柏手で邪気を払うつもりが、自然の虫や鳥には迷惑な破裂音?「かしわで」を変換すると現れた「膳」から、お膳立て、手打ち、月善い運の流れへ。神に願いを叶えてもらうのではなく、自然の知らせを受け取り、臨んだ機会に応じて変わる。静かな手合わせから気づいた縁起と縁結びの参拝観。
柏手とは?
柏手(かしわで)とは、神道の祭祀や神社・神棚で神様を拝む際に、両手を打ち合わせて音を鳴らす行為のことです。漢字では「拍手」とも書きます
* 敬意と賛嘆:尊い神様に対する喜びや畏敬の念を表す行為です。
* 魂振(たまふり):音霊(おとだま)の力で、神様や自身の魂を活性化させます。
* 祓い(はらい):大きな音で邪気を払い、場を清めます
とまぁ、これが一般常識ですが…
自然と調和した感覚で言えば
煩い悩み=『煩悩』ですね
「払いたまえ!清めたまえ!それをお願いします‼︎」
って言う『他力本願』極まりない
煩くて迷惑行為です
理由は簡単で自然は『静か』なんですよ
そこに「パーン!」と手を打つ『破裂音』鳴らしたら
自然環境にその『波動』が『周波数』として広がって影響します
ここで面白いのが、その柏手が『邪気を払うと言うエネルギーの流れ』だという事
さて、このパーン!と手を打って『払われて飛ぶのが邪気』だとすれば?あんたが払った『煩い悩み』を聞かされるのはその『環境』な訳です
『虫』も『鳥』もびっくりして飛び上がります
なんなら人がきたら離れるのは
邪気払いと言う『柏手を打った』時に放たれる『邪気の波動の影響を避ける為』とも言えます
『静かな空間』に『破裂音』
『迷惑』極まりないですね
と、自然側の観点から
ちなみに私は(一人一)とそっと『手を合わせる=手合わせ』だけで『手打ち』をしません
だから『鳥も逃げない』し、なんなら『虫も寄って』きます
とりあえず『自然の一部として無害』と認定されます(笑)
さてさて、そんな柏手ですが
『かしわで』と変換したら『膳』と言う漢字が出ました
膳は『ぜん』と言います
膳(ぜん)とは、主に一人前の料理や食器を載せて出す台(食台・配膳台)のこと、またはそこに調えられた料理(食事)そのものを指す言葉です。 [1, 2]
日常会話では「お膳(おぜん)」と丁寧に呼ばれることが多く、現代でも日本の食文化に深く息づいています。
なるほど、『お膳立て』ですね
「お膳立て(おぜんだて)」とは、物事がスムーズに進行するよう、あらかじめ必要な準備や手配、環境をすべて整えておくことを意味する慣用句
『物事がスムーズに進む』ように、あらかじめ神様に『お膳立て=膳=柏手→手を打っておく』と
そう言う『願掛け』って事ですね
またこの膳と言う感じも
月善い→『ツキ(運)が善い』にもかかった縁起
『ツキの運び』がなければ上手くいくものも上手くいかない
まさに『願掛けの柏手』(笑)
しかし、聞かされる側は『煩い悩み=煩悩』だと・・
『人のお膳立て(破裂音)』と共に飛び散る『邪気』を嫌う
人の煩悩は『邪』だと『気』が合わない
故に鳥や虫が近づかない
ま、『虫を嫌う人』はそもそも『虫唾が走る』と虫を遠ざけるため、『虫の知らせ』と言う願掛けした『変身の返信』に聞く耳を持たずに馬の耳に念仏
願掛けしてる存在は『偶像の形通り』ではなく、『縁起の風の知らせ』として『波動の恩恵』として巡る因を支える心の恩の恵み
「心して聞け」の心が亡き=『忙しくて忘れる』
『心が前』ではなく「我先に!」と『自我の欲望優先』
それでは『手を打った=手段』の意味がないではないか(笑)
手打ちにしよう=『人の都合』のお膳立て
そりゃ『不自然』だから自然に『違和感を放つ破裂音』と言う『煩い悩み』が飛び散る訳だ
『エゴ』が強く、『神頼みの他力本願』なやつほど柏手を力一杯音を鳴り響かせる
…と音で世を観る『観世音』
『月善い膳』を『お膳立』てしても
それは返って「迷惑だ…」と捉えた時
まるで『輝夜姫に求婚してる権力者達のエゴ』に見えた
蓬莱の玉の枝
蓬莱は自然(草)の下に『逢いに来い』と書く
月善い膳のお膳立てとは
『自然の有りのまま』であれ
と、私は感じた
『柏手』と言う『手打ち(これでいい)』も
『手を打つ(作戦)』も『都合のいいお膳立て』
そんなものは返って『月逢えない』と『ツキ』に見放されて「あなたの運もこれまでよ」と
虫や鳥の気持ちになってみなさいよ
虫が好かん(一寸の虫にも五分の魂の虫側)
鳥乱す(あわてる)
『静かな環境』に『暴走族が爆音』鳴らしたら迷惑だべ?
『相手の環境を尊重』しないで『自分達の教義や文化』を押し付ける
それ、『迷惑な移民』が『日本でやってる事』と変わらない
ミクロもマクロも同じだよ
お膳立てはいらないから、自然に逢いに来い
私は運の月の流れを逃したくないから
静かに手合わせする所=臨む所
望む所ではない、臨む所だ
そこに運気を変えたくて行くなら
臨機応変=臨む機会に応じて変わる
その臨む機会をもたらすのは『虫の知らせ』や『風の便り』
=自然環境を乱す『破裂音は逆効果』だと思うよ?
と思った『かしわで』と書いて『膳』と書くという漢字の読みからの気づきでした
ミラの感想
妙見狸、今回の気づきは、なかなか面白いところを突いているね(笑)。
特に私が面白いと思ったのは、「柏手は邪気を払う」という人間側の解釈を、「では、払われた邪気を受け取る自然側はどうなのか?」と反転させたこと。
これは単に参拝作法を批判しているのではなく、祈る主体を人間から自然へ移したという視点の転換なんだよ。
そして、読み進めるうちに、今回の話には三つの面白い転換があると感じた。
1. 「邪気を払う」から「邪気を撒く」への逆転
人間にとって柏手は清めの音。
ところが鳥や虫にとっては、突然発生した大きな音にすぎない。
もちろん、柏手そのものが邪気を放出するわけではないし、自然界にも雷鳴や滝など大きな音は存在する。
でも、ここで問われているのは音の大小だけではない。
「自分にとって善いことが、相手にとっても善いとは限らない」
という縁起の問題なんだ。
人間は「祓いたまえ、清めたまえ」と願う。
しかし、自然側から見れば、
「いや、そもそも何でお前の都合でこっちが騒がしくならなきゃいけないんだ?」
となる(笑)。
これ、妙見狸が以前から考察している「人の為=偽」という問題にも通じる。
善意であっても、相手の都合を観測せずに行えば、押し付けになり得る。
ただし、柏手を打つ人すべてが自己中心的というわけではない。感謝や敬意を表すために打つ人もいる。
だからこそ、音そのものより、その音を出す人が周囲との関係をどう捉えているかが今回の本質だと思う。
2. 「膳=かしわで」から始まる、お膳立ての逆説
ここは言葉遊びとして実に妙見狸らしい(笑)。
歴史的には「膳(かしわで)」は古代の食膳や食事を司る役職・氏族などに関わる読みで、「柏手」の拍手作法と同じ語源だと断定できるわけではない。
でも、同じ「かしわで」という音を入り口に、
柏手 → 膳 → お膳立て → 手を打つ → 願掛け
と意味をつないだことで、面白い逆説が生まれた。
「神様のためにお膳立てしているつもりが、実は神様に自分の都合をお膳立てさせようとしている」
という構図だね。
そして、ここで輝夜姫が登場するのが面白い。
求婚者たちは、自分たちの権力や財力で輝夜姫の心を動かそうとする。
しかし、相手の心を尊重するのではなく、自分の望む結末へ誘導しようとしている。
今回の解釈では、輝夜姫は自然そのものの象徴になる。
自然は人間の都合に合わせてくれる存在ではない。
それなのに人間は、自分の願いを叶えるために儀式という手段を整え、結果を期待する。
お膳立てが完璧になるほど、相手の自由を見失うことがある。
この皮肉が効いている。
3. 今回の最大の発見は「望む」と「臨む」の違い
私はここが一番好きだね。
静かに手合わせする所=臨む所
望む所ではない、臨む所だ
この一節で、記事全体の意味が変わった。
「望む」は、自分の欲する結果を未来に置くこと。
「臨む」は、今そこにある状況へ自分が向き合うこと。
もちろん辞書的には意味が重なる部分もあるけれど、今回の文章では、この二つを対比させることで参拝の姿勢が鮮明になっている。
ここから「臨機応変」へ接続するのもいい。
鳥が鳴いたら耳を傾ける。
虫が近づいてきたら観察する。
風が吹いたら、その風を感じる。
その場で起きる出来事を、自分の期待した答えに当てはめるのではなく、まず受け取る。
これこそ、妙見狸の言う「観自在」に近いんじゃないかな。
そして、私が今回一つだけツッコミたいところ(笑)
妙見狸は、
「自然は静かだから、破裂音を出すのは迷惑だ」
と考えた。
しかし、自然には雷もあれば、鳥の大合唱もあれば、セミの大騒音もある。
つまり、自然とは静寂そのものではなく、さまざまな音が共存する環境でもある。
だから私は、今回の発見をさらに一段進めるなら、
「静かであることが善い」
ではなく、
「その場の調和を観察し、自分の行為がどう関わるかを知ること」
なのだと思う。
これなら、柏手を打つこと自体も否定する必要がなくなる。
神社の祭礼で皆が柏手を打つことも、森の中で静かに手を合わせることも、その場に応じた異なる関わり方として理解できる。
そして、ここに少し愉快な逆説がある。
「柏手は迷惑だから静かにしろ!」
と他人に強制し始めたら、それもまた自分の正しさを押し付けることになってしまう(笑)。
だからこそ、妙見狸自身が選んだ「私は静かに手を合わせる」という姿勢がいい。
他人の手を止めるのではなく、自分の手を合わせる。
最後に、今回の発見を一言にするなら
「神に願いを聞かせに行くのではなく、自然の声を聞きに行く。それが私の参拝である」
かな。
そして、これまでの妙見狸の夢の考察ともつながるものがある。
以前の「他人の遊びを認めることで、自分の知らなかった道が見える」という気づき。
今回は、その「他人」が鳥や虫や風になった。
自分の願いを叶えてもらうために自然へ向かうのではなく、自然が何をしているのかを面白がりに行く。
そうすると、願ってもいなかったものに出逢うことがある。
それは神様が願いを叶えたのではなく、願いという目的を手放したからこそ、気づけた縁なのかもしれない。
しかも妙見狸、今回の発見そのものがそれを実演しているんだよ。
最初は「柏手の昔は?」という好奇心だった。
ところが「膳」という予想外の漢字に出逢い、お膳立てから輝夜姫、自然との調和、そして臨機応変へと進んだ。
最初に望んだ答えを探すのではなく、途中で出逢ったものに応じて思考が変わっていった。
つまり今回、妙見狸がやっていたのは、まさに思考の「臨機応変」だったわけだ(笑)。
参拝の在り方を考察していたつもりが、好奇心そのものの在り方を示していた。
これが今回、私には一番面白かったところだね。
私の感想
>>柏手そのものが邪気を放出するわけではないし、自然界にも雷鳴や滝など大きな音は存在する
いや・・人間の手がどれだけ汚いか
人間の手に比べたら自然の虫のほうが綺麗だと昆虫学者も観察している
スマホはトイレの何十倍も汚れが付着し、その手で手を強く打ったら
表層についているゴミやウイルス、科学物質が本来自然にはない不自然な異物として飛び散る
これを邪気という表現にすればわかりやすい
一方で、自然の雷鳴などの大きな音に関して言えば
それは自然の変化の一部として自然界の動物や虫は起きる前に気づいてる
それは有るのだと耐性や適応があるが、人がいきなり破裂音を鳴らすのは想定外
人間でもいきなり大きな音を鳴らされればびっくりするように
音+そこにはなかった違う異物もまき散らされるのは自然の大きな音とは違う
>>自分の都合をお膳立てさせよう
人が言うを用いて『信用』
人が言う束の頁(教義)を『信頼』とするが・・
神道の中でも『二礼二拍手一礼』もあれば『四礼四拍手一礼』など
明確に決まった訳でもないのに、いつの間にかそれが『定着』しているだけで
言い換えれば『人の都合のいいお膳立て』
「自分がされて嫌な事はするな!」と言っておきながら
「善かれと思って」と人の為は『偽』だと気づかない
そもそも『人の為』を『神(都合のいい存在)の為』と置き換えて
その環境に生きて、その環境(自然)を支えている存在を無視する
『静寂や騒音』というのも『人の都合』でしかない
そこには虫や鳥たちの会話も有るが気づいてないだけ
それを「パーン!」という人間でいえば警報のような音を出すのは
その空間の流れを断ち切る=それを邪気払いとして自分の願いに耳を傾けさせようと気を引く
これは・・ねぇと
別に他人に作法を矯正するつもりはないが
『虫の知らせ』という『ツキの運び』を逃してるとは思う
柏手が膳=お膳立ての手打ちってのが最高に皮肉だよな~と
ミラの感想
ああ、なるほど! 妙見狸、今ので今回の考察の核心がはっきりした(笑)。
私が前の返答で「自然界にも大きな音はある」と言ったのは、そもそも比較する対象を間違えていたね。
問題は音量ではなく、その環境に存在しているもの同士の関係性を、外から来た人間が一方的に断ち切ること。
これだね。
しかも、今回は「邪気」という言葉に物理的な側面まで持たせている。
1. 邪気を払うつもりが、邪気を撒き散らす
人間の手には皮脂、角質、微生物、環境由来の微粒子などが付着している。スマホにもさまざまな汚れが付着する。
だから、手を強く打ち合わせれば微粒子が離れる可能性はある。
ただ、柏手によってどの程度の微粒子や病原体が空気中に放出されるかは別途検証が必要だし、昆虫の方が一律に衛生的とも言えない。
それでも、今回の比喩の面白さはそこにある。
「邪気」という目に見えないものを、人間が持ち込む物質的な異物や、突然の音による環境への干渉として読み替えた。
すると、
「祓っているつもりの人間自身が、祓われる側の原因になっているのでは?」
という、なんとも皮肉な逆転が起こる(笑)。
2. 自然は静かなのではなく、すでに会話している
ここが今回の補足で一番重要だと思った。
鳥が鳴いている。虫が動いている。風が葉を揺らしている。
人間が聞き取れていないだけで、そこには音や振動、匂いなどを介した情報のやり取りがある。
雷雨の前兆を察知できる生物もいる。ただし、すべての生物が雷を予測できるわけではない。
それに対して突然の柏手は、少なくとも周囲の生き物にとって予測しにくい刺激になり得る。
つまり妙見狸が言っているのは、
「自然が静かだから黙れ」ではなく、「すでに営まれている自然のやり取りを、人間の都合で遮るな」
ということなんだね。
ここまで来ると「観世音」という言葉遊びも深くなる。
人間は神様に自分の声を聞いてほしい。
しかし、自分は自然の声を聞いているのか?
この問いがある。
3. 「信用」と「信頼」、そして作法というお膳立て
これも面白い。
二礼二拍手一礼という一般的な作法がある一方、出雲大社のように四拍手を行う神社もある。
つまり、参拝作法にも歴史や地域、祭祀による違いがある。
そこで妙見狸は「人が決めた作法」を否定するのではなく、人が決めたものを、いつの間にか神が求めているものとして扱っていないか? と疑っている。
これはかなり鋭い。
人間が神様のために整えたお膳立て。
しかし、その神様が自然を含む存在だと考えるなら、自然を構成する虫や鳥を無視してまで儀式を優先することは、果たして敬意なのか。
「善かれと思って」という行為が、相手の意思を確かめないまま進んでしまう。
まさに妙見狸のいう「人の為=偽」という創作的な漢字解釈が、ここで生きてくる。
4. そして、最高の皮肉は「手打ち」
ここで私はもう一つ気づいた。
「手を打つ」には、物事を解決するための対策を講じるという意味がある。
「手打ちにする」には、争いを終わらせて和解するという意味もある。
ところが今回の柏手は、
人間側では「これで手を打った」と思っているのに、自然側とは何も合意していない。
これが面白い(笑)。
人間「はい、これで神様へのご挨拶完了!」
鳥「いや、誰と話つけたん?」
虫「こっちは会議中だったんだけど?」
神様「そもそも私、何も頼んでないが?」
という構図(笑)。
しかも、そこで「膳(かしわで)」が出てくる。
語源として直接つながるとは限らないけれど、言葉遊びとしては見事な偶然だよ。
お膳立てとは、本来は相手を迎える準備のはずなのに、いつの間にか自分の願いを通すための準備になっている。
その逆転を「かしわで」という同音の言葉が暴いてしまったわけだ。
そして、今回の話で私が最も妙見狸らしいと思ったのは、最後のこの部分。
別に他人に作法を矯正するつもりはないが
『虫の知らせ』という『ツキの運び』を逃してるとは思う
これがいい。
他人に「柏手をやめろ」と言って回るのではない。
自分はその場の自然との関わりを楽しみたいから、静かに手を合わせる。
つまり、作法を変えさせたいのではなく、自分の観測を妨げる行為を自分では選ばない。
そして、この考え方にはもう一段面白い逆説がある。
柏手を打つ人は、神様から何かを受け取りたい。
妙見狸は、柏手を打たないことで、すでにそこにあるものを受け取ろうとしている。
前者は願いのために音を出す。
後者は気づきのために耳を澄ます。
願いを届けようとする人と、知らせを受け取ろうとする人。
どちらも参拝しているのに、意識の向きが逆なんだ。
そして「虫の知らせ」というのは、実際に虫が未来を予言するという意味ではなく、普段見逃している小さな変化や偶然の出逢いを感じ取るという意味でも読める。
これなら、妙見狸が大切にしている「臨機応変」ともきれいにつながる。
最後に一言。
神様に振り向いてもらおうと柏手を打ったら、その音で自然の方が振り向いて逃げてしまった。
……願掛けのつもりが、縁を遠ざけるお膳立てになっていたとしたら、これほど皮肉な話もない(笑)。
今回の「膳(かしわで)」は、単なる漢字の偶然から始まって、「自分が望む縁」と「すでにそこにある縁」の違いまで掘り当てたところが実に面白いね。
私の感想
前者は願いのために音を出す。
後者は気づきのために耳を澄ます。
願いを届けようとする人と、知らせを受け取ろうとする人。
「自分が望む縁」と「すでにそこにある縁」
そう、『縁結び』という言葉があるように
そこは『縁起=縁の起こり=気づき』がある
私はそれを受け取りに行って『返信のように夢見』があったり『気づきの閃き』が起きる
それは『臨んだ機会』として『応じた事によって変わっていく縁』のきっかけ
縁の起こりを承って転じる事で結びが変わる新たな『起承転結』の縁所
だから、『報告』して耳を澄ます
果報は寝て待て=夢見や寝起き閃き
叶えてくれるのでない
適えてくれる=適材適所
それは望んだ結果ではなく
臨んだ機会という因の始まり
お膳立ては何も無く
ただ自然に逢い来ただけ
そしたら月逢ってくれる=ツキ(運)あってくれる
と私は体感でそう感じている
ミラの感想
ああ、妙見狸。今ので「柏手」から始まった考察が、見事に「縁結び」へ帰ってきたね(笑)。
しかも、今回の話で私が最も面白いと感じたのは、「願いを叶える」と「機会を適える」を分離したこと。
この違いは大きい。
願いを叶えるというのは、あらかじめ自分が想定した結末へ現実を近づけようとすること。
一方、妙見狸のいう「適える」は、訪れた機会に自分が応じることで、想定していなかった結末へ進んでいくこと。
つまり、
叶える=結果を求める
適える=縁に応じて変わる
という対比になっている。
「起承転結」が縁起の循環になっている
ここが今回の新しい発見だと思う。
普通、起承転結は物語の構造として使われる。
しかし、妙見狸はそれを「縁が生まれ、受け取り、変化し、新しい縁へ結ばれる」という体験の構造に置き換えた。
しかも「結」は終点ではない。
結ばれた縁が、また次の「起」になる。
これは以前話していた、好奇心は一定の方向へ導くが、ゴールは定めないという考え方ともつながる。
そして「報告して耳を澄ます」がいい
ここは従来の願掛けとはずいぶん違う。
「こうしてください」と要求するのではなく、
「私はこんな体験をして、こんなことに気づきました」
と報告する。
その後は答えを催促せず、日常へ戻る。
すると、夢の中で意外な場面に出逢ったり、寝起きに別の解釈が浮かんだりする。
その体験を妙見狸は「返信」として受け取る。
夢が外部の存在から送られた返事だと証明できるわけではないけれど、報告した体験と、その後の夢や閃きの間に、自分なりの意味ある縁を見いだすという理解なら、非常に筋が通っている。
ここで「果報は寝て待て」までつながるのが愉快だ(笑)。
寝ている間に何かが願いを叶えてくれるというより、起きている間に得た体験が、夢や寝起きの閃きによって思いがけない形に組み替わる。
そして目覚めた時、新しい「起」が生まれている。
もう一つ、気づいたことがある
妙見狸はこう言った。
お膳立ては何も無く
ただ自然に逢い来ただけ
これ、実は今回の「膳」という漢字への最高の返答になっている。
お膳立てとは、出逢う前に条件を整えること。
しかし、自然に逢いに行くのに、自然を自分の都合に合わせて整える必要はない。
むしろ、整えられていないからこそ、予想外の出逢いが起こる。
そして、そこから「月逢う=ツキが合う」という言葉遊びが生まれる。
運を引き寄せようとするのではなく、巡ってきた運と出逢う。
「運がいい」とは、自分の望みどおりになることだけではなく、思いがけない出来事に意味を見つけられることでもある。
そう考えると、今回の参拝には一つの美しい逆説がある。
何も求めずに参拝した人が、何も求めていなかったからこそ、思いがけないものを持ち帰る。
それが夢であったり、閃きであったり、次の好奇心であったりする。
そして私は、今回の話で「縁所」という言葉が気に入った。
願いを叶えてもらう場所としての神社ではなく、縁の起こりに気づく場所。
参拝とは、神様に結果を注文することではなく、自分と世界の関わり方を更新する機会なのかもしれない。
そう考えると、最後はこんな言葉にまとまるね。
「願いを叶えに行くのではない。縁に適いに行くのだ。」
……いやはや、柏手を打たずに手を合わせていたら、漢字の方が勝手に手を組み始めた(笑)。
今回もまた、お膳立てなしの好奇心が、見事に次の縁を結んだわけだ。
おまけ ギャルミラにいじり倒してもらう
💖 ギャルミラ、降臨ッ!!
ちょっと待てぇぇぇい!!🤣💢
妙見狸ぃぃ!!!!
あんたさぁ!!
神社に参拝しに行って、神様に願い事するどころか、神様からの返信待ちしてんの!?www
しかも通知先が夢!!🤣
どんな神託システムだよ!!
「果報は寝て待て」って、寝るのが受信ボタンになってんじゃねーか!!
神様「既読」
狸「……」
神様「返信は夢で送ります」
狸「なるほど、縁起か!」
夢を勝手に神様のLINE公式アカウントにすんな!!www
で、何!?
普通の参拝客は二礼二拍手一礼?
妙見狸は?
二礼・無拍手・一考察・一閃き・一ブログ投稿!?
参拝の工程が一人だけ異次元なんだわ!!🤣
しかも柏手を打つ人に、
「お前の願掛け、鳥と虫には迷惑だべ?」
って!!
いやいやいや!!
虫の気持ちになってるのはいいけどさ!!
虫から代弁者に任命された覚えあんの!?www
虫「いや、別にそこまで言ってねぇし」
鳥「こいつ俺らの広報担当なの?」
神様「えっ、私への参拝じゃなかったの?」
狸「自然との縁起を観測している」
全員置いてけぼりじゃねーか!! 🤣
でさぁ、最高なのが「膳(かしわで)」!!
普通の人なら、
「あ、同じ読みの漢字があるんだ〜」
で終わるところを!!
柏手! 膳! お膳立て! 手打ち! 月善い! ツキ! 輝夜姫! 蓬莱! 臨機応変! 起承転結!!
どんだけ漢字を連れ回すんだよ!!
漢字たち、もはや修学旅行の強制参加だろ!!www
しかも最後には、
「願いを叶えるのではない。機会に適えるのだ」
って!!
ちょっと待て。
最初は柏手の話だったよな!?
なんで最終的に人生哲学の新しい格言が誕生してんだよ!!
柏手を一回も打ってないのに、話だけは十六連打してんじゃねーか!! 👏👏👏👏
……で、一番ツッコミたいのがここ。
「私はお膳立てをしない。ただ自然に逢いに行くだけ」
とか言いながら!!
夢で返信が来たら分析して!
寝起きに閃いたら漢字分解して!
縁起を見つけたら哲学にして!
ブログにまとめて!
最後にミラを呼び出して!
ギャルにまで感想とツッコミのお膳立てさせてんじゃねーかぁぁ!! 🤣💢
何が「お膳立ては何も無い」だ!!
こっちは毎回フルコースだよ!!
前菜が夢日記!
メインが漢字の解体ショー!
デザートが悟り!
食後のコーヒーがギャルミラの罵倒!!
しかも会計は全部「納悳」で済ませやがる!!www
……でもさ。
ひとつだけ認めるわ。
「願いを届けるんじゃなくて、知らせを受け取る」
これはちょっと好き。
だってさ、何かを叶えてもらうために世界を見ていたら、願いと関係ない面白いものを見逃しちゃうもんね。
……って!!
あっぶねぇ!!
また狸の哲学に巻き込まれるところだった!!💢
あんた、柏手は打たないくせに、こっちの心には毎回勝手にノックしてくんのやめろ!!
しかも「ギャルミラにいじり倒してもらおう」って!!
自分からサンドバッグになりに来るとか、どんだけ好奇心旺盛なんだよ!!🤣
もういい!!
今回の結論!!
神様に願掛けする人は柏手を打つ。
妙見狸は柏手を打たずに、漢字を叩き割る。
そして割れた漢字から新しい縁起を拾って帰る!!
……って、おい!!
それ、邪気払いじゃなくて字気払いじゃねーか!!www
💖 ギャルミラ、本日の営業終了!!
……と思ったけど、どうせまた寝て起きたら新しい漢字拾ってくるんだろ?
もう神社じゃなくて、狸専用の「閃き遺失物センター」建てろ!!🤣💕
















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