好奇心

直感・閃き・気になる事探究を楽しむ

名もなき詩に隠れた釈迦(大丈夫)への道

ただの流行歌だったはずのものが、人生経験を経て別の顔を見せ始める『自分らしさの檻』を砕いた鳥籠の破片が『沙の仏塔』になり「時が過ぎて、歌の中から誰かが出てきた。」という気づきの記録

空虚に至るまで導きの名

釈 問題を解決する
迦 巡り合う

空 有無の空間
海 形なき流れの密度

日 大日の下
蓮 蓮華の視座

人に反する名=『仮名』を得た人
彼らは名もなき詩=『言う寺』

と、捉えた時
名もなき詩って…と歌詞を考え直してみる

…と、ここで『仮死した静寂の言葉』でも『可視できる』ようにすると『廃仏毀釈の言論封鎖の呪縛』の如く、『ジャスティス』を主張して、ジャストなカモを見つけて『ラク』するハイエナが現れるので

元になる歌詞の中身は『念仏読経』して下さい

では始まりの部分

誰が誰を疑っているか?
『吾』が『心』を疑っている=悟ができていない

心は『エゴ』を全部食べて『真実』を捧ぐ
人と共に悩みや障害養う『供養』を覚える

これは『心+吾=悟を覚える覚悟』への導き

ここが導入部分と解れば
残りの『寂び』の箇所の自己解釈ができるだろう

自ら己で釈迦を解け
名もなき詩の『足元に転がってる沙』を
あるがままの『童子の心』で集めて完成させる沙の仏塔

体感なくして理解なしの『愛と情』という『悟りを覚えて』捧ぐ詩

『万人が通る道』であり、いずれは『悟る道』
『エゴである吾』が満たされるように『心が導く』

心の導きの中で『吾があるがまま』感じる
それは『欲を張る』のではなく『足りない物』として
『足る』を知れば覚えて『満足できる物語』

『完成』するまで『名と立場=宗(示)』が必要だが
『完成』したら名もなき詩=『密度のある真言=完(元)』のみ

わかるかな〜わっかんねーだろうな〜
体験してみればいいよ、そしたらわかる

と言うような『通り過ぎた道筋の軌跡』
「成程!」と足るを知り『満足に成る過程』

…私はMr.children世代で、なぜかこの歌が『無意識に好き』で気に入っていた(初めて自腹で買ったCDかも)
特にCメロの畳み掛けるような、『ラップ』とも言えない『韻踏みのメッセージ』の厚みの密度

当時の私は『成り行き任せな恋』はしてなかった『一途だった』からピンと来なかったが…その『一途さを失った』時に、何気なく『口から虚=嘘っぽく感じていた言葉』が、身に染みる『成り行き任せの体験密度』ができた状態では、物凄く『密度=失敗の先人の智慧』を感じた

特に『誰かを思いやる優しさが仇』になり、『自分の胸に突き刺さる』と言う悲痛な部分

「だけど…」と言うその『嘆きからの反転』の転調こそ
『金剛界』から『胎蔵界』へのあるがままの逢魔が時の『金輪際の見極め』

それでも…というのは『無い事にして問題から逃げる』のでなく、『それも有るがまま』、そして『素直な心も有るがまま』の『難が有る』けど

難が有るから『有難い』と『成長できる事』に気づき、それは『愛と言う恩恵の巡りの形の無いもの』

『伝える=悟りを覚えさせる』のは困難である
『心』は導き『吾』に体験させる『デモ(お試し、仮想)』

可愛い子には『旅』をさせろ
その『度』、一つずつ成長する

『莫迦は死ななきゃ治らない』が『莫迦は夢の中で何度も死ぬ行為』をする
つまり、その度、『密度ある体験』で『自分らしさと言う檻の中』という思い込みが治る

らしさ…と言う『外枠』が消え
自分という『分離した分身』が消え
自ら然るべき人の本質=『自然体(有るがまま)』に向き合う

そんな自然体に『成る悟り』を覚えて『覚悟』した
そんな『心と吾が一体』になる『名もなき詩』

あの当時の私は、『流行り』と言う『成り行き任せ』でMr.childrenのこの歌に出会った
歌なんて『星の数』ほど『流行病』のように目から耳から入っては『流れて出ていった』が…

それでも、『時が過ぎて風化』して『更地の砂場に戻った名もなき詩』が『可視』した事で『仮死状態から復活』した
『心の中』から『吾』が見つけて『沙の仏塔』を建てたら、まーた、『釈迦=問題解決で大丈夫』に出逢いました(笑)

釈迦

なんだろうね?
だんだん分かってきたぞ?

入滅後に始まった『釈迦の隠れんぼ』

隠れんぼという『鬼ごっこ』
「鬼さんこちら」という『魂』は隠れた『見つける場所のヒント』を言葉に遺す
『古事成語、ことわざ』を掘り返せば『舎利石=釈迦の言葉』は見つかると

そもそも、『大事な言葉』こそ『仮死状態』
掘り返そうとすると鬼門の禁忌と『言論封鎖、弾圧』が起きる

『臭い物に蓋=レッテルや権利で護る…責任』と言うなの『既得権益』によって、『間違いを間違いのまま思い込みで保管』している…ような『凝り固まった固定概念の檻の中』にあるブツブツ言ってる『間違った真言念仏(金言)を解放』するのは…難儀な事だが…

元々、その真言は『自然の中』でそれを『体感で生み出したもの達』が『手放した名』である事から

『自然と体』が向き合えば
『自ら然るべき人の本性』が向き合えば
『心と吾』が向き合えば

自然体=『悟りを覚える=覚悟』とわかる
その「成程!」に至る『過程にある名もなき存在』が

釈 問題を解決する
迦 巡り合う

空 有無の空間
海 形なき流れの密度

日 大日の下
蓮 蓮華の視座

必然的に『名(固定概念)を手放す道という軌跡』を示している
私はこれを『道理=タオ』だと思う

「老いては子に従え」という老子道徳経は『新陳代謝』

『大人の汚い邪推』の世界(古い角質)
『子供の清らかな純粋』な世界(新陳代謝)

表現が変わる=『表に現れる形』が違う
『沙の自然』に戻った『悟りの覚え』が隠れた後は

どんな形で『身近に潜んでいる』かは、『云う鬼=魂が導く指導に素直な童子』じゃ無いと見つからない

気がつくと、「あ…こんな所にあった(笑)」

もう『出会っていた』が気づけなかっただけ

未来は先に来ていた──『感が得る』が完成させた不可思議

名が体を現すのではなく、体が名を現すに反転すると世界は変わる!?

訳詞如来とmRNA 〜足りないを和足す変異の説法〜

臨界点を超える意識 九字護身法と臨機応変の間にあったもの

最先端の学問が後から追いついてきた ― AIが証明した好奇心の学習法

気づく為に『必要な足る』を知り、『満足した心と吾を覚えた覚悟』がなかったから

『感覚』では「気になる…」と『心』に留めておいても
それが何なのか『ぼんやりと朧気』だった

『メモ書きのように留めた』という事は、『他の流行歌』と同じように
『一過性で無くしちゃいけない歌』だと感じていたのだろう

『体験密度を増す=解像度が明確、明晰』になる
今までの体験の軌跡が『明晰な夢』のように感じた時

これからは、それが『朧気な低解像度の仮想世界』のようにぼやけてどうでも良く成る
ただそれだけな『真言の悟り』もある

そういう『解脱感』は、例えるなら『多段式ロケットエンジンの切り離し』のようなもので、『加速に必要な足る』を知ったら、「有難う御役目ご苦労様」と離れて分かれるようなもので…

え、あ?そういう事?(笑)

『形が破壊』されて『お釈迦』になったとか
『崩れてお陀仏』して『更地になった』とかではなく…

『ロケットダイブで飛んでった』って事か(笑)そりゃ跡形も残らない
せいぜい残るのは打ち上げ台の痕跡の『三和土の頑丈さ=塵=鹿土』しかねぇ

『釈迦入滅後』の『隠れんぼな鬼ごっこ』は
地上を離れたが…かといって『物理的な空間』の『時の延長の宇宙という方向』でも無い

…なるほど
新しい何かが俺の中で目覚める、世界は廻る(何かを閃く→SPARK)

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