伝統的なキリスト教の「天国と地獄(最後の審判)」の概念を否定し、魂の成長度合いに応じたグラデーション状の死後世界を説いたという、アンドリュー・ジャクソン・デイヴィスのサマーランド説、ウイッカ(魔女術)におけるサマーランド説、未知との遭遇→体が芯まで冷えて意識が飛ぶ→夢で極楽リゾートを体験をしてきた結果、サマーランドじゃね?と興味をもったのでサマーランドについて洞察
あれはサマーランドだったのか?
前回、私は強烈な『芯から冷える体験』の後に意識は『極楽のリゾートを満喫するという夢』を見た事を振り返り、それがスピリチュアルで言う『サマーランド』という概念では?と体感から感じた時
そもそも・・そのサマーランドという概念は『誰』が生み出したんだ?と調べてみたら、でてきたのが
アンドリュー・ジャクソン・デイヴィス(1826–1910)
著書の中で霊界の階層の一つとしてこの言葉を用いたことで定着しました。彼は伝統的なキリスト教の「天国と地獄(最後の審判)」の概念を否定し、魂の成長度合いに応じたグラデーション状の死後世界を説きました
これは『意識の研究』をまじめにやっている人ならすぐに理解する表現で、『魂の成長度合いに応じたグラデーション』とは、ロバート・モンローにおいては『意識のフォーカス階層』の話
また『空海の即身成仏』における『十の階層表現』
私の独自の感覚で言えば、『魂の経験値で見える世界の捉え方が変わる』ような
単純に、「神様が~!仏様が~!」という曖昧で朦朧とした、『無知蒙昧な子供騙しのような天国地獄論』というのは、極めて『解像度』の低い、『理論』も無ければ、『脚本を書く文系』でもない
「ナメてんのか?」という抽象的な『B級映画信仰宗教』に感じるから、伝統的なキリスト教の「天国と地獄(最後の審判)」の概念を否定し、魂の成長度合いに応じたグラデーション状の死後世界を説いたというアンドリュー・ジャクソン・デイヴィスの『生き様』に興味を持った
仮にオリジナルの『真』がシンプルに『ひとつの物事の捉え方の見え方の変化=成長物語』だとしたら、『信仰宗教』というのは、その『一部から都合よく派生』した『非公式の自慰識過剰な同人本の出版』のようなもので
総じて、『欲求を晴らす薄い本(ご都合展開のエロ・欲・教義)』になる
だから、『サマーランド』という自己表現を『体感してない無い人』は具体的に言わず、例えば『幽界の上の層』とか、魂の生まれ変わりの『待つ場所』とか・・『位置・存在を定義』するが『名前の由来や内容』に触れてない
しかし、『名は体を現す』ように、『体が名を現す』ように、サマーランド=『夏の島・夏の大陸』という、遊園地っぽい名前がつく理由は
それは『イメージを伝える』のに「まるでその世界は夏の午後の如く~」と夏の午後、夕方の手前、日も穏やかで風も心地よいという、絶妙に『ノスタルジックな楽しいの最高潮』がずっとある空間
子供とか大人とか容姿とか関係なく、ただそこにいる人達からは『楽しさ』が伝わってきた
・・とサマーランドの『中身を伝える私』は、たぶん、『あれがサマーランド(概念)なんだろう』という『体験を明晰夢』でしてきているから
『体感が先』で『理解が後』
あの『夏の午後』のような『極楽リゾート地の明晰夢の体験』はなんだったのだ?が先。その『前』には、恐怖と向き合い極寒の芯まで冷える『未知とのコンタクトで意識飛ぶ』という現実が先
ある意味で『客観』があれば『体温急速低下→仮死状態』=「死後の世界逝ってるやん!」とも取れるが、あくまでも『主観』では、冷たい→意識飛ぶ→もう『夏の極楽リゾート』なので『現実の体(固定概念)』を忘れている
そういう意味では、魔女の現代のウイッカでは、魂が神(女神と男神)の愛に包まれながら『次の転生(生まれ変わり)を待つ一時的な安息の地』として信仰されているというのもわからないでもない
『魔女』という認識で言えば、それもまた『夢で体験』しているから、その時は、おそらく『下層領域』だったのだろう
あの空間で『現実を忘れて楽しんでいる間』は、過去も未来も役目も何も無い、本当の意味でリフレッシュしているが・・
私はそういう『現実には無い環境』だからこそ、現実との明晰な『対比構造』で見比べてしまい、『気になる事』を『夢日記体験』として書いてまとめたい=『現実に観測を持ち還る目的意識』が生まれてしまっている(笑)
・・ってか、それ『妙見狸の訳詞如来』のせいじゃね?、俺が宿した如来は『妙な事』を見つけると、あっちこっちに『心が先に多動』するからな(体は多動しないから病気ではない)
結局の所、これもまた魂の経験値での見え方・捉え方なんだろうけど
確かに
①魂の成長度合いに応じたグラデーション状の死後世界(人によって違う)
②魂が神(女神と男神)の愛に包まれながら次の転生(生まれ変わり)を待つ一時的な安息の地
『意識して観測する対象』の『命題世界』が生まれる前の『未だに何もない・持たざる世界』
持たざる者とは『執着が無い』から何物・何者にでもなれる『現一切色心三昧』の如来の如く
実際、私には『極楽のプール遊園地』のように感じて見えていたから、『夏の遊び場=サマーランド』と後からでも単純に『納悳できる印象』だったが、それもまた、やはり、『魂の成長度合い』では見え方がまったく違うのだと思う
例えば、夏の午後と聞いて、『水着ではしゃぐ景色』を創造する人もいれば、もう泳ぎ終わって、濡れた髪も乾いて、Tシャツが風で揺れる『夕日が沈む海辺の景色』を眺めて、『ノスタルジー=懐かしさに浸っている』と創造する状態は
『懐かしさ=ルーツを辿る目的意識の観測』へと徐々にシフトしているから、サマーランドは『生まれ変わりを待つ夢の終わり』という気締めでもあるのだと思う
これは、『理論(物質・人)と文系(精神・魔女)』の『両方の角度からのアプローチ』で『表現方法・例え』が違うだけで、『伝えたい事は同じ』なんだろうと感じた
ま、私の場合は、主観の体感という『心に残る余韻が元=完成を元』にした『示しの始まり=宗』なので、『教え』ではなく『感覚』です
そのきっかけは、未知との遭遇だったけれど、精神は未知ではなく、臨んでいた機会に応じて変わっただけという
『臨機応変』に『縁の起こりで起承転結』したというだけの気づき














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