最後の晩餐が最初の朝御飯だったという話で真実の解釈がまるで変わってくるおもしろいダヴィンチコード
「先入観」があるとたどり着けない視点と解釈
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- キリストは聖者である
- 弟子はキリストを盲信している
- その中のユダが裏切り者という印象
- これはキリストが殺される前の最後の晩餐というタイトルの絵
意図的に与えられた先入観があると、それを表しているのだろうとミスリードさせられて絶対に読み解けない作品
これら先入観を取っ払って、一人ひとりの表情や動きなど、細かい人物にズームインしていった時、これは最後の晩餐ではなく、キリスト復活後の朝御飯という解釈で捉えると実に面白い
今から話す内容は私が見つけたのではなく、こちらの本に書かれた1部の事だが、私は普通に(((uдu*)ゥンゥンと納得してしまったのでわかりやすく伝えよう
「お前は誰だ?」を疑う弟子たちの困惑
まず、外の背景は晩餐のはずなのに夕方や夜ではなく、青空である事からこれは朝ごはんだろうという事。それに机に灯りとなる蝋燭などもないのも判断のポイント
次に、キリストの右隣りにいる弟子はキリストの左手を見て「どうして、磔にされたはずなのに手には傷痕が無いのか?」と困惑の表情をしていると言われればそうだし、もう一人の弟子は上を指さしていて「十字架につるされたはずだよな?」と言いたげだ
キリストの隣のマリアorヨハネが思いつめたような表情で右手にナイフを持っているが、それをグッと引っ張って掴まれていて、ペテロが「まて!はやまるな…」、もしくは「生かしておけ」と悪だくみのような表情で耳元で囁いているようにも見える(※画像の吹き出しは最初のミスリードにはまりましたw)
最後の晩餐でよく話題になる裏切り者のユダは財布を握りしめて警戒している(でも、こいつは違う意味でキリスト恐れてる?金目的の裏切り者であってるかも?ユダだけのけぞってキリストから距離をとってるのは心理状態を表している?)
つまり、この絵はキリストが死ぬ前に、自分を妄信する弟子たちとわいわいご飯を食べている姿ではなく、磔から3日後に復活して帰ってきたキリストを囲んで朝ご飯を食べる際に、キリストをよく知る弟子たちから見ても、お前は何者だ?と疑われている作品と思って見てみると・・
この距離感は慕われてる人の距離感じゃないよね?と思う
他の弟子たち同士の密着の距離感こそが仲間の証であって
完全に村八分の絶妙な疎外感(笑)
とてもじゃないけどタイトルや絵に関する説明の情報との違和感を感じる訳だ
そして、このキリストに対し弟子たちのお前は何者だ?の解釈が正しいと肯定した場合、あの世間を騒がせた絵の修復事件が脳裏をよぎった
ちなみにこの絵の修復した人は批判してきた世間にこんな事を言っている
尚、この教会の修復絵は直さない事で話題になり、多くの観光客が訪れ町への経済効果に繋がった事から、本当の意味で神の啓示だったのかもしれない(深い)
修復した絵師の美的感覚を世界中の人が疑ったが・・でもそれが宗教への冒涜でないとしたら?その人が絵から感じ取った事こそが、本当のキリストの姿なのでは?
なんで、そんな訳・・って思うじゃん?( ̄ー ̄)ニヤリ (゚Д゚;)
実は、エコノミスト2017の表紙にはこんな意味深なカードが登場している
キリストがVRゴーグルつけて3Dプリンター押してるという姿が何を意味するか?(考えよう)
ちなみに私が初めて明晰夢で夢の住人と会話した時VRという言葉がキーポイントだったのを記録している
実際、そこから現実はVR・・!?という仮説で様々な物事を捉えていくとどんどん当てはまってくるから不思議だ
ドローンでゴーグルをつけてFPVで肉体を離れた意識を経験し、PSVRなどで仮想空間と現実との差異を覚え、ヘミシンク周波数でのブレインマシンで脳への影響、幽体離脱や明晰夢などなど・・気が付けばどっぷりとVRとは何か?の体感修行をしてきたかのようだ(導き?)
そういう意味では来年のエコノミストの情報は知っておけば世界(現世)の見え方が違うって本当かもしれないので、先読みしときんさい(/・ω・)/精神的よりだいぶ物質的やね、うん
まとめ:ダビンチはこの絵で何を伝えたかったのか?
今でもキリストは現存したとか、しないとか古書や聖書などから議論されているのだけど、その見た事もないキリストを宗教的な概念やニュアンスを形として偶像に仕上げる必要があったダビンチにとって
そのキリストなる人物が行った人為的にはあり得ない奇跡の数々から、人間じゃない存在と理解したのかもしれない
そのもっともおかしい奇跡が死からの復活
死者の蘇生を一番信じられないのは身近な人間です
実際、死んだという概念が宗教上の死や物質的な認知の死であり、それを見届け頭で理解して処理した後に、その死んだはずの人が復活したと言われても
諸手を挙げておかえり!(ノД`)・゜・。 なんて言えないですよ?
むしろ・・はぁ?!?(;゚Д゚)マジかよ・・え?本物!? ってなると思います
今の時代だったらDNAからの復元、クローン技術を疑ってしまいますね(意味深)
それを表しているのが、右の二人のあたふた感であり
何かを知ってて思いつめた表情でナイフを握るヨハネ・マリアであり、それを察知して止めるペテロであり
やべぇ・・(;・∀・)俺が裏切って金盗んだのバレる~と後ろにのけぞるユダの姿勢であり
この弟子たちが弟子たちであるがゆえに、キリスト復活に困惑している絵
もしも、これが復活後の朝ごはんの混乱というタイトルなら私はそれで納得できます(笑)
身近な死者の復活の恐怖ついては、映画トランセンデンスを見れば一発理解しますよ
この映画は・・(見てのお楽しみ)
そうなると・・言いたい事は、復活後のキリストは・・本当にキリストか?という事になる訳です
新しい教義にすり替わってないか?偽物ではないか?という表現を残したのではとも感じます
そして、それを捻じ曲げる事ができるのが歴史の修正や湾曲・解釈の改定です。このキリストの左の人物をヨハネとする解釈もあれば、マリアとする書物もあり、どっちにしても、人物が変わってしまえば伝わる意味が変わってくる訳ですね
本当なら、ナイフを持った腕が引っ張られてるからヨハネorマリアが傾いてるのだけど、それがユダがナイフを持ち、それをペテロが抑えている構図に変わっている(2つの事がひとつに統一されユダの財布が消失)
あと、これが最後の晩餐なら、手を握る行為によってキリストとマリアが蜜月の中であったというスキャンダルになるが、復活後の朝ごはんなら「マリアよ、私は本物だから君だけは信じてくれ」と手を握っているようにも解釈できるし
そうなると、ユダは保身のためにナイフを握るがペテロがそれを制止して、マリアの耳元で悪だくみを吹き込む様子に見えなくもない・・といういくらでも解釈のミスリードに飲み込まれていく・・
どっちにしてもペトロは変わらないが、そしてペトロはのちに初代ローマ教皇となるのです
ありゃりゃ(;・∀・)がっつり物欲の権威ですな、耳元での囁きは悪だくみのほうだったのかな
ま、そんなこんなんでダビンチ没後に絵に手を加えられるなど、キリスト教というか信仰も一枚岩じゃなかった事や、神の啓示で修復したキリストの絵が人間ではなかったっていうのも真実なのではないか?という気もします(これについてはまた別記事でw)
このようにタイトルが「最後の晩餐」であっても、それは聖書の一説に基づいて再現したという意図的に与えられた情報でのみ判断すると、思い込みの空間世界にはまって抜け出せなくなりますが、本当はもっと違う解釈や物の見方や捉え方があるんだよ?とアインシュタインはこんなヒントを残してくれたぜ?
いずにれにしても、とてもおもしろい解釈で有意義な書物に出会えました(∩´∀`)∩ ちなみにこれはまだまだ出だしの内容(笑)
もっと深い内容書いてますので気になったらこの「イルミナティと神 ダヴィンチ驚愕の能力の秘密」を読んで下さい
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