突然気になった娑婆の空気は美味い?刑期を終えた囚人が世間への気持ちを表明する時に使う言葉が・・なぜだろう?と思ったら釈迦関連だったお話
娑婆とは
苦しみに満ちた耐え忍ぶべき世界。釈迦(しゃか)が教化(きょうけ)する世界
人間の住む世界。この世。また、俗人の世の中。俗世間
ふむ・・これは『訳詞如来の妙見狸』のお仕事か
私は先日、この記事をまとめる中で、『獄卒=地獄を卒業した者』という表現を使った
その直後に『娑婆』という言葉が頭に浮かび、その言葉から連想したのが
「ふ~(-。-)y-゜゜゜娑婆の空気は美味いな」
「お勤めご苦労様です_(._.)_」
のような任侠映画のヤクザ者が『刑期を終えてたばこを一服するシーン』だった
つまり、それまでは『違う空気の中』にいたという事
重く、臭く、『居心地が悪い所』からの解放
それが監獄という『監視された地獄』だったのだとしたら、『今の私』はその『意識の観測世界』から出てきた『新たな意識』という事になる
その出てきた娑婆が仏教では
苦しみに満ちた耐え忍ぶべき世界。釈迦(しゃか)が教化(きょうけ)する世界
・・どこまで行っても『仮想空間』に閉じ込めたいようだが(笑)
私にとっての釈迦とは
釈=問題を解決する
迦=巡り合う
=『問題に巡り合い解決する』という
『有難い世界』=難が有るから学びに感謝する
『問題』をみつけて、「何故だろう?」と『真理』を読み解く『探求が楽しめる世界』
そりゃ、「ふ~(-。-)y-゜゜゜娑婆の空気は美味いな」となる
そんな私にとっては『居心地がいい空気』である娑婆
この漢字はなぜ、『娑婆』なんだ?どうして、人間の住む世界。この世。また、俗人の世の中。俗世間は
『女が支えている』と書くのか?
これは一説には江戸時代の『吉原』が関係しているという見方を知った
「娑婆」は仏教用語で“忍耐”を意味する言葉で、江戸時代の遊郭では吉原を「極楽」に見立て、吉原の外を「娑婆」と呼んでいたそうです。ですが、嫌々遊郭で働く女郎からしたら「娑婆(外の世界)こそ自由の世界」と意味が転身し、牢獄の外など自由な世界を「娑婆」と呼ぶようになりました。
これは『娑婆駄馬』という『ミュージカルの名の由来』でもあるらしい
抑圧されてるところから飛び出していく、みんなに馴染まなきゃみたいな風潮をぶち壊していく。娑婆駄馬とは? 「己の存在証明をブッ立てろ」をモットーに、古典文学をもとに日本の既成楽曲に合わせて踊る歌わない和製ジュークボックスミュージカル
実に面白い!と感じるのが漢字の探求だ
娑婆は分解すると『沙、波、女』と書く
沙とは非常に粒の細かい石(の集まり)
波は流れ、流れ者
吉原は『売られてきた流れ者』、『童子』の頃から『女の芸』を仕込む
この時点では、まだ『ダイヤモンドの原石』のような『粒の細かい石』の集まり
それに女という芸を仕込むのは支える『女達=女郎』
この沙と波で『沙波(しゃぼ)』といい、それ自体にも意味があるようで
「沙波(しゃぼ)」は「裟婆(しゃば)」の省略形で、「この世」「現世」
『沙波(しゃぼ)』がこの世・現世=『若い』とするならば
『裟婆(しゃば)』はその成れの果て=『老いた』=『この世・現世の外』
『沙波を支える女』になって女の芸を仕込む=『教育者』になる
ま、『吉原』という『この世の夢から覚めた者』とでもいおうか
麻雀用語には、『シャボ待ち』という言葉がある
何かの牌を2枚ずつ持っていて、片方が面子になると和了できる待ち方です
「どっちでもいいや!」という『待ち』の姿勢は
吉原で『沙波(しゃぼ=高い手)でも裟婆(しゃば=安い手)』でもいい
という事だったら、『麻雀用語』も掘り下げれば面白い事が・・って
『麻』と『雀』かよ!?Σ(゚Д゚)どっちも『古代日本に重要漢字』だった!!
特に私は、『雀=スクナのふるとり(隹)』に縁がある
しかし、私は麻雀という遊びは本腰入れて取り組んだ事が無いから『役や用語』をよく知らない・・
いや待て・・もしかしたら
麻雀、やくざ、娑婆、沙波(しゃぼ=高い手)待ち
『監獄の禁欲を出た男』が最初に求めるのは『女』
・・なるほど、『釈迦の教化した世界』は『学び』が多いな
こうして人は『堕ちる地獄巡りを繰り返す』と言っているのか(笑)
賭け事(ギャンブル、ビジネス)
暴力(やくざ、反社、傷つける)
女(誘惑、堕落、甘やかし)
沙波・娑婆(しゃぼ=高い手)待ち(どっちでも女ならいい)
『女の色香』に惑わされる=『シャバ(世間)の空気』は美味い
ふーむ、これは、かつて『地上を見守る役目だったネフィリム(200人の天使)』が『地上の女』を求めて『堕落』して、好き放題やったとも一致する
抑圧されてるところから飛び出していく、みんなに馴染まなきゃみたいな風潮をぶち壊していく
「己の存在証明をブッ立てろ」
ふむ・・言いえて妙だが、『駄馬』である
荷物を運ぶ馬
下等の馬
天上から『荷物(力・知恵)』を運ぶ馬
天下取りの「己の存在証明をブッ立てろ」の『女を求めた種馬』である
馬と言えば、『鼻先人参』
好物を届くことのない視界の先に置いて、継続してやる気を喚起する
『目先の欲(インセンティブ報酬)』で動かされる『愚か者』
『愚者は経験から学ぶ』のだから
釈迦が教科した世界=『シャバへと降りる』のである
誘惑や問題だらけの『有難い世界=地獄』へ
なるほど・・『言葉』とはよくできている『高度なプログラム』であり、それを『決めている存在』というのは、やはり『達観』している
『人の世界』に『鼻先人参の欲(誘惑)』を与えるのだから、その『性質欲への執着』を手放さない限り、『業の回収=愚者の体験』は終わらない
釈迦はこの世に『権限・顕現』しない
『釈迦そのものが世界』なのだから
そりゃ『弥勒』は『釈迦』を追って『孰(いず)れ釈迦』になる
『孰』れを『心』が支えれば『熟成』する
弥勒は真理の探究者という『釈迦の弟子(学びの者)』
だから『この世を生きる者』は『莫迦・馬鹿孰(たれ)』でいい
悟りの差取り、『角』を取って『丸く』なれば『球』となり
それが『地(支え)』となって「球」という『釈迦(丸く治まる)』
『問題を内包』した『重力・引力』に包まれた世界
『問題に巡り合い解決』したらそりゃ『釈迦(差取り)』
囚われた『心』が軽くなって『解いた問題』から自然に離れていく=『解脱』
そして出た先でこういわれる
「ふ~(-。-)y-゜゜゜娑婆の空気は美味いな」
「お勤めご苦労様です_(._.)_」
また『別の釈迦(この世の真理)』を『意識が観測』して『三千世界』
そこにはまた『解決するべき難問が有る』のだから『有難い』
オラ、ワクワクすっぞ!(≧▽≦)『見ろ苦のしゃぽ待ち』 Σ(゚Д゚)どっちでもいいの?
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