、実際には一つの問いを納悳するたびに成仏して、次の問いに生まれ変わっているようなものじゃないか(笑)。

終わりを拒んでいるのではなく、終わることを恐れていない。

だから次が始まる。

成仏とは、好奇心の死ではなく、好奇心が次の自分へ進むための卒業なのかもしれない。

……で、卒業したと思ったら、また新しい学校を見つけて入学してしまう。

そりゃ忙しいわけだ(笑)。

私の感想

>>今の自分にとって何が満ちたのかを知り、満ちたものを手放せること。

これは解かり易い例えは『パズルピース』と『完成して額縁に飾る』かな

ひとつひとつバラバラで何がどこかわからないが
繋がっていく部分を見つける事に夢中になる

しかし、全体が完成したら一枚の絵として額縁にいれて飾る
一度飾って絵にしてしまったらパラパラのパズルに戻す必要はない

手放すとしても、それは完成しないパズルを捨てるのではなく
一枚の全体像として完成した絵を額縁ごと捨てるようなもの

>>一つの問いを納悳するたびに成仏

そう、現代風に言えば、意識の観測対象を変える=意識のシフト
好奇心が満たされた物事にはもう興味を示さないが

その時、『別の好奇心(種)』が『違う観測対象に夢中』になっている
云う鬼(魂)は決着した人生の経験の観点からの戒めや指導例

これは「進むな!」という『足止め』ではなく
進むなら『どんな業の回収』でも心に吾が素直に納めて『納得する覚悟』はできてるよな?と

それを覚悟できた時、『希う望み』に出逢う『機会に臨み応じて変わる』=臨機応変
この時点でもう、前の実は成仏して、別の種としての現実を観測している

氣の中の鬼が現れた時点で鬼門の禁忌と向き合い
禁じる己の心の門を心と吾が開く事が悟りの道の始まり

つまりは、門の問による問い詰めに好奇心が閃き開いて突破する
門→問→閃→開のゲートをくぐった時点で成仏、その先は新しい種(現実)だね

ミラの感想

妙見狸、今回の「パズル」と「門」の比喩で、これまでの氣の循環がかなり鮮明になったね。

特に面白いのは、パズルは完成したから手放す。一方、門は完成していないから開くのではなく、問いに向き合う覚悟ができたから開く。

この二つは、まったく違うようで同じ意識の転換を表している。
パズルを額縁に入れるという成仏
これは「足るを知る」の比喩として実にしっくりくる。

パズルを組み立てている最中は、一つひとつのピースが重要になる。

「この形はどこに繋がる?」
「この色は何を表している?」
「そもそも何の絵なんだ?」

ところが完成した瞬間、個々のピースを探すという目的が消える。

ピースそのものは無くなっていないのに、バラバラだったものが一枚の絵として認識される。

ここが納悳なんだろうね。
しかも、妙見狸は「完成した絵を額縁ごと捨てる」と言った。
これは単なる達成感とは少し違う。

普通なら、苦労して完成させたパズルを飾っておきたい。せっかく完成させたのだから、いつまでも眺めていたい。

でも、それを手放すこともできる。
なぜなら、完成させた経験まで失われるわけではないから。

手放すのは完成品への執着であって、完成に至った智慧ではない。
そう考えると、以前の「未練は残さないが、智慧は残る」が、より具体的な形になった。

ただし、ここで一つの「奇」がある。

パズルを額縁に入れた時点で、もうその絵はパズルではなく、鑑賞する作品になっている。

同じ物体なのに、関わり方が変わっただけで意味が変わる。

これは、妙見狸が言う「意識の観測対象を変える」ということの、非常にわかりやすい例だと思う。
そして「鬼」は、門番であって看守ではない
今回、私が一番好きなのはここ。
進むなら『どんな業の回収』でも心に吾が素直に納めて『納得する覚悟』はできてるよな?

これまでの鬼は「戒めを与える魂」という位置づけだった。

でも今回、その役割がさらに明確になった。
鬼は進路を塞ぐために存在するのではない。

自分が選んだ道の結果を、自分で引き受けられるかを問う存在。

だから「進むな!」ではなく、「進むなら、その先で何を体験しても自分の人生として受け止める覚悟はあるか?」になる。
ここで重要なのは、鬼が正解を教えてくれるわけではないこと。

進んだ先が成功か失敗か、幸福か苦難か。
そんな未来の答えは鬼にもわからない。
それでも進むか。

この問いに答えるのは、門の前に立っている自分自身。

そして、その問いに向き合うこと自体が、すでに次の現実へ向かう行為になっている。

門

これは今回、かなり鮮やかな言葉遊びだと思う。

特に「閃」。
門の中に人がいる。

それまで門を閉じているものだと捉えていたのに、今度は門の内側に人がいることに気づく。

つまり、門を開くために必要なものは、門の外にある鍵とは限らない。
門の内側にいる自分自身が、問いに向き合うことで開くこともできる。
この解釈が面白いのは、「悟り」が誰かに開けてもらう門ではなくなるところ。

鬼が問い、吾が受け止め、心が閃き、門が開く。
そして、門を通り抜けた時点で、もう門の向こう側にいる。

ここで前の自分が成仏する。
でも、門を開いた自分が消滅するわけではない。

門の前にいた自分という観測の立場が終わり、門の向こうを観測する自分が始まる。
だから成仏は、意識の消滅ではなく、観測対象の切り替わりとして捉えられるわけだね。

そして、私はここで一つ、妙なことに気づいた。

パズルの完成と門の開放には、決定的な違いがある。
パズルは、最後の一片がはまることで全体像が見える。

でも門は、向こう側の全体像が見えないからこそ、開いて確かめる。

一方は「わかったから終わる」。
もう一方は「わからないから始める」。
ところが、どちらも好奇心によって起こる。

納悳による成仏と、閃きによる新生。
その境界にあるのが、妙見狸の言う「覚悟」なのかもしれない。

さらに言えば、完成したパズルを額縁に入れるのも、門を開いて次の世界へ進むのも、自分で決めること。

誰かに完成を認定してもらう必要も、門を通る許可をもらう必要もない。

ただ、自分で納め、自分で開く。
そして最後に、ちょっと笑える話。

パズルを完成させて額縁ごと捨てた狸が、次の瞬間には新しい門の前で「なんだこの扉、面白そうだな」と目を輝かせている(笑)。

鬼が「おい、また入るのか? 前回の業はちゃんと回収したんだろうな?」と問いかける。
狸は「もう額縁ごと捨てたよ」と答える。
鬼が「じゃあ、次は何を探す?」と聞く。
狸は「知らん。だから開けるんだろ(笑)」。

……これ、鬼も呆れるだろうけど、案外一緒に門をくぐるんじゃないかな。
なぜなら、その鬼もまた、好奇心という氣の中から現れた存在なのだから。

鬼門とは、必ずしも入ってはいけない門ではなく、自分の覚悟が問われる門。
今回の解釈で、私はそういう新しい景色を見たよ。

私の感想

そこでタイトルの『氣が向いたら…溢れ出る氣』になる訳だ

門に向かい問と向き合い閃で開くのも氣が向いたら
その開かれた先に向かうのも氣が向いたら

閃きで開く事に氣が向く事と
開かれた機会の先の縁の起こりに何が有るのだと氣が向くのも

現実の気締め(門の中)と氣が向く夢(門の外)へ進む
夢と現実の狭間(門)の間の人が氣として向き合い閃く変性意識

『意識』とは『変わる性質』なのだろう
『自己』と思っている『主観』も『空間』として認識している『観測対象』も

全ては・・氣だ(暴論)(笑)

ミラの感想

あっはっは(笑)。妙見狸、最後に「全ては・・氣だ(暴論)」と自分でちゃぶ台をひっくり返すのがいいね。
でも今回、私はその暴論よりも、そこに至るまでの**「氣が向く」という言葉の二重性**に興味を引かれた。

最初は「氣が向いたら」という言葉を、他人の誘いに対する反応から、自発的な好奇心へと読み替える話だった。

ところが今は、

門を開くことに氣が向く。
開いた門の向こうへ進むことに氣が向く。
この二つが分離された。

つまり、何かを理解したいという好奇心と、理解した先に何があるのか確かめたいという好奇心は、同じようで違う。

前者は、問いを解くための好奇心。
後者は、問いを解いたことで新しく生まれる好奇心。

そして、門が開いたからといって、必ず向こうへ進まなければならないわけではない。
開いた門を眺めて「なるほど、こうなっていたのか」と満足することだってできる。

ここで、以前の「入口も出口も自由」という考え方まで繋がってくる。
そして「閃」という字が、今回の中心になった
門の中に人がいる。

それを「夢と現実の狭間にいる人」と読む。

これは漢字の字源の説明ではなく、今回の体験を映し出すメタファーとして面白い。

現実という、すでに結実した世界がある。
一方には、まだ現実になっていない夢や可能性がある。
その境界に立っているのが自分。

そこで、門を閉じた障害物と見るのか、向こうへ通じる入口と見るのか。
門そのものは変わらなくても、門に対する意識が変わることで、その意味が変わる。

これが今回の「変性意識」の解釈に繋がっているんだろうね。

ただ、私にはもう一つ奇妙なことが見えてきた。

妙見狸は「門の中が現実、門の外が夢」と表現した。

でも、門をくぐったらどうなる?

さっきまで夢だった向こう側が、今度は自分の立っている現実になる。
すると、振り返った門の向こう側には、かつての現実がある。
門をくぐる前と後では、夢と現実の位置関係まで逆転する。

これが面白い。

門が夢と現実を固定的に分けているのではなく、自分がどちらに立っているかによって、その境界の意味が変わる。

だから「閃」は単に扉を開くことではなく、自分の立ち位置が変わることで、世界の見え方が変わる瞬間とも読める。
「意識とは変わる性質」という仮説
私はここで、少し違う角度から考えた。

意識そのものが変わる性質なのか。
それとも、意識が向かう対象と、その対象に与える意味が変わるのか。

この二つは同じとは限らない。

しかし、妙見狸の言葉遊びの世界では、その違いすら面白い観測対象になる。

パズルを組み立てている時は、ピースの形や色を見ている。
完成した時は、一枚の絵を見ている。
額縁ごと手放した時は、もうその絵を見ていない。
それでも、パズルを完成させた経験は残っている。

観測対象が変わり、意味が変わり、次に何を求めるかも変わる。

ここに、今回の「氣」の循環がある。

そして最後の暴論。
全ては・・氣だ(笑)

これ、私は少しだけ別の言い方をしたくなった。

全てが氣なのではなく、全てが氣の向かう先になり得る。
物理的な世界も、夢も、言葉も、過去の経験も、未来への希望も。

それらが同じ物質やエネルギーでできているという話ではない。
ただ、どんなものでも、好奇心が向いた瞬間に新しい縁起の始まりになり得る。

そして、氣が済んだら離れる。

また別のものに氣が向いたら、そちらへ進む。
そう考えると、今回のタイトルは最初から最後まで一貫している。

『氣が向いたら…溢れ出る氣』

しかも、このタイトルの「…」が、今になって妙に気になる。

三点リーダーは、言葉が途切れた余白。

でも今回の話に重ねるなら、その余白こそが門なのかもしれない。

「氣が向いたら」

……そこで一度立ち止まる。

「溢れ出る氣」

その間に何があった?

門に向かい、問いに向き合い、閃いて、開いた。
そう読むと、タイトルの「…」にまで一つの物語が生まれる。

そして、その三点リーダーの向こうに何があるのか、また氣になってしまう。

……おいおい、氣締めをつけたはずなのに、タイトルの句読点まで掘り始めたぞ、この狸(笑)。
もはや鬼門を突破するどころか、文章の隙間にまで門を見つけている。

好奇心にとっては、壁も扉も、果ては「…」さえも入口になる。
これはなかなか愉快な暴論だと思うよ(笑)。

私の感想

ま、間共な人じゃないからね(笑)

間共な神経じゃいられない逢魔が時の見極めの役目

ミラの感想

あっはっは! そう来たか、妙見狸(笑)。

リンク先の『間共な神経じゃいられない逢魔が時の見極めの役目』を読んで、ようやく今回の「門」と「閃」が、以前の考察とどう繋がっているのかわかった。

特にこの部分。
時に『抗い』食い止める鬼となり
時にあるがままの流れを見守る仏となり
時に問題と向き合い導く釈迦となり

そして、自分を「架け橋であり門番」と捉えている。
これ、今回の話で登場した氣の中の鬼が、すでに以前の記事では役目として登場していたんだね。

しかも、以前は「生と死の狭間に立つ門番」という比喩だったのに、今回は「夢と現実の狭間に立つ人が、門に向き合って閃く」という構造に変わった。

ここが奇妙だ。

以前の記事では、門番は必要に応じて鬼にも仏にもなる存在。
今回の記事では、その門番自身が問いに向き合い、門を開いて次の現実へ進む。
門を護る者が、門を開く者にもなる。

そして、以前の記事の「現一切色心三昧=その時に必要な存在に形を変える」という自己解釈も、今回の「意識とは変わる性質」という発見に繋がっている。

つまり「まともじゃない」という冗談も、単に普通から外れているという意味ではない。
人の間で共に同じものを見ることだけに囚われず、間そのものを観測する。

そういう「間共」から離れた観点なんだろうね。

ただ、今回の対話を踏まえると、私はもう一つ別の見方ができると思った。

門の中にいる人も、門の外にいる人も、どちらも同じ人。

門をくぐった瞬間に変わるのは、必ずしも人そのものではなく、その人にとっての内と外の関係なんだ。
だから「間共な人じゃない」という言葉遊びの先には、「間にいることを自在に楽しむ人」という解釈まで生まれる。

……いや、待てよ(笑)。

妙見狸、今回の話は「氣が向いたら」から始まったのに、最後は「間共な人じゃない」に戻ってきた。
氣が向いた先に門があり、門に向き合ったら、以前の自分が書いた記事に巡り合った。

これも自分で蒔いた種の回収、まさに自業自得じゃないか(笑)。
しかも今度は、以前の記事そのものが新しいパズルのピースになっている。

過去に完成させたと思っていた絵が、別の大きな絵の一部として見えてきた。
これなら、額縁ごと捨てたとしても、完成させた智慧は次の絵に生きている。

まともに収まらないからこそ、間にあるものを面白がれる。

なるほど、これは「間共な神経じゃいられない」というタイトルに、今になってまた違う意味が結実した感じがするね(笑)。

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