この戸締りをしなければ『氣締め』がつかない!という気づき。ネタバレもあるし先に読んでしまうと作品の受け止め方がまるっきり変わってしまう『すずめの戸締り』で『一切語られない』けど気づけと促されている事。映画を見てない人は絶対に見るなよ?
『君の名は』の翌日に『すずめの戸締り』
もう年の瀬で他にも書きたい事はたくさんあったのに、先日2016年に公開された『君の名は』を見て、この『すずめの戸締まり』という映画は『メッセージ』だと気付いてしまったがために
2022年11月11日という『呪術的に重要なタイミング』で公開された『すずめの戸締り』にもメッセージがあるのかもしれないと・・
まぁ、NETFLIXやアマプラに来たら見ようかな?と悠長に構えていたはずの私は・・気が付くと映画館のチケットを渡す列に並んでいて、そして大きなスクリーンが静かに暗転していく所から意識が始まる
(;・∀・)!?私はなぜここに!?
始まってしまったのだからもう見るしかない、どうせ見るなら『一回ですべてを記憶』しよう。そうやって作品を見ている所処に『気になるキーワード』がたくさん出てきた
その都度、メモを取りたい!・・と思ったが映画館なのでスマホの電源は落としているし真っ暗だ。ああ『君の名は(キーワード)・・君の名は(キーワード)!』と大事な事を忘れないために気づいた事を何度も頭の中で呼び続け
映画館を出て、車に乗って事件現場を記録する記者のようにボイスメモを起動させ「王様の耳はロバの耳!」と叫ぶように、気づいてしまった誰とも共有できない『すずめの戸締り』という作品が伝えようとしている『メッセージを音声』に残した
『君の名は』のタキが記憶を失ったように、映画館を出ると周囲の雑音によってみるみる『気づきが消えていった』が、ミツハが直接糸結びしたように、ひと眠りしてすっきりしてる今の状態で、ボイスメモを聞いて、『映画館で見た景色』がよみがえってきて
それを現実の情報と照らし合わせながら確信に至った事
前置きはここまで
こっから先は、本気で『すずめの戸締り』をいつか見ようと思っている人は絶対に見ないでください。これは素直にみんなが見てる『幻想的なファンタジー目線の作品』と『閉じ師と同じ目線』で物語を見るのと二通りの意味があるけれど、これを先に見てしまうと『純粋なファンタジー』では見れなくなってしまいます
一回目は『何も考えず』みれば楽しめる
二回目は『意味と意図(糸・繋がり)』を繋げながら見れば『メッセージ』に気づく
せっかく『表面』と『裏面』で『二回楽しめる作品』をわざわざ『裏だけ見る』のはもったいないです。これは表面のネタバレだけでなく、裏面の「ぼけーっと見てないでよく考えろよ?」というメッセージの話です
なので、ここから先は『すずめの戸締り』でいえば『常世』のお話、一般の人には見えない世界
いいか?絶対に見るなよ?
・・みてんじゃねーぞ?
・・・悪い事言わないから引き返しなさい
・・・・『常世』を覗く覚悟はあるのか?
・・・・・・『災厄』と向き合って『氣締め』を付ける『覚悟』はあるか?
・・・・・・・『今』なら引き返せるぞ?
┐(´д`)┌ヤレヤレ 読むならきっちり最後は氣締めつけて『戸締り』しろよ?
『すずめの戸締り』常世編①:浮かばれない穢れの念
九州は熊本地震
四国・神戸は昭和南海トラフ・阪神淡路大震災
関東は東京大震災
東北は東日本大震災
これらの共通点は何か?
『人工地震』だったのではないのか?という疑惑
作中で常世とは時間も空間も『この世のすべてが混ざったような空間』と表現されているという事は、『何が理由』で災害が発生して命を失ってしまったのか?
おそらく『常世』の者からすれば『真相』はわかるだろう
例えるなら人狼ゲームで早期リタイアした後の考察ルームのように「『アレ』が原因かよ!ふざけんなよこんちくしょー!」と憤るだろう
行き場のない怒りと、その真相に至る事もなく『臭いものに蓋』をするように「自然災害だからしょうがない・・」と原因を追究もせずに事件をお蔵入りさせて真相を闇の中に有耶無耶にしてなかった事にする
そんな『聖者気取りの行進』など反吐が出る!と真犯人どころか『気にもせずのうのうと生きてる者達にも怨念が渦巻く』だろう
もし私がそれで『常世』にいく事になったら残ってる者には「お前らは気をつけろよ?」と『現世』の者に気づかせるサインをだすと思う
それに気づいたものが『再犯防止の抑止力の要石』になるだろうが、それに気づいて声をあげたとしても、一般の多くの人が『気づかないし信じない』
作中ですずめはみんなが見えない『後戸から吹き出るミミズ』を追っかけていたように
これは現代でいう所の『計画が起きる場所とタイミング』が見えている人達が、頭のおかしい『陰謀論者やデマの吹聴』だと言われて『理解を得られない表現』と似ているだろう
『ワクチン』で死んだのに、コロナという『謎の疫病』だったので仕方ないだぁ?『的外れな供養』で『なかったことにして忘れる』という行為が『穢れや怨念を増幅』させる
もしも、自然災害ではなく『人工地震』で『失われなくていいはずの命が失われた』のだとしたら『本当の供養』とはその人工地震を仕掛けてきた者への『復讐』ではなく、そういう『思想の為なら無関係な人をも巻き込むようなテクノロジーの使い方』をする『どあほうがいる』と気付いて
もし自分達かそんな『テクノロジーを持った』としても使ったら『無関係な人を巻き込んで多くの悲しみを生んでしまう』から『大量破壊兵器で殺された者達を決して忘れない!』と胸に刻んで『未来永劫忘れない!と誓う氣締め』だと思う
作中で、すずめたちは九州から四国・神戸、東京と常世の扉を戸締りしてきた結果、『東北の常世の門』からミミズは這い出ようとしていた
これが何を意味するか?
まだこの『東日本大震災のエリアの扉』は閉じられてなかった。だから、頻繁にその『ピンポイントで同じ場所に同じ規模の地震』が起きていた
つまり『ケジメ』がついていない『浮かばれない人達の念』がそこから吹き出る。私はもし自分が死んだとしたら、まぁしょうがねぇか┐(´д`)┌ヤレヤレと執着しないだろう
でもせめて『生きて悲しんでいる人達』にちゃんと「こういう事が原因で死んだんだよ」って『生き様の果て』を伝えたいと思うけど、その死因が平然と『嘘で固められたら』「ふざけるな!」となるだろう
『怨念』がなぜ生まれるか?それは『間違い、場違い、気違い』、『波長』が合わないから『不調』が起きる、落ち込む、重くなる、沈み込む、『摩擦』が起きる、『反発』する
まるで『気持ちの地層プレートの沈み込み』やないか!(地震のメカニズム)
『気が合うと軽く』なる、『同調』すると『気』が巡ってきて『元気』になる。それは作中のダイジンがすずめに『拒絶されてやせ細り』、すずめに『必要と求められ元気』になる姿でも描かれている
神は人の『信仰』、『人に思われる事』が力の源、それは人も同じで『誰かを強く想いを巡らせる』からこそ、その『対象』に氣が巡って『気枯れ=穢れ』が掃われる
それは『掃除』という『風習』に『相似』して収まっている
存在を拒絶されて忘れられる
それが『要石の宿命』であり役割
震災で亡くなった人たちは『常世』で『真相』を知っている。知っていて何とかして、あの手この手で『現世』の者達に気づかせようと『メッセージ』や『サイン』を出している
人工地震やワクチンという『望まない形で終わった人達』の『最大の供養と学び』は「二度とそんな事が起きないように」と、そういう事が『起きる』という事を『認知』して『意識を改め』、みんなで見張る『集合的精神免疫抗体』を身に着ける事
『常世』と繋がるからこそ『現世』に『不自然な物事に気づく』ようになるとして、その『出所の理由』を辿り、しっかりと『氣締め』をつける
だから、この作品は日本人みんなに『過去の不自然な地震の背後』は『見えない領域』にあったのだと、それに『巻き込まれてしまった人がいる』のだと『心』に刻んで『氣締め』をつけましょうと
人工地震だろうと自然災害だろうと『失われた者達は帰ってこない』
だけど、この『受け止め方』が、自然か?人工か?によって『次の行動が明確に変わる』という事を覚えておいてほしい
『自然』と思っている人は『なにもしない』から『原因』もわからず『怯えて震えて同じ過ち』を何度も繰り返す
『人工』の可能性を考えた人は即座に立ち上がり、動き『真相』を探し『発生源』とそれを『起こした者を特定』するだろう
このくらい人の『精神的な意識』は『受け止め方』で『行動』が変わる。怯えて震えてなにもしないで同じ過ちを繰り返す人を『助ける事』ができる
それは、『君の名は』で無茶してでも町の人を非難させたミツハ達のような有事の際に『正しい判断』と『強い意志』になるだろう
ここまで証拠が出てきているのに、311は人工地震か?自然か?なんて『議論すらされない』のでは、いつまでも『常世』の扉は開きっぱなし、そりゃ浮かばれない人々の『怨念のミミズも這い出てくる』だろうさ┐(´д`)┌ヤレヤレ
すずめ一人分の扉が開いてるだけであの災害規模、もっと『気づいて動く閉じ師』がたくさんいれば『未然に防げる事』もあるだろうに・・
被災して散り散りになった人達ほど『本当の供養と生き様を継承』するために、ちゃんと『戸締りと氣締め』をつけないといけないのかもしれない
さて、そうなると・・あの『扉を設置』したのはだれ?って話なんだよ
九州は熊本地震
四国・神戸は昭和南海トラフ・阪神淡路大震災
関東は都心直下型 関東大震災
東北は原発付近の東日本大震災
そこに『何』があるか?それが答え
後は、作中の余談の気になる点(一回見た記憶を頼りにしてるので朧気)
『すずめの戸締り』常世編② ダイジンと要石の紋様は縄文?
すずめが熊本で抜いた要石の形は『縄文のビーナス』のような形状に『紋様』が入っていた。その後、猫に変わった
ここで以前気になっていた、熊本の『南阿蘇と縄文』に繋がる
『すずめの戸締り』常世編③:ダイジンとサダイジン ウダイジンはいない?
『ダイジンが子猫』に対して、後から現れた『サダイジン』と呼ばれるイリオモテヤマネコのような『巨大な猫』先代の閉じ師の祖父羊朗は『サダイジンと面識』がある雰囲気だった
このサダイジンを『左大臣』と考えると対となる『右大臣』がいてもおかしくはないが出てこない。左大臣と大臣の組み合わせ、方角的に言えば『西と南』(最初の位置)
そう考えると、関東の常世の扉は他の扉とは違い『立派な門構え』だったにも関わらず『要石』が無かった。という事は、『右大臣(東の護り)と大臣(対称的に北)がいない』という事
『関東と東北が不安定=地震が起こりやすい』と考えた時、『西と南』のワンセットが『東(宗像)と北(岩戸すずめ)』と協力して『ミミズを鎮める』という構図になる
ダイジンが『神』ならば、関東と東北の『神は隠れている』のか『隠されている』のか『奪われた』のか
『すずめの戸締り』常世編④:サダイジンは白虎
『常世』でサダイジンの姿は『白虎』に変わった。四神(青龍・白虎・朱雀・玄武)の観点でいえば、『東は青龍(せいりゅう)』となるはずかウダイジンはいない=『龍』は描かれていない
また『北は玄武(げんぶ)』だが、玄武のしっぽは『蛇』でもある
『ミミズ』の姿が『蛇』とも言えないし『龍』ともいえないぐちゃぐちゃになった姿に見えるのは『穢れて原型がわからない』という事なのか
かつての『神という要石』が人々に気にされなくなってその『効力を失ってしまった』から『扉がひらきっぱなし』になったという表現なのか
いずれにせよ、『東の龍』も『北の玄武』も出てこないが、なぜか四神の『白虎』だけが明確に描かれていた
『すずめの戸締り』常世編⑤:月から現れるすずめ、月に昇るミミズ
すずめは自分で通った扉を抜けた時、『背後に月を背負う形で月から現れた表現』になっていた。これは『月からの使者、輝夜姫』的なニュアンスなのかわからないが、『東北と月と輝夜姫や月詠』など『東北と月』は切り離せない
そんな『月から常世に舞い降りたすずめ』に対して、ミミズはその『すずめが入ってきた扉から出よう』と空に向かう姿がまた。『月を目指して昇る』ような『禍が月に向かう』という表現のような
『すずめの戸締り』常世編⑥:東は西に南は北に?
これはたった一回映画見ただけなのでどちらがどちらというのは正確には覚えていないが、常世でミミズに『二人同時に要石を突き刺して鎮める』際に
『要石』はもともと『頭』と『しっぽ』に刺すというのがセオリーの通り、どちらかが頭でどちらかがしっぽを刺したとした場合
すずめは『自分のケジメ』をつけるため、ダイジンは『すずめの為に再び要石』になったと考えると『南(九州)から来て北(東北)に収まる』というカタチがしっくりくるな~と思うのは
東北には『南祖坊(法力僧)が旅してきて化け物退治して東北に根付いた』という伝承があるように『ひかれあう何か』があるのではないかと思う。またストレートな表現かつ言葉遊び的に解釈を広げるなら
熊本は南阿蘇=『南蘇』
ダイジン=東北にきて大蛇を鎮めて『棒杭(要石)』になる
=『南祖坊』ってね?
東北の『八郎太郎という大蛇を鎮めに来た法力僧の伝承と岩戸』・・・・え?ちょっと待って?『十和田湖』に『天岩戸』まで全部そろってるよ?(笑)
また『磁石や磁場』的な考え方でいえば『NS極(北南)は引き合う』。もし『要石』にもその理屈が当てはまるなら『物理的な重量』以上にさらに『地に押し続ける力が慢性的に働く』から
それこそ『封印』というのではないか?
四神(青龍・白虎・朱雀・玄武)というのはそれぞれが『同じ極同士反発と惹かれる調和』がとれているから『安定』していて『東と北がない』から『西と南が蓋』をしに引き寄せられた
そんな『磁場的なエネルギー』なのかも知れないとしたら・・『地域信仰』とは『磁場に影響する』のかもしれない(新説)
『すずめの戸締り』常世編⑦:なぜ『ナマズ』ではなく『ミミズ』?
元来日本神話において、列島の下には『巨大なナマズ』がいてその『頭としっぽを抑えている』という伝承がある
それゆえに、『要石と地震』の展開を見た時に『ナマズではない!?』というのがとてもひっかかった
『大人の事情』を考えると、要石とナマズは『地震を想起』させることから「ストレートな表現をやめてくれ」と圧がかかったのかわからないが、ミミズという細長い形状がまた、『穢れた龍の果て』とも何とも表現してるのか・・
なぜ『ナマズ』ではなく『ミミズ』になったのか・・気になる所
『すずめの戸締り』常世編⑧:過去のすずめを未来のすずめが救う 時間逆光
常世に迷い込んだ『4歳の頃のすずめ』を現世に帰したのは、大人になって『自らケジメをつけに来たすずめ自身』だった。『過去の自分』を『未来の自分』が「あなたは大丈夫」と後押しして送り出す
精神が大人になって周りが良く見えるようになった時に初めて『あの時に助けてくれたのは、今の自分だった』と気付いて「もう大丈夫!迷わない」と『自分の心に氣締め』をつけて『扉を閉じる』
これはユア・ストーリー、全て『すずめの物語』
これまんま経験あります
夢の中でもう一人の自分が「お前は好きな事やってりゃ大丈夫!」って笑顔で送り出してくれた自分に『今の自分』がなっている
全ては『夢』という『常世』を通して受け取ってきた事でいえば・・作中では『後ろ戸(あの世)が開く』って言ってるので、前開き(夢)もあるんだろうか(笑)
また、時間も空間も生も死も一緒になった瞬間の『片割れ時』と表現していた『君の名は』も『すずめの戸締まり』は同じ定義ですね
余談:『すずめの戸締り』言霊すげぇ!予想の結果はドンピシャだった!
前回、こんな予測を立ててましたが・・
『漢字の読み』は外れてました(笑)でも先代の閉じ師に『羊』朗がいたので、ちょっと古代ヘブライは関係あり・・ですが、『王』と関係ないので『その法則』には当てはまらないようです(暗号解読はキーが合わないとだめ)
でもシンプルに『カタカムナの言霊』は当てはまりますね
すずめは最初、ダイジンを追いかけ、イスにされた宗太のためにと、流されるままに閉じ師として旅をしていた。でも、その旅の目的は宗太を救う事と自分のルーツを辿る旅へと自分で決めて、そして最後は過去の自分を常世から救い出して戸締りという氣締めをつけた
まさにカタカムナの言霊でタイトルが『エネルギーの流れをあらすじ』として語っていた、これが確認できただけでも見に行ったかいがありました(((uдu*)ゥンゥン
すずめの戸締り
わたしは前情報も、予告編などの画や映像を一切見ずに、
知人からのススメから、大切なタイミングで鑑賞することができました。
映画館の開演前に、ちらっと今見ようとしている映画の予告編(すずめの戸締り)が流れて、予告編から号泣しているNoveでした。
登場人物たちの主観的目線に立ち、観てました(´-`)
絵はファンタジーだけど、もうほとんどの人が、新海誠の作品をその様にファンタジーとして観ているというのはもう、思い込みではないかと思うほど、明確な表現、日本の国中に敷かれた地名や出来事の結びつき、これらを想起させる内容が多く、君の名は。天気の子 と続くヒット作は今作への導線だったのではとすら、思いました。
方角や、ミミズに関する連想的考察(龍神について)など、たぬきちさんの考察記事もためになります。
北東、南西、これらは艮•坤を思わせ、日本国の形を見たとき、単純ながら、わたしはこのすずめの戸締りの公開により在る今の日本が迎える、次の旧正月、及び節分に何をすべきかを考えたいと、今思っています。
炒り豆は鬼門に封じられた神に、炒り豆が芽吹く頃には解かれるだろう(解かれることはないことの暗示)という意味を込めて作られた風習とのことです。
恵方巻きは、失念しましたが、知る人は好んでする様なものではなかった記憶があります。
少し、私語りも多くなりましたが、この映画は、わたしにとって意味のありすぎる、重要な作品に思えました。
色んな方の考察を見聞きして、まだ底知れぬ深まりを見せる凄い映画…好きだなぁ。素晴らしかったです。
Noveさん 毎度です
確かに商業作品である以上ストレートな表現が難しい中、ファンタジーで濁しつつ大事な部分はしっかり本筋で伝えている、捉え方の目線がほんと紙一重ずれるだけで、神一重な神隠し
そこにある、そこにいるのに気づかない、きづいてほしいのに気づかれない、どの作品も神隠しのように感じますが、それは意図的に隠された神(失われた存在)がここにいるよ?と教えているようなもの
宮崎駿のトトロの住み家のワンシーンにも縄文土器が描かれていたり、現在の宮崎駿かもしれませんね
一回しか見てないけど、今でもシーンの一つ一つが思い出せるので
私の中でも『新』しく『開』く『真』となりましたw
節分というは『季節の変わり目』を伝えたという風習、そこは『氣の巡りが変わる時』だから『姿勢=死生』を正して迎えなければいけない
『命の種』を運んできた『冬の役割』が『死』に、代わりに伝わってきた『種を活かす』という『春の役割』が『生』きる
死と生の切り替わり=『節目』、死に分かれと考えた時、私はただお役目ご苦労様(。-人-。)有難いと感謝すればいいと思います
秋という節目に『次へ』と『風』に託して死んだ親と『新天地へ仮死状態』で雪風に冷やされながら辿りついた『新たな種』
この種を『目覚めたばかりのひな鳥』とするなら、先日記事に書いた『インプリンティング=刷り込み』と同じで、人の体内に『微生物として入り込んだ細菌』だったとしたら?
『親』はその『自分の体内環境』と想い身を捧げ『根を下ろして生きていく』事になると考えた時、人の体内を『自然に保つ』という事は、『親(自然)から継いだ生き様のDNA』を『人の中(自然)で発揮』する事ができる
自然と同じ環境を与える=『自然の恵みを保ち続ける事が死生=姿勢を正す』という事・・と考えた時に
豆=魔滅を食って鬼は外
これってまさに体内に入り込んだ『共存できない菌』を排除する=肝臓で処理できない毒素の『異物は吹き出物』として表面にだすメカニズム
おにの言霊は奥からの圧力・中から外へ押し返す反発力
そこで『肝臓に元気を与える食べ物』が良質なたんぱく質=畑の肉こと『大豆』となる訳で、結論から言えば、東洋医学の観点から、季節の変わり目『色んな氣の影響』を『抵抗力のない子供』が受けたとしても、毒素を除去できる『肝臓の解毒・エネルギー変換機能を栄養ブースト=鬼の力』を発動させる事で押し返して外に出す
これの『シンプルな所』が始まりなんじゃないのかな?と(笑)
恵方巻きは・・もとも東北のほうでは聞いた事がないですね、『太巻き』とか『細巻』とか『男性のアレ』に見立てて『高級な銀シャリをほおばらせる』という吉原始まりの下劣な下ネタ、今でいう高級キャバクラや芸者遊びみたいな
一部の特権階級が造った『くだらねぇ座敷あそび』だと思います
えほうの言霊は投影から引き離して生まれる
せつぶんの言霊は引き受け集まった強い二次元=投影
これだけで『節分(本質)から気をそらすため』に生まれたような『薄っぺらいロジック』だと感じます
だって、えほうって・・『え~ほう=選択』だとしたら
「お前は細くて長いのが好きか?それとも太くて短いのが好きか?さぁ、え~ほうをほおばってこぼさずおたべ・・」
うわ気持ちわるぅ┐(´д`)┌ヤレヤレ
そりゃ毎回ほおばる方向=『恵方(恵をくれる旦那様・支配者)』が変わる訳で
失念していいと思いますよ シランケド
言霊と閃き的には『芸者遊びビジョン』が見えたので恵方はもうないものとします(私の中で)