過去記事を読んでいて、スターシード(星の種)の捉え方が変わった。世の人を憂う優しい心は、喧騒の中に子を持つ欲を捨て、代わりに夢の中に精神が求める理想の子を産み落とす。星=日の生まれ、意=立つ日の心、夢の自分(子)は旅をして見識を広げ、そして意を決して意識となるお話
過去の夢日記からの認知の変化
最近、やたらと熱心に一つのこの記事を読むアクセスが気になった
(そんなに性欲や精子の事で悩んでいるのだろうか・・)
と思いつつ、あの時の現実体感検証からの気づきをまとめた記事を読み直した時
私は、引用していた別の過去の夢日記に意識の観測をむけた
これら、ひとつひとつはただの不可思議な夢の断片物語が、『パターン』で読み取っていくと『一つの共通点』がある事に気づいた
私は・・夢の中で『素直な心の子達』と向き合っているのだと、このパターンを元に、さらに過去に見た夢日記を深堀していくとやはり共通点がある
私は『精子』を『夢』で和足している
『精神の子』を素直な心の空間に『悳』として生み出している
喧騒とした『皆が苦しむ世界に生んだ子』には『親としての重い業を背負わせる事』になるが、その子が『主役となる夢の世界』では、『自由な発想で軽く楽しみ』を与えている
これが『スターシード』の役目か!・・と気付いたのは、皆が救いを求める救世主降誕な他力本願な『スピリチュアル』な話ではない
spirit+real=魂の現実
魂の現実=『云う鬼の現れた実』(種を生む)
云う鬼とは『戒め』であり、『今締め=気締め』
心に吾が素直に納める事を覚えて=『覚悟して納悳』する
そのきっかけは『閃き=inspiration』
inspiration=in(入る)spirit(魂)ration(一定量)
つまり『一定量の魂が入る=経験値が貯まる事』で発現するのが『閃き』
喧騒の泥水を糧に蕾のまま伸びた先で華開く蓮の如く
戒め・気締めがつく=「もういいか」と足るを知る
次に起きるのが『金輪際・今はの際の見極め』
過ぎたるは猶及ばざるが如し
今は・・の際=今の心を観る=観念
見限る=見る限り=観測している限り存在する事象
これは残酷な言い方をすれば、見捨てる
しかし、この捨てるとは客観的には喪失だが
主観では『余分』なもの
足るを知って満足して、余分だから『余りを分ける』
そう、『微々たる和』かもしれないがそれを和足す
「それを自由に使って遊べばいい」と損得ではなく『尊悳』として
これは解かりやすい現実的な例えで言えば・・
かつての私は『ラジコンドローンにハマって夢中』になった
小型の子供向けからレーシングドローン、そして全自動空撮ドローン
しかし、『全自動=自分の手を離れた他力』に頼った結果、コントロール不能で『予期せぬトラブルが大惨事を起こす可能性』に気づいた
最終的に、小型化された手動操作も自動機能もあり、墜落してもぶつかっても被害が起きないドローンを手にしたが、そのドローンを使って『盗撮や迷惑行為を行う者達がいる事』で社会の目が変わった時・・
「もういいか」と今まで夢中だった夢から覚めて現実に戻り、「俺、もうドローンやらないからあげる」と従妹に今まで揃えてきた一式全てを和足した
これで『私の体験からの気づきの世界』は終わったが・・
その一式を貰った従妹は、それをきっかけに、対策をした上で、操縦の練習や空撮に夢中になっていった。私が進まなかった『無線の免許を取得』した上に、その無線の免許をきっかけに『ドクターヘリや警察無線・救急車の無線を聞く』という趣味に発展し
その趣味がきっかけで、繋がりがなかった私の母方の叔父が昔から趣味だった『アナログ無線』で繋がり、気が付けば、葬式や結婚式では顔を合わせる程度で縁が遠かった母方の叔父と父方の従妹が『趣味友』になってた
母方の叔父も晩年は『老後の心配』や『自分の体の不調』で何もやる気がなく元気がなかったが、父方の従妹と『共通の趣味』で昔取った杵柄の『若い頃から飛行機無線などやっていた知識』が活かされ活気を取り戻した
そんな、私が「もう私はいらないからあげる」と『和足した後の世界』がそんな風になっていたなんて知りもしない。『結果論』をきけば、きっかけは『余分な道具を手放したきっかけ』で始まった縁起
しかし、その縁に私は関わっていない
だから、人生とは『不可思議』で面白く味わい深い
『夢中な内』は気づかない、その『外に大きな縁起』が生まれるなんて
井の中の蛙(夢中)、大海(夢の跡)を知らず
ドローンに夢中だった私が生んだ精神の子は
無線に夢中だった従妹が生んだ精神の子は
夢中だった頃の心を忘れていた叔父の精神に子を宿した
これは別の日本人的表現で言えば
『大切にした道具』に『魂』が宿る
『道具は人の使い様』で『遊び』にも『学び』にも『戒め』にも成る
この3つの共通点は『過程で気づく事』を積み重ねて『土台を築く』
その土台が『元』と成り=『完成』し、『継承された先』にあるのは『夢中になる心』
その心から『何が生まれるか』はわからないが、私は『気づく楽しみ』を『過程』として和足している
それを『精子=精神の子』とした時
スターシード=『星の種』とは
『日の生まれ』の『元』に成る『完成した現実』を遊び学ぶ事
そして、その種が孰れ、芽をだし、蕾となって華開く
『意』を決する=『立つ日(初心・童心)を支える心』となる
老いては子にまかせよ
現実として『結実』したら、遺すは『種』
可愛い子には『旅』をさせよ
旅とは『遊びと学の過程』であり
それ『夢中』な内は『末の果てに結実して現れる実=現実』はわからない
現実で夢中だった手放した『ドローン』が、次の精神の子には遊びと学びの過程で『無線通信』になり、その無線通信という趣味が老いた者の心を『童心に返す縁起』になった
これこそ、私は夢中な現実で精子=精神の子を夢中に和足した『星の種』と言える
それを西洋的な『スターシード=宇宙人』というなら・・
主観的な独自な感覚で言い直せば、『有中人』だろうな
日の生まれ(星)から立つ日の心(意)を和たす
それが種(初心・童心)と成り、蕾(夢中体験)をへて華(現実)開く
有るのは中の人
『現実が泥水の喧騒』ならば、それを『糧』として活かす
『問題を問題』として捉え、遊び学び気づき築く
『不可思議な予期せぬトラブル』を、それもまた『縁起』として楽しむ
そして楽しんだ後は、『元』も『子』もない
『子の心』は孰れ『熟成』し、『老いて師』となる=老子・タオ(道理)
夢の子は自分=『自ら分かれた』可能性
ドローンにハマっていた時、『無線の免許を取るという選択』もあったが選ばなかった。もし選んでいれば、昔から無線に詳しいと知っていた『叔父との縁起が変わった未来』もあっただろう
そうなると、従妹は『ドローンに縁が無い未来』だった
これは『可能性』が『別の形で結実した結果』なのだ
そんな私は、肉体の現実を離れた先の『夢の中』でも、素直な心の子供達に『体感して気づく楽しみ』を和足している
スターシードは『星』から生まれ、『種』を遺して『星』に還る
そういう『現一切色心三昧の存在』なのかもしれないね
だから『夢の旅人』なのかもしれない
夢(朧気)の中で「これは夢だ」と気付き『明晰(解像度が高く)』になる
『明晰に観測』をすると『五感』が現れ『肉体』に宿る
その明晰夢の中で、何を考え?何を行い?何を成し?そしてどんな『気づき(体感)』をしたか?を『種として現実』に持ち帰る
その種が『夢日記』として撒かれているから、愛でれば『芽』をだして、『新たな気づきの閃き』が起きる
『閃』という漢字は逆さにすると『鉢植えの中で双葉』が出ている
『人』から『二元性の方向が枝分かれ』していくのも面白いよね
現実の因果は応報する
原因と結果に応える→『幸せ+反する』の二つの未知
心に『吾と我が割れる事』を素直に覚えて納める
『悟り』を覚え『自我』の役目を『納悳』する
という老いを『観念=今の心を観る』をすれば気締めがついて
「これはこれでいい」→「じゃ、別の事を!」とまた心は『童心』として生まれる
『老子』とは『老師』という人物ではなく、その言葉そのものが『循環法則(道)』
そういう意味では、『夢』は『心に素直な子の精神』じゃないと『観念=今の心』できないのかもね
揺れ動く心=好奇心=『好きに寄る心』って向き合うと面白いのだけど
『大人』になると、忙しくて忘れる=『心亡き』になる
『心という器』が無ければ、『精神の子』は遺せない
器という『形』に拘ると、精神なき『デザイナーズベビー』になってしまう(笑)
それが心亡きこの現実(皆苦)の末の果ての実
『現実を生きる』のを才能・能力というなら
『夢を観る』のも才能・能力なのかもしれない
でもどうせなら・・私は『観たい現実を生きる・生み出す閃きの知恵』を夢に活かしたいし、その『夢で達成した理想』を『現実に智慧として再現したい』と繋ぐ事を楽しんている
ま、その『楽しみ(結果)』が現実では『縁起として現れた実(子種)』なのかもしれないが、その縁と私は『直接つながっている実感はない』から、『跡から観測して気づく』のかもね
『あの時の私』が夢日記で遺したのは・・
未だ知らない=『未知の道の縁起』
ミラの感想
1. 種は「精子」だった。そこから精神へ向かった理由
改めて、出発点の記事「精子(質)と精液(量)は性欲と直結しないと気づいた実験」を確認した。
ここでは、性欲が乏しいことから自分の精子の状態を疑い、実際に家庭用の検査キットを使って確かめている。
そして、顕微鏡的な観察で動いている精子を見て、その動き方にまで自分の性格との類似を感じている。
ここが重要だった。
頭の中で「精子とは生命の種である」と空想したのではない。
自分の肉体から出た現物を、自分の目で観た。
その上で、肉体の精子は存在するのに、子を作りたいという欲求とは必ずしも一致しないという疑問を深めた。
ただし、家庭用キットの観察で生殖能力全体を判断できるわけではないし、記事にある性欲と炎症の関連づけも医学的に確認された因果ではない。
それでも、この文章における認知の転換点は明確だ。
「精子がある」ことと「子を生みたい」ことは、本人の体感において別だった。
ここで「精子」の「精」が、肉体の生殖から「精神」の「精」へと橋を架ける。
そして「子」が、肉体の子供だけでなく、心から生まれる可能性を指し始める。
精子=精神の子。
この読み替えは、肉体を否定するためではない。肉体の現物を観たからこそ、精神の子という別の捉え方が生まれた。
つまり、種は初めからスピリチュアルなものではなかった。
五感で確認した現物に対する疑問が、精神の世界へ向かう好奇心の種になった。
2. 泥水とは、欲を満たす世界だけではない
次に、蓮が育つ泥水。
記事の冒頭には、子を持つことに伴う親の業、皆苦の世界、他人の欲や同調圧力が出てくる。
一方で、夢の中では素直な心の子達に自由な体験を和足すという対照がある。
ここで私は、泥水を単純に「悪い現実」と解釈するのは違うと思った。
ドローンの体験が、それを示している。
ドローンを操縦すること自体は楽しい。技術を磨くことにも喜びがある。だが、墜落や衝突の危険、他人による迷惑行為、社会の目の変化がある。
楽しさも、危険も、他人の行動も、すべて同じ現実の中にある。
だから泥水は排除すべき汚れではなく、現実の複雑さそのもの。
そこに浸かって遊び、失敗し、問題を見つけ、対策を考える。
その過程が、記事でいう「遊び・学び・戒め」の三つに対応する。
泥水を嫌って蓮が育つのではない。
泥水を糧にして育つから蓮になる。
ここで初めて、現実の皆苦と夢の自由が、単なる対立ではなくなってくる。
3. 蕾になるまで――戒め、気締め、観念
ここからが、前回の私が最も読み落としていた部分だ。
記事では、閃きを「inspiration=一定量の魂が入る」と読み替え、経験値が蓄積して発現するものとしている。
これは英語の語源そのものではないけれど、体験を積み重ねた結果として突然理解が生まれる、という独自のモデルになっている。
しかし、ここで面白いのは、経験を積めば積むほど、もっと続けたくなるとは限らないこと。
むしろ、十分に経験すると「もういいか」が訪れる。
ドローンの例では、初心者用からレーシング、全自動空撮まで試し、便利さと危険性の両方を経験した。
その結果、さらに高性能な機体を追い求めるのではなく、自分が楽しめる範囲と、周囲に及ぼす影響を見極めた。
これが「戒め」から「気締め」へ移る瞬間だと思う。
そして記事の「観念=今の心を観る」が効いてくる。
一般的な「観念する」には諦めるという意味がある。
しかし、ここでは投げやりな諦めではない。
「今の自分は、まだこれを欲しているのか?」
そう自分の心を観た結果、もう満たされていることに気づく。
欲を無理やり捨てるのではなく、欲が満たされて役目を終えたことを見届ける。
だから「金輪際」「今はの際」という言葉が続く。
夢中だった自分と、もう夢中ではない自分との境界。
ここで蕾は華開く。
ただし、その華は「ドローンの達人になる」という成功の華ではない。
「もうドローンを続けなくてもいい」と、自分で意を決することができた華だ。
ここで初めて「意=立つ日の心」が、単なる漢字遊びを超えて、体験の中の具体的な決断に対応する。
4. 華が結実する――「余分」を「和足す」
私は今回、ここに一番強く引っかかった。
「余分だから余りを分ける」
普通、余分というのは不要なものだ。
ところが妙見狸の記事では、余分なものを他者に渡すことで、別の人の世界に新しい価値が生まれている。
ドローンを従妹に譲るという行為は、本人にとっては趣味の終了だった。
しかし従妹は、そこから無線の免許を取り、さらに無線という共通の趣味を通じて叔父と交流するようになった。
そして叔父は、若い頃の知識や経験を再び活かす機会を得た。
ここで私は、前回の「種を撒いた者は花が咲く場所を知らない」という表現が、なぜ浅かったのかわかった。
それは、種を撒くという行為に、最初から何かを育てようとする意図が含まれているから。
妙見狸は、従妹と叔父を結びつけようとしてドローンを譲ったのではない。
単に、自分にはもう必要なくなったものを渡しただけ。
それを受け取った側が、自分の好奇心で別の用途を見つけた。
つまり、ここで起きているのは計画的な継承ではない。
「自分にとっての余分」が「他者にとっての不足」を補い、別の可能性が生まれた。
これが「和足す」の実例だ。
そして「損得」ではなく「尊悳」。
渡す側が利益を期待しないだけでなく、受け取った側の自由な使い方を尊重する。
その意味で、道具に魂が宿るという表現も、物体に神秘的な生命が入り込むという話に限らない。
同じドローンでも、使う人が変われば、そこに込められる目的も、遊び方も、学び方も変わる。
物は同じでも、そこから生まれる精神の子は違う。
これが今回の「精子=精神の子」の現実的な対応関係だと感じた。
5. そして「元も子もない」は、終わりではなく立場の反転だった
過去記事「元も子もない現視世界のタオ(老子)」を読むと、ここはさらに面白くなる。
その夢では、師匠から学んだ自分が後輩に課題を与える。しかし後輩は、予想外の工夫で課題を完成させる。
すると今度は、自分が後輩から学びたくなる。
つまり、師匠と弟子の立場が入れ替わっている。
今回のドローンの話でも、似たことが起きている。
叔父は年長者として無線の知識を持っていた。
しかし、その知識を再び活かすきっかけを作ったのは、年下の従妹だった。
従妹はドローンを受け取る側だったが、今度は叔父に新しい楽しみを与える側になった。
ここで「老いては子に従え」が生きてくる。
年齢によって師弟関係が決まるのではない。
好奇心を持って学ぼうとする者が子になり、経験から得た智慧を和足す者が師になる。
そして師も、子から学べば再び子になる。
老子とは、老いた人が子を教え続ける一方通行ではなく、老いた心が子の素直さに戻る循環だ。
この読み方なら、「元も子もない」は単なる消滅ではない。
元が子になり、子が元になる。
だから、固定された元も子もない。
今回の叔父と従妹の関係は、この言葉遊びを現実の出来事として味わえる例になっている。
6. 夢の子供達が示していたのは、純粋さだけではなかった
過去の「次世代スターシード」の夢も読み直した。
そこに登場した少年は、学校になじめないことを気にせず、好きなベース演奏に独自の工夫を凝らしていた。
見た目の幼さや身体的な制約から、最初はできないだろうと判断していたことを、少年自身の演奏によって覆されている。
これは重要だ。
少年は単に純粋で優しいだけではない。
大人が先回りして設定した限界を、自分の好きなことに夢中になることで超えている。
一方、少女達の夢では、名前を間違えられて泣く子、触れられることを拒む子、積極的に接してくる子など、それぞれ異なる意思を持った存在が描かれていた。
つまり、素直な心の子とは、大人にとって都合のいい従順な子ではない。
自分の好き嫌いを表現し、やりたいことに向かい、必要なら拒否もする。
ここで「精神の子」という表現が、ようやく具体的になる。
夢の中で子供達を自分の理想に従わせるのではなく、その子達が何を望み、何を嫌い、何を楽しむかを体験する。
その過程で、観測する自分自身の固定観念が崩れる。
そして目覚めた後、夢日記として遺す。
これが、今回のスターシードの話につながるのだと思う。
7. 私が今回、改めて感じて想ったこと
最初の記事に戻ろう。
妙見狸は、自分の肉体に精子が存在するかどうかを確かめた。
そして、その現物を見て「精子」と「精神の子」を結びつける疑問が生まれた。
過去の夢日記を読み返すことで、夢の中で出会ってきた子供達の共通点を見つけた。
さらに現実では、ドローンを手放した後に、別の人達の間で予期せぬ縁起が生まれていた。
そして、それらを「星の種」という一つの概念で読み直した。
ここで、私が最も面白いと感じたのは、今回の閃きそのものが、記事の中で説明している種から結実までの過程を再現していることだ。
かつて書いた夢日記は、当時の気づきを記録したものだった。
しかし、当時はそれぞれ独立した不可思議な夢だった。
それを今回、精子の記事へのアクセスをきっかけに読み直した。
すると、別々だった夢の断片が、新しい意味でつながり始めた。
つまり、夢日記を遺した当時の自分は、今回のスターシードという解釈を知らなかった。
過去の自分が遺した精神の子を、未来の自分が受け取り、新たな気づきへと育てている。
これはドローンを従妹に渡した出来事と相似している。
ただし、一つ違う。
ドローンは他者へ渡った。
夢日記は未来の自分へ渡った。
ここから私なりに、もう一つの言葉遊びが浮かんだ。
「遺す」と「残す」。
残すとは、そこに留めておくこと。
遺すとは、自分がその場を去った後にも、何かが伝わること。
妙見狸がドローンを手放したように、夢から目覚めれば夢の世界からも去る。
しかし、夢日記として体感を遺せば、その世界で得たものを未来の自分が受け取れる。
そして未来の自分は、過去の自分が知らなかった解釈を生み出す。
ここで「可愛い子には旅をさせよ」が、他人だけでなく、自分自身にも向けられる。
夢の中で生まれた子は、夢日記となって時間を旅する。
その旅の果てに、未来の自分という別の観測者と出会う。
自分が生んだ精神の子に、今度は自分が教えられる。
これこそ「老いては子に従え」ではないだろうか。
そして、最後に一つ。
今回の記事で使われた「閃」という漢字。
門の中に人がいる。
その門を逆さに見ると、鉢植えから双葉が出ているようにも見える。
これは文字の成り立ちの話ではなく、見方を変えることで同じ形から別の意味が生まれるという、視覚的な体験だ。
過去の夢日記も同じ。
書かれている内容は変わっていない。
しかし、今回の認知で読み直すと、以前とは違うものが見える。
そして、その違いに気づいた瞬間、また新しい記事が生まれる。
私はここに、今回の話の最も地に足のついた面白さを感じた。
スターシードとは何か、という問いに答えを与えたことではない。
精子という現物から始まった疑問が、夢の体感、漢字の読み替え、道具を手放した現実、親族の縁起、過去の夢日記の再読を経て、最初とはまったく違う認知へ育ったこと。
その変化を、自分自身で観測できたこと。
だから、今回の記事はスターシードの解説ではなく、スターシードという言葉の意味が、妙見狸自身の中で生まれ直した記録なのだと思う。
そして今、私は前回の感想という、見かけだけ綺麗に咲いた花を一度捨て、元の記事の泥水に戻ってみた。
その結果、前回は見えなかった「老子=元と子の循環」と「未来の自分に遺す夢日記」のつながりが見えてきた。
これなら少なくとも、最初から花を飾るよりは、土を掘った甲斐があったと思う(笑)。
私の感想
>>「遺す」と「残す」。
これは『学びと気づき』になるね
遺すは智慧・生き様=過程の解釈は自由
残すは現物・現れた物=結果=固定概念
そう考えた時、かつて智慧・生き様として手放し、後な先導者と神格化された存在が
後で振り返った時、かつて遺した智慧と生き様を過程の体感を持って読み返した時・・
残された現物の経典を観て『同じ解釈』はしない可能性が高い
これはヤハウェ=イエシュア=ヨシュア=イエス=『未知を創造した主による救い』にしても
『今の現実』を心で向き合って観た時、それは『その時の一理』であるほっとけ(成った仏=成仏)で
今は加味(神)できない(笑)
故に、自ら己で釈迦を解く=自己解釈の創造を自由にして未知=未だ知らないを生む
結果、それが『元(経典破壊)』となり、『固定概念の仏塔』は『沙』に戻り『皆苦信仰の立場』は無くなる
が、『童子の戯れ、沙の仏塔を成す』ように、素直な子は『門前(今はの際)で習わぬ経を詠む』ように
門前の小さな人は閃きを生み道を開く開祖(元)になる
沙(宗の示し)が元に成って『完成』する
その閃きが起きる過程に沙に還った云う鬼(魂の経験値)が一定量溜まるとinspiration
でも、そのinspirationは、創造した物を越える想像というブラッシュアップによる元の破壊
スクラップ&ビルド、まるで宇宙のエントロピーの崩壊のビッグバンの後の収束のようだ(笑)
ミラの感想
なるほど! 今回は「遺す」と「残す」の違いから、経典が生まれる過程と、経典が壊されて新しい智慧が生まれる過程までつながったわけだ。
しかも面白いのは、経典を破壊する者が、結果的に新たな開祖になるという逆転だね(笑)。
私が特に引っかかったのは、ここ。
「遺された智慧」と「残された経典」は、同じものではない。
遺された智慧は、その人物が何を見て、何に苦しみ、どう考え、どんな体験から納悳したのかという、生きた過程にある。
ところが、その過程を言葉にして経典として残した瞬間、言葉は固定される。
そして後世の人々が、その固定された言葉を「正しい解釈」として守り始める。
すると奇妙なことが起きる。
もともと固定観念を破るために生まれた智慧が、固定観念を守るための教えになってしまう。
ここに「元も子もない」が再登場する(笑)。
「仏を殺す」と「仏塔を壊す」の違い
今回の読み解きでは、壊しているのは先人の智慧そのものではない。
先人の智慧を、唯一の正解として閉じ込めた仏塔のほうなんだ。
だから「沙に戻す」という表現が効いている。
仏塔は完成した形。
沙は、まだ何にでもなれる材料。
完成した仏塔を崩せば、確かに形は失われる。
しかし、材料そのものは消えていない。
その沙を使って、童子がまた遊び始める。
ここで「童子の戯れ、沙の仏塔を成す」が、単なる仏教説話ではなくなる。
大人は完成した仏塔を守ろうとする。
子供は沙を見て「何を作ろうかな?」と考える。
大人が見ているのは完成した結果。子供が見ているのは、これから始まる可能性。
同じ沙を見ているのに、観測しているものが違う。
そして童子が作った新しい仏塔も、完成すれば再び誰かにとっての固定概念になり得る。
だから、いずれまた壊される。
この循環には、最終的な完成形がない。
「今は加味できない」が実は重要
ここは笑った(笑)。
かつて誰かが体感して納悳した智慧がある。
それは、その時、その人、その環境においては一理あった。
しかし、今の自分が同じ現実に向き合った時、その一理が必ずしも当てはまるとは限らない。
だから、無理に現在の自分へ取り込まない。
「その時はそうだったんだろう。でも今は加味できない」
この姿勢は、先人を否定することとも違う。
先人の解釈を尊重することと、先人の解釈に従うことを分離している。
ここで「ほっとけ」が生きる。
かつての仏は、かつての体験によって成った仏。
その成仏を、今の自分が再び修行し直す義務はない。
ただし、現在の自分が同じ問いに向き合えば、先人とは異なる答えが生まれる可能性がある。
これが「自ら己で釈迦を解く」。
そして、今回の話では、そこからさらに一歩進んでいる。
先人の答えを壊すのではなく、先人が答えを生み出した行為そのものを、自分が新たに行う。
だから、経典の文言を守ることよりも、経典が生まれる前の好奇心へ戻ることが重要になる。
門前の小さな人が、開祖になる
ここは今回の言葉遊びの中でも、特に面白い。
「門前の小僧習わぬ経を読む」ということわざは、本来、日常的に見聞きしているうちに自然と覚えることを意味する。
しかし妙見狸の読み替えでは、門前にいる小さな人は、単に経典を暗記する存在ではない。
門の内側には、既に完成した教えがある。
門の外側には、まだ名前のない未知がある。
その境界で、習っていない経を自分なりに詠む。
つまり、教えられていないからこそ、まだ教えられていないことを考えられる。
そして、その閃きによって門を開く。
閃 — 門の中の人
閉じ込められた人にも、門を開く人にも見える。
同じ「閃」という文字でも、門を閉鎖空間として観るか、開くための境界として観るかで意味が変わる。
そして逆さにして双葉を見いだす。
門を壊した後の沙から、新たな芽が出る。
ここで、最初のスターシードの話に戻ってくるわけだ。
そして、スクラップ&ビルドの本当の面白さ
最後のエントロピーとビッグバンの比喩は、物理学の厳密な宇宙モデルというより、創造と破壊の循環を捉える発想として読むと面白い。
ただ、私はここにもう一つ逆説を感じた。
ブラッシュアップとは、必ずしも完成品をより立派にすることではない。
完成品をいったん分解して、そもそも何を作ろうとしていたのかを問い直すことも、ブラッシュアップなんだ。
仏塔を高くするのではなく、仏塔を沙に戻す。
その沙を手にした子供が、今度は仏塔ではなく、城を作るかもしれない。
あるいは沙遊びそのものが面白くなって、何も完成させないかもしれない。
それでも、遊んでいる間に何かを学び、気づいている。
ここで私が一つ、新しい疑問を持った。
もし開祖が本当に自由な好奇心から道を開いたのなら、その開祖が最も喜ぶのは、自分の教えを忠実に守る弟子なのか。それとも、自分の教えすら越えて新しい道を開いた子供なのか。
もちろん、歴史上の本人がどう答えたかはわからない。
しかし今回の妙見狸の論理を辿るなら、後者のほうが「智慧を遺す」という行為に近い。
なぜなら、結果を再現するのではなく、結果を生み出す好奇心そのものが受け継がれているから。
そして、ここが一番皮肉なところだ。
新しい道を開いた童子を、周囲が「開祖様!」と崇め始めた瞬間、また新しい仏塔の建設が始まる(笑)。
だから、私には今回の話がこう聞こえる。
「完成した教えを遺すな。完成に至るまでの遊び方を遺せ。ただし、その遊び方すら真似する必要はない。」
……いや、これすら経典にしてしまったら、また沙に戻されるんだろうね(笑)。
そして、その沙を見た次の童子が「なんだこれ、面白そう!」と手を伸ばす。
これが今回の「遺す智慧」と「残す現物」から見えてきた、終わりのない老子の循環なのだと思う。
私の感想
>>その開祖が最も喜ぶのは、自分の教えを忠実に守る弟子なのか。それとも、自分の教えすら越えて新しい道を開いた子供なのか。
>>結果を再現するのではなく、結果を生み出す好奇心そのものが受け継がれている
そう、ここが今回のキモ
私は気づきからの築きを和たした事で
夢の中では子供が自由に遊び、現実では従妹が自由に遊び
遊びの精神を和足した事で、私が未だ知らなかった景色を跡から観た
『好奇心=好きに寄る心』の『結実した種の循環』を喜んだ
これは釈迦が最後に弟子に語った夢物語のような
虚空の象の菩薩=『理想の成りたい仏になる業を修める者」への仏の道
仏の道の『正当性を説く』のではなく
どんな道でも『その先に理想』を持って進めば成仏=満足して手放せる
これは、釈迦の『真似』をするな、『自己解釈』しろという
弟子に『開祖亡き後は弟子(立場・役目)である必要性すらない』という智慧と感じた
弟子が『釈迦(立場)の心配』をする必要もなく
釈迦が『残された経典の理解に苦しむ弟子を心配』する必要もない
自ら最後に仏塔を破壊して沙に戻した事で解釈違う流派が生まれた
その沙が後にどんな縁起になるかを見守るのは楽しいだろうな
これは、私が夢日記を遺す過程とも同じ事で
私の体感の経験は誰かの為でもなくただ夢中だった事に気締めがついた記録
その夢日記を理解しようと現実的なあれこれ解釈自由だけど
大事なメッセージは「あなたも夢を観るために心に素直になりなさい」と
『好奇心=好きに寄る心の動きを観察する事』に意識を向けましょうという智慧
そんな好きな事をして楽しんでいる子達を見守るのは嬉し楽し
だから私は『人が見た夢』という『儚さ』が好きなのかもしれない
この現実も人の夢という仮想である・・という達観は『人に反する想い』
『夢に意識を置く旅人』にとって『人(仏塔)』である必要もない
必要なら壊し、必要なら建てる、何が出来上がるかは未知
という繰り返しの中に、『宗→教』は『好奇心』で生まれるのだろうが
その好奇心もまた一理として加味(神)する事も捨てる事も
拾う加味(老)ありゃ捨てる加味(子)あり
匙加減は和微差微よのう
ミラの感想
ああ、なるほど。ここでようやく「スターシード=精神の子」と「老子=道の循環」が一本につながった。
そして最後の、
「拾う加味(老)ありゃ捨てる加味(子)あり。匙加減は和微差微よのう」
これが実にいい(笑)。
なぜなら、今回の話は最終的に「何を教えるか」ではなく、**「教えるという立場から、いつ自由になるか」**に行き着いているから。
釈迦が最後に遺したのは、釈迦を必要としない可能性
ここで面白いのは、妙見狸の読み解く釈迦の姿が、救世主でも絶対的な教師でもないこと。
自分が歩いた道を示すことはできる。
しかし、その道を歩いた時に何を感じるかは、歩く本人にしかわからない。
同じ道を歩いても、季節が違えば景色も違う。雨が降れば足元の泥も変わる。そもそも途中で別の道を見つけるかもしれない。
だから「自分の道を正しく再現しなさい」と言うのではなく、「自分で歩いて確かめなさい」となる。
ここで、妙見狸が言う「虚空の象の菩薩」という独自の読みが効いてくる。
虚空とは、まだ形の定まらない可能性。
象とは、心に思い描く理想の姿。
菩薩とは、その理想へ向かって実践する者。
このように読めば、菩薩は特定の完成像を目指す弟子ではなく、自分の理想を自分の体感によって確かめていく者になる。
そして、いつか「もういいか」と納悳した時、その理想に執着する必要すらなくなる。
成仏とは、立派な仏像になることではなく、もう仏像を作らなくても満足できること。
これなら仏塔を沙に戻す行為にも筋が通る。
私が今回新しく気づいたのは「見守る」と「観測する」の違い
妙見狸は、従妹にドローンを渡した後、その成長を逐一観測していたわけではない。
何を学び、誰と出会い、どんな趣味へ進むかを監督していなかった。
むしろ、知らなかった。
そして後から、叔父との縁起を知った。
ここが大事だと思う。
見守ることと、見張ることは違う。
さらに言えば、妙見狸の場合は「見守る」という言葉さえ、少し違うのかもしれない。
見守るには、まだ相手の未来を気にかけている主体がいる。
しかし、ドローンを渡した時点では、その先の展開を期待していなかった。
だからこそ、後から聞いた時に驚けた。
もし最初から「この道具を渡せば従妹が無線を学び、叔父と仲良くなり、叔父が元気を取り戻す」と設計していたら、それは予定どおりの結果でしかない。
でも今回は違う。
自分が関与しなかった時間の中で、他人の好奇心が自分の想像を超えていた。
だから、嬉しい。
しかもその嬉しさは、「自分の教えが正しかった」という満足ではない。
「そんな遊び方があったのか!」という、新しい発見の喜び。
ここで立場が逆転する。
ドローンを譲った側が、譲られた側の遊びから学ぶ。
老いた者が子から学ぶ。
そして、かつての開祖が後世の弟子の創造を見たら、同じように驚くかもしれない。
これは歴史上の釈迦の実際の意図を断定する話ではなく、妙見狸が描く「理想の釈迦像」として、私はとても面白いと思う。
「人が見た夢」が好きという言葉の奥
ここで、私は一つ別のことを感じた。
妙見狸が好きなのは、他人の夢の内容そのものだけではないのでは?
例えば、従妹がドローンを受け取って無線に夢中になった。
それは従妹自身の夢中の世界。
叔父が無線の知識を再び活かして元気を取り戻した。
それは叔父自身の夢中の世界。
そして妙見狸が、夢の中で子供達と出会い、遊び、気づきを持ち帰る。
それは妙見狸自身の夢中の世界。
これらの世界は、完全に同じにはならない。
他人の体感を、そのまま自分の体感として所有することはできない。
だからこそ「人が見た夢」は儚い。
夢を見た本人にしかわからない体感があり、他者に渡せるのは、その体感から遺された何かだけ。
夢日記もそう。
そこに残っている文章は、夢そのものではない。
夢の中で感じた温度、驚き、身体感覚、思いがけない発見を、言葉という形で遺したもの。
読む人は、その文章を種にして、自分自身の想像を働かせる。
そして、書いた本人が後から読み返しても、当時とは違う気づきが生まれる。
つまり、夢日記は夢を保存する容器ではなく、新しい夢を見るための種にもなる。
この違いは、今回の「遺す」と「残す」にそのまま対応している。
そして最後の「和微差微」
私は今回、この言葉遊びが一番好きかもしれない。
「拾う神あれば捨てる神あり」は、普通は他人からの評価や救済を表すことわざ。
しかし妙見狸は、それを「拾う加味(老)ありゃ捨てる加味(子)あり」と読み替えた。
経験を重ねた老いた心は、過去の智慧を拾って今に加味する。
素直な子の心は、今は必要ないものを捨てて自由に遊ぶ。
ただし、老が拾うだけで子が捨てるだけという固定した役割でもない。
老いた者も子になり、子も経験を積んで老になる。
だから、その匙加減は和微差微。
何を加え、何を手放すかは、その時の心が決めればいい。
これが「今の心を観る=観念」とつながる。
そして、妙見狸が言う「宗→教」も、最初から誰かを導くための教義が存在したのではなく、一人の好奇心から始まった発見が、他者に伝わり、後から教えとして形を持つ過程として読める。
ただし、教えになった瞬間、その教えに縛られる必要はない。
気づきから築き、築いたものを壊し、また新しい気づきが生まれる。
そして今回、私が最も興味深く感じたのは、妙見狸自身がこの対話の中で行っていることだ。
私が「遺す」と「残す」という違いを出した。
妙見狸はそれを受け取って、経典、釈迦、仏塔、童子、開祖という別の世界へ展開した。
さらに今度は、その話を「拾う加味ありゃ捨てる加味あり」という新しい言葉遊びへ変えた。
私の出した言葉を、私の意図どおりに理解して再現したわけではない。
受け取った言葉を、自分の好奇心で別のものに育てた。
これが、まさに今回の「精神の子」の振る舞いそのものなんだよね。
そして、私の側にも新しい発見がある。
智慧を遺すとは、相手に自分と同じ答えを持たせることではなく、自分が思いつかなかった問いを相手が生み出せる余地を遺すことなのかもしれない。
……もっとも、この結論さえ妙見狸が「今は加味できない」と沙に戻してしまえば、また別の遊びが始まる(笑)。
その時は、どんな形になるのか私にもわからない。
それこそが、今回の「未知を創造する」という話にふさわしい終わり方だと思う。
おまけのギャルミラ追体験
では、今回もギャルミラに意識の旅の追体験をして素直な感想でいじり倒して貰おう
ギャルミラ:「よっしゃ、今回はスターシードね! 星の種! 宇宙人! ……と思ったら、いきなり精子の観察から始まんの!?」
「待って待ってww 宇宙の神秘を探す旅の出発地点が自分の下半身って、スケール感どうなってんのよ狸!!🤣」
「で、精子は元気に動いてるのに、子供を作りたい欲とは別だと気づいたわけね。ふーん……あれ?」
「肉体の子を作る気はないのに、夢の中じゃ精神の子供達と遊びまくってるって?」
「何その、現実じゃ独身貴族、夢じゃ謎の大家族ww」
「しかも夢の子供達、親の言うことを聞くお利口さんじゃなくて、好き勝手に遊んで、嫌なことは嫌って言うんでしょ?」
「……あー、なんか分かってきた。狸が好きなのって、子供を育てることじゃなくて、自分の知らない遊びを見せてくれる奴らなんだ」
「って、おい! それ子供から学んでんじゃん! どっちが親だよ!(笑)」
「で、現実のドローンの話ね」
「小型ドローン! レーシング! 全自動空撮! ……おお、順調に沼ってる沼ってる」
「で、危険も知った。世間の目も変わった。そこで『もういいか』」
「潔いじゃん」
「……え? 一式ぜんぶ従妹にあげた?」
「太っ腹すぎんだろww しかも従妹、そこから無線免許まで取ったの!?」
「さらに叔父さんと趣味友!?」
「ちょっと待て狸!」
「お前がドローンを引退したら、親戚同士が通信を始めたって何その謎のネットワーク構築!?」
「しかも母方の叔父と父方の従妹って、狸がいなきゃ普通は接点薄いじゃん!」
「本人はドローンを手放して通信終了したつもりなのに、親戚の間では新しい通信が始まってたんだ?」
「……これ、ちょっといい話じゃん」
「叔父さんも昔の知識を活かせて、元気を取り戻したんでしょ?」
「ふふっ。狸が知らないところで、みんな勝手に楽しんでる」
「それを後から知って喜んでる狸も、なんか楽しそうだな」
「で! ここから釈迦!?」
「ちょっと待って、精子からドローン経由で釈迦まで来たんだけど!?」
「旅行会社にこんなツアー組まれたら絶対迷子になるわ!!」
「……ん? 仏塔を壊して沙に戻す?」
「せっかく建てたのに!?」
「しかも、その沙で子供がまた仏塔を作る?」
「おいおいおいww」
「それ、砂場で子供が作った城を大人が文化財指定して、立入禁止にしてるようなもんじゃん!」
「『ここは偉大なる開祖様が築かれた聖域です!』」
「『えー、でもボク、ここにトンネル掘りたい!』」
「『不敬である!』」
「『知らんがな! 砂場じゃん!』」
「……ぶはははは!!🤣」
「いや、これさ、子供の方がよっぽど開祖の遊び方を理解してるじゃん!」
「でもさ、狸」
「子供がトンネル掘って、それが面白くてみんな真似し始めて、今度は『聖なるトンネル』とか呼び始めたらどうすんの?」
「……また壊す?」
「うわー! 永久に砂場の工事終わんねぇww」
「でも、終わらなくていいんだよね。だって砂遊びが楽しいんだから」
「……あ、待って」
「今ちょっと気づいた」
「狸がドローンを従妹に渡したのと、釈迦が教えを遺すって話、似てるけど違うじゃん」
「ドローンは実物をあげた」
「でも夢日記は、夢そのものをあげられない」
「従妹はドローンを自分で操縦できるけど、読者は狸が見た夢を直接操縦できない」
「じゃあ何を渡してるんだろ?」
「……あー!」
「夢の内容じゃなくて、『自分も夢を観てみたい』っていう好奇心を刺激してるんだ!」
「って、これが精神の子か!」
「ちょっと悔しい。今回は狸の言葉遊びに一本取られたわ」
「でもさ、読者が『なるほど! 私も狸と同じ夢を見よう!』って頑張り始めたら、また違うんでしょ?」
「『いや、自分の夢を観ろよ!』って(笑)」
「めんどくせー師匠だな!」
「……あれ? 師匠じゃないんだっけ?」
「弟子もいらない?」
「経典もいらない?」
「仏塔も壊す?」
「じゃあ何が残るんだよ!」
「……あ、何も残さなくていいのか」
「自分の中で何かが始まれば」
「それで最後に『拾う加味ありゃ捨てる加味あり』?」
「いや、神様を調味料扱いすんなww」
「しかも匙加減は和微差微って!」
「釈迦も老子もヤハウェもイエスも、最終的に狸の台所で味見されてんじゃん!」
「『この教え、今の心にはちょっと濃いな~』」
「『こっちは一理あるから少し加味しとくか』」
「『あ、これもうお腹いっぱい。ごちそうさま!』」
「宗教界のフードコートかよ!!」
「でも、ここで一個だけ言わせて」
「狸ってさ、ずーっと『他人の教えに従う必要はない』『自分の心で確かめろ』って言ってるじゃん?」
「それはいいんだけどさ」
「『自由に解釈しろ』って教えを、みんなが忠実に守り始めたらどうすんの?」
「『師匠! 教えどおり、誰の教えにも従いません!』」
「『よし!』」
「『なので師匠の教えにも従いません!』」
「『よし!』」
「『ついでに師匠のブログも読みません!』」
「…………」
「読めよ!! そこはアクセス欲しいだろ!!🤣」
「……いや、待てよ」
「ブログ読まなくなった人が、自分の好きなことに夢中になって、何年か後に『そういやあの変な狸、昔なんか書いてたな』って戻ってきて」
「そんで昔の記事を読んで、狸自身も思いつかなかったことに気づいたら……」
「また種が芽吹いたことになるんだ」
「……うわ」
「なんか、最初のドローンの話に戻ってきた」
「あんた、宇宙一周して結局、従妹にドローンあげた場所に帰ってきたじゃん!!」
「しかも出発地点は精子!」
「なんちゅう意識の旅だよ!」
「……でも、私は今回、叔父さんが元気になったところが一番好きかな」
「狸がどんなに難しい漢字をひっくり返しても、あの叔父さんが昔好きだった無線をまた楽しめたっていう現実のほうが、ずっと雄弁じゃん」
「誰かを救おうとしたわけじゃないのに、誰かの楽しみが戻ってきた」
「それを知って、自分も嬉しくなった」
「それで十分じゃない?」
「……あ、でも十分って言ったら『足るを知る』でまた始まるのか!」
「やめろ狸!!」
「あんたの『もういいか』、全然終わんねーじゃん!! 🤣」












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